第七話 皇帝はいかが?
神涙獣様はニヤリと笑います。
楽しいときの笑いではありません。怒ったときの笑いです。
六歳の私が泣きながら婚約相手のエルトン王太子殿下の話をしたときも、この笑みを浮かべていました。そのまま邪獣になってしまうのではないかと心配になったのもあって、慌てて彼との結婚をお願いしたのです。私の未来の結婚相手なら、私を愛し子と慈しんでくださる神涙獣様もお守りくださるはずですからね。
『そうだったね、愛し子。あのとき、アタシは見ていたよ。アンタの優しさが王子様にも加護を及ぼし続けていたせいで、なにも出来ない自分に怒り狂いながらね』
そういえば、あのときの尻尾の動きは速かった気がします。
猫に似た姿を取っている神涙獣様は猫と同じように、不機嫌なときは尻尾を激しく動かし、上機嫌なときはゆっくりと動かすのです。
私は、思わず自分の首を指でなぞりました。
「……あれは、本当にあったことだったのですか?」
『そうだよ。アタシが怒り狂っちまったから時間が巻き戻ったのさ』
「そんなことまでお出来になるんですか?」
『……ふふふ』
怒りの笑顔をからかうような微笑みに変えて、神涙獣様はおっしゃいました。
『アタシがここから移動出来るのは狭間のときさ。夜と昼の間の暁、昼と夜の間の夕暮れ、晴れと雨の間の……今』
いつの間にか、辺りは真っ暗になっていました。
まだ昼前ですが、空が雨雲に覆われていたのです。少し離れたところにいる侍女が、心配そうな顔でこちらを見ています。私に近寄ることで、神涙獣様のご不興を買うのではないかと案じているのです。
神涙獣様は屋敷の中には入れたでしょうか。実体がないので雨に濡れることはないかもしれませんが、せっかくお会いしたのでまだお話を続けたいのです。
『降り出してしまったら、もう移動は出来ない。ちょうどいいから、一緒に行こうか』
「どこへですか?」
『王子様なんか見返してやれるだけのイイ男のところへだよ』
「え?」
「お嬢様っ!」
神涙獣様はしゅるりと尻尾を伸ばして、私に巻き付けました。
背後から侍女の慌てた叫びと駆け寄ってくる足音が近づいてきます。
ですが私は彼女の呼びかけに答えるより早く、神涙獣様と狭間に落ちてしまっていたのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『着いたよ』
「はあ……」
甘い香りに包まれて、辺りを見回します。
そこは異国調の庭でした。甘い香りは色鮮やかな果実の木々から漂っています。
涼やかな流音を奏でる泉水の前に長椅子が置かれ、ひとりの青年が横たわっていました。今にも燃え上がりそうな真紅の髪に逞しい褐色の肌、南のプリンキピウム帝国の方のようです。帝国と我がフィーニス王国は現在友好状態にあり、過去には何度も婚姻が結ばれています。だからといって、許可も得ずに訪れるのは犯罪です。
「神涙獣様、私達はフィーニス王国へ帰れるのでしょうか?」
『帰れるよ。というか、向こうで雨が止みかけたら無理矢理戻されるさ。それよりあの男はどうだい、愛し子。プリンキピウム帝国の皇帝だよ?』
「え、あ、どうって……あの方、帝国の皇帝陛下なんですか?」
青年を起こさないよう、私は声を潜めて尋ねました。
『そうだよ。ここは帝国の宮殿、後宮の中庭さ。もっともあの皇帝、母親の身分が低かったせいで帝国の貴族連中に疎まれているから、まだ後宮の住人はいないんだけどね』
彼が即位するときは、帝国内で大変な騒ぎが起こったと言います。反対する派閥が暴れたからです。ですが、彼は反対勢力を見事に治めて即位しました。
今は国内外ともに優秀な皇帝だと評価されています。それでも帝国貴族には反発されているのですね。
そして未来。あの未来が本当だったのなら、彼の死後の帝国はさらに大変なことになります。皇帝の座を狙う者達が内乱を起こすのです。だれも収められる者はいません。
エルトン王太子殿下との婚約を解消した私の処刑はなくなるかもしれませんが、魔獣の大暴走は人知ではどうしようもないことです。
あれは邪獣のせいではなく野生の魔獣が元凶でした。それも最強の魔獣ドラゴンでした。
帝国の未来、目の前で眠る青年の未来を変えることは出来ません。
『まあちょうど良かったよ。アタシの愛し子を側妃や愛妾にさせる気はないからね』
神涙獣様は厨房の猫が鼠を獲って来たときの顔でおっしゃいます。
『願い事はともかくとして、この皇帝を誑し込んで王子様を見返してみちゃどうだい?』
「神涙獣様……」
せっかくのお勧めをお断りしたら、神涙獣様はお怒りになるでしょうか?




