第10話 ──「あなたの、その優しさが」
「……っ。嫌っす。嫌っすよ、こんなの」
カイトは、震える手で、スイ姫の背中の傷を必死に押さえた。
指の間から、温かい血が、止めどなく溢れてくる。
止まらない。塞がらない。
――だめだ。それは、カイトにも、わかっていた。
他人の血は、操れない。
人の血には、その人自身の魔力が流れている。
だから、カイトの魔力を決して受け付けない。
押し込もうとしても、弾かれてしまう。
わかっている。わかっているのに。
「……っ、なんで。なんで、止まらないんすか……!」
わかっていて、なお。
カイトは、必死にその傷口を押さえ続けた。
「ふん」
頭上から、冷たい声が、降ってくる。
ハングラルが、黒い剣を提げたまま、二人を見下ろしていた。
「案ずるな。……順番は変わったが、お前も、すぐに、姫のもとへ、送ってやる」
肩で、大きく息をしながら。
それでも、二人まとめて斬り伏せるべく、黒い剣を、ゆっくりと持ち上げていく。
カイトの体は、もう限界だった。
これ以上、血を操れば――自分が死ぬ。
本能が、自身の血を、もう動かそうとしない。
かといって、操れる水は一滴もない。
武器も、力も、何もかも、尽きていた。
それでも。
カイトは、スイ姫を抱きしめたまま、その掌にありったけの想いを込めた。
「動け……っ。なんでもいい。血でも、水でも……頼むから、動いてくれ……!」
叫ぶ。願う。祈る。
だが――何も、起きない。
指先は、氷みたいに冷たいまま、ぴくりとも応えてはくれなかった。
……誰か……
目の前の世界が、絶望に満ちた。
その、瞬間だった。
ふいに、カイトの手のひらから、何かが、すうっと、流れ出ていく感覚があった。
自分の、魔力だ。
……え? 流れてる……? でも、どこに――
水は、ない。自分の血も、もう動かせない。
なら、この魔力は、いったい、何に――。
カイトは、震える視線を、ゆっくりと、手元へ落とした。
その、掌の下。
あたたかく、こんこんと、あふれ続けている、それは。
――スイ姫の、血だった。
「……なんで」
他人の血は、操れない。他人の魔力が、受け付けない。
なのに――今、確かに。スイ姫の血が、カイトの魔力を拒まなかった。
むしろ、優しく、受け入れていた。
まるで、温かい手に、そっと、包まれるみたいに。
浄化の力なのか。それとも、スイ姫の優しさゆえか。
理屈なんて、わからない。
ただ――目の前の、この人を助けたい。
その想いだけが、凍りついた指先を突き動かした。
ハングラルの黒い剣が、とどめとばかりに、真上から振り下ろされる。
――そのとき。
スイ姫の背に、あふれていた血が、ふわり、と一点に集まった。
西に傾きはじめた陽を受けて、透き通った赤い雫が、優しく輝く。
「――『純水弾』」
その呟きは、風に消えるほど、静かだった。
次の、瞬間。
赤く輝く弾丸が、スイ姫の背から、音もなく――ハングラルの胸へと撃ち出された。
勝ったと、油断しきった、その懐へ。
防ぐことも、避けることも、できない至近の一発。
優しい光をまとった弾丸は、あの、すべてを吸い取るはずの魔剣にも、その闇にも、触れることなく。
まっすぐに、ハングラルの胸を、貫いた。
「……が、は……っ」
振り上げたままの、黒い剣が止まる。
ハングラルの目から、すうっと、濁った光が、抜け落ちていった。
「……ば、かな……。まさか……姫様、の……っ」
信じられない、という顔の、まま。
その手から、黒い剣が、からん、と、乾いた音を立てて、床に転がり落ちる。
大柄な体が、ぐらり、と傾いた。
そして、糸の切れた人形みたいに、屋上の床へと、どさりと崩れ落ちる。
もう、動かない。
だが――カイトは、その光景を、見てすらいなかった。
「……早く、スイ姫を――」
視線は、腕の中の、スイ姫だけに注がれている。
その背中からは、今も、血があふれ続けていた。
カイトは、もう一度、そっと、傷口へ手をかざす。
さっき、確かに繋がった、あの感覚を、もう一度、たぐり寄せる。
――応えてくれた。
流れ出ようとしていた血が、カイトの魔力に導かれて、ぴたり、と動きを止める。
「……そう。そのまま。……いい子っすね」
あふれかけた赤を、ゆっくりと、傷口の内側へ、押し戻していく。
まるで、水芸で、こぼさず水を操るみたいに。
けれど、いつもの何倍も、慎重に、優しく。
やがて――にじみ出ていた血が、少しずつ、少しずつ、収まり、そして、止まった。
傷が、塞がったわけじゃない。そんな力は、ない。
でも、これで。もう、これ以上は、流れ出ない。
あとは、ちゃんとした手当てが、間に合えば――きっと、助かる。
張りつめていた、スイ姫の呼吸が。ほんの少しだけ、楽になった気がした。
「……はぁ」
全身から、どっと、力が抜ける。
「……勝った、っすよ。お姫様」
ぽつりと、呟く。
その目に、じわり、と、涙が、にじんだ。
ふと、あの日の、馬車の中の光景がよみがえる。
傷ついた腕に、そっと手をかざしてくれた、あの、優しい温かさ。
――わたしの力で、人のためにできることなんて、これくらいですから。
そう、寂しそうに笑っていた。
こぼれた涙を、拭いもせず。
カイトは、腕の中の彼女へ、そっと、囁いた。
「……言ったでしょ。スイ姫」
「あなたの、その優しさが。……ちゃんと、この国を、救ったんすよ」
そう、言い終えたとたん。
ぷつり、と張りつめていた糸が切れたみたいに。
カイトの体から、すうっと、力が抜けていった。
すでに限界の体を、「この人を護る」という、ただ一念だけで、繋ぎ止めていたのだ。
視界が、ゆっくりと、暗んでいく。
それでも、腕の力だけは緩めなかった。スイ姫を、抱きしめたまま。
カイトの意識は、優しい夕焼けの光の中へ、とろけるように沈んでいった。
西に傾いた陽が、遠くの空を、夕焼けの色に染めていく。
あたたかなその光が、寄り添って倒れる二人を、そっと、包み込んでいた。




