第九話 皇帝陛下は忘れられない。
皇帝になると決めたときから、周囲のすべては敵になる。
それはわかっていた。わかった上で選んだ道のつもりだった。どうせ皇帝にならなければ皇帝になった異母兄弟に殺されるだけだ。
だが毒蛇を放ってきたのが宰相──身分が低く元から後ろ盾にはなり得なかった母の死後、ずっと余を支えてくれていた男だったのには落ち込んだ。あやつの娘を余の妃に迎えるという話もあったんだぞ? すべてを暴いたとき、助けてくれた神涙獣を逆恨みしたくなった。
それでもまあ、生き延びた以上生き続けなくてはならない。
恩知らずと罵られながらも宰相の一族を処刑して、余は皇帝として即位した。宰相が余を暗殺しようとしたのは、余の即位が確実となって焦った異母兄が声をかけてきたかららしい。その異母兄は宰相の一族とは対立していた大貴族の娘を母に持つ、いわゆる高貴な生まれであった。結局宰相は血筋を選んだのだ。
異母兄のほうが余よりも頭が軽く、担ぎやすいと思ったのかもしれないがな。
身分の低い母から生まれた余に反発する帝国貴族達はときに叩きのめし、ときに多少の蜜を与えてあしらっていく。
属国や近隣諸国には弱みを見せず、さりとて窮鼠猫を噛むような真似はさせぬよう逃げ道は与えておく。
余に対する平民の支持は最初から高かったが、それは自分にとって都合の良い夢を見ていたからに過ぎない。公共設備の設立維持管理、必要なところに税金を割り振っていっているのにお零れがないと奴らは騒ぐ。都市の病院に上下水道、都市間の街道が無くなったらどうなるかなんて考えてもいない。
反乱分子どもの集う帝都から離れたくないのに、魔獣は大暴走を起こして余を疲弊させる。
北のフィーニス王国との国境沿いにある魔の森は宝の宝庫だ。凶悪な魔獣が溢れている代わり、奴らを倒せば高額素材が手に入る。今でこそ友好国だが、古来から王国とは魔の森を巡って争いが続いていた。
魔の森に帝国軍を派遣しなければ王国が所有権を主張し出すだろうし、余が帝国軍を率いなければ軍部の支持を失うだろう。もちろん魔の森以外でも大暴走は起こる。
……ああ、頭が痛いっ!
余の眉間には皺が刻まれて、いつでも怒っているのだと思われている。
一応軍部の支持は保っているものの、男など金と女で簡単に莫迦になる。取り締まりはしているものの、妙な邪教が信者を増やしているという。見張りの衛兵にまで裏切られるようなら、もう打つ手はない。どうにでもなれ。
そんな気分で、余は激務の合間を縫ってだれもいない後宮の中庭で昼寝をしていた。
同じ場所で助けてくれた神涙獣が、また助けてくれるだなんて期待はしていない。
聖にも邪にもなる人外は気まぐれだ。鼠を甚振る猫のように気分次第で余のことも嬲り殺すだろう。
人間の願いを叶えたら聖獣になるなんて話もあるが、邪獣になって災いを引き起こした数のほうが遥かに多いと聞く。願う人間のほうも薄汚いのだから当然だ。他者を害してくれという願いを叶えた神涙獣が聖獣になれるとは思えない。
『……この皇帝を誑し込んで王子様を見返してみちゃどうだい?』
目覚めと眠りの狭間を漂っていたら、神涙獣の音の無い声がした。
大胆なことに自分だけでなく、ほかの人間も連れて来たらしい。気配がする。おまけになにをほざいているのだか。少し寝返りを打って薄眼を開けてみたが、位置が悪くて姿は見えない。
相手をする気にもなれなくて、余は寝た振りを続けた。熟睡出来なくても目を閉じていれば少しは楽になる。
神涙獣は同行者となにやら話していたが、うつらうつらしている余には同行者の声は聞こえてこなかった。
彼女は声を潜めているようだ。……余を誑かすとか言っていたのだから女だろう。
太陽の位置が変わったのか、日差しが少し和らいだ。
視線を感じる。
値踏みされているのかもしれない。失礼な女だ。
いきなり起き上がってからかってやろうか、と思い始めたとき、
「……泣かないで、赤ちゃん。お星様が見てるお月様が見てる、お日様もあなたを見てる。優しい神様の涙が、あなたの揺り篭揺らしてくれる……」
女は子守唄を歌い始めた。
どうやら余がうなされていると勘違いしたらしい。
ふざけるな、と怒鳴りつけてやりたいのに言葉が出ない。彼女の声は心地良かった。考えてみると、突然日差しが和らいだのは彼女が鉢植えの観葉植物を動かしてくれたからかもしれない。やがて女は近づいてきた。余の体から落ちた掛け布を拾ってかけ直そうとしている。
「……だれが赤ちゃんだ。余は泣いてなどおらんぞ」
余は彼女の腕を掴んだ。細い腕だ。
女は余が死ぬなどと不吉な予言を残して去っていった。次に来る日があるかどうかはわからない。死についての情報はそれなりに得られたので問題はない。
ないのに──余は忘れられない。彼女の赤みがかった茶色い髪の感触を、余を映していた煌めく緑色の瞳を。




