第8話 ──「禁忌の、力」
水しぶきの中から、ゆらり、と影が立ち上がった。
ハングラルだった。
全身、ずぶ濡れ。けれど、その足取りに、乱れはない。致命傷には、ほど遠かった。
「……やってくれるな、レガリスの守護者よ」
濁った目が、ぎろりとカイトを睨む。
「だが、言ったはずだ。この剣の前では、お前の水など――ただの、遊びに過ぎん」
黒い剣が、低い音を立てた。
刃を包む、どす黒いオーラが、さらに濃く、深くなっていく。
カイトの背に、冷たいものが走った。
まだ、終わっていない。
ならば――もう一度。
空にわだかまっていた、巨大な水の龍が、ぐねりと身をくねらせる。
カイトが、突き出した手を、ぐっと握り込んだ。
「――もう一回、いくっすよ!」
龍が、咆哮するように、真上からハングラルめがけて落ちてくる。
空を覆う大量の水。逃げ場のない、津波の牙。
――だが。
ハングラルは、動じなかった。
黒い剣を、すっと、下段に構える。
そして、迫りくる水の壁へと、自ら一歩、踏み込んだ。
「見せてやろう。……騎士団長の剣を」
その瞬間、カイトは見た。
ハングラルという男の、本当の姿を。
「――ふっ」
短い呼気とともに、黒い剣が走った。
一閃。龍の首が、斬り飛ばされる。
斬られた断面から、キラキラと輝いていた光が、すうっと黒い刃へ吸い込まれていく。
命を失った水が、ただの重い塊になって、ぼたぼたと落ちた。
龍は再び、形を取り戻す。
しかし、斬撃は止まらない。
二閃。三閃。
うねって襲いくる胴を、腕を、尾を。
ハングラルは、流れに逆らって進む一匹の魚のように、水の中を、斬り裂きながら進んでいく。
長い年月を、剣とともに生きてきた者だけが持つ、静かで、揺るぎない太刀筋。
斬るたびに、黒い剣が、龍の魔力を、ごくり、ごくりと、飲み下していく。
刃は、いっそう黒く、重く。
振るうほどに、その闇を深めていった。
「そ、そんな……!?」
カイトの声が、引きつる。
あれほど巨大だった龍が、みるみるうちに、細く、小さく、削られていく。
――これが、国の騎士団長を担う男。
同じ剣を、そこらの兵士が握ったところで、この龍には、掠りもしないだろう。
黒い魔剣と、それを完璧に振るう、歴戦の騎士。
その二つが噛み合ったとき、それは、悪夢のような強さになった。
最後のひと振りが、龍の頭を、断ち切る。
天を衝いていた水の龍は、もう、ただの水となっていた。
力を失い、無力に、屋上いっぱいに崩れ落ちていく。
「……マジっすか。あんな量の水を……」
カイトの膝から、力が抜けかける。
「強すぎるっす……」
それでも、必死に、手を動かす。
足元に残った水をかき集め、壁を作ろうとする。
だが――魔剣の斬撃に、水の壁は、あっけなく、ただの水たまりに戻った。
「終わりだ」
ハングラルが、一気に、踏み込んだ。
黒い剣が、カイトの体を、鋭く斬り裂く。
「ぐ……っ!」
脇腹から、血が弾ける。
カイトが、片膝をつく。
水筒は空っぽ。武器は、ない。
そして、背後には、スイ姫。
逃げ場も、ない。
完全な、詰みだった。
「カイトさん……! もう、いいです……! このままじゃ……っ」
スイ姫の、悲痛な声。
カイトは、それを、背中で聞いた。
そして、ふう、といつものように、気だるげなため息をつく。
「やっぱり、おいらはダメっすね……」
「ふん、ようやく、あきらめたか」
ハングラルが笑う。
「……ほんとは、これだけは、使わないって、決めてたんすけどね」
膝をついたまま、自分の脇腹の傷に、そっと手を触れる。
「父ちゃんにも、固く禁じられてたんすけど――でも、しょうがないっすね」
「いまさら、何をしようと無駄だ!」
ハングラルが、とどめの一撃を、振り上げた。
その、瞬間だった。
カイトの傷口から、流れ出ていた血が――ふわり、と宙に浮かび上がった。
「『血操』」
カイトの言葉とともに、血が、赤黒く、ぎらぎらと光り出す。
さっきまでの、透き通った水とは、まるで違う。
見ているだけで、肌がひりつくような、すさまじいオーラ。
ハングラルの、振り上げた腕が、止まった。
「……ふん。今度は、血か」
低く、気だるげな声だった。
「水だの、血だの……お前の曲芸には、もう飽きた。――消えろ!」
黒い剣を、振り下ろす。
禍々しい剣先がカイトをとらえようとした、その時。
「『黒水壁』」
宙の血が、いっせいに広がり、赤黒い壁となって、その一撃を正面から受け止めた。
黒い刃が、赤い壁に弾き返される。
「……止めた、だと?」
カイトが、ゆっくりと、顔を上げた。
その目は、冷たく、鋭く、研ぎ澄まされていた。
「曲芸、っすか。……それは、ちょっと違うっすよ」
カイトが、片手を、すっと、前に向ける。
宙に浮いた血が、今度は、いくつもの小さな珠へと分かれていく。
「この血はね。ほぼ、おいらの魔力そのものなんす。その魔力は、今までの水とは比べ物にならない」
周りを漂っていた珠が、ぴたりと、そのてのひらの先へ、狙いを定めた。
「――喰らえ、『黒水弾』!」
放たれる。
水弾と、同じ。けれど、比べ物にならないほど、重く、速く、赤黒い弾丸。
「……ふん」
ハングラルが、黒い剣で、受け止めようとする。
だが。
ガキィンッ――!!
剣ごと、ハングラルの巨体が、後ろへ勢いよく弾き飛ばされる。
あの、すべてを吸い取る魔剣が、その一発に――押し負けたのだ。
「――ぐっ」
背を、壁に打ちつける。
片手を壁につき、ゆっくりと、体勢を立て直す。
その顔に動揺はない。
ただ、濁った目が、すっと、細くなる。
「……なるほど。ただの、曲芸ではなかったか」
黒い剣を、杖のように突いて、立ち上がる。
「確かに、威力も、速さも、一級品だ。……だが」
濁った目が、カイトの脇腹へ、じっと注がれる。
「わかっているはずだ。その技を使えば使うほど、お前自身の血が、減っていく。――血を流しすぎた時、お前は死を迎える」
「……ふん、だったら」
カイトが、へらり、と笑ってみせる。
「あんたが倒れるのが先か。おいらが力尽きるのが先か。勝負っすね」
「そ、そんな、カイトさん……! もう、やめてください……!」
スイ姫が、悲鳴のような声を上げた。
カイトは、ちらりと振り返り、いつもの、気の抜けた顔で笑う。
「大丈夫っすよ、スイ姫」
その間にも、脇腹の傷からは、血が流れ続けている。
それでも、顔には、出さない。
ただ、また、てのひらの周りへ、新たな血の珠を、いくつも浮かべていく。
「……おいらには、田舎でのーんびり、スローライフを送るっていう、でっかい夢があるんす」
浮かんだ血を、静かに従える。
そして、ハングラルへと、視線を戻した。
獣のような、冷たい目で。
「だから――こんな所じゃ、死なないっす。くたばるのは……あんたっすよ」




