第2話 ──「信じたく、なかった」
「さあ、こちらへ。ここなら安全です」
ハングラルに促され、スイ姫は、城の奥の一室へと足を踏み入れた。
窓の少ない、薄暗い部屋。人の気配は、ない。
「ここで、しばらくお待ちを。すぐに、事態は収まりますゆえ」
重い扉が、ぎい、と閉じる。
その音を、背中で聞きながら。スイ姫は、振り返らずに、静かに言った。
「……ハングラル。ひとつ、聞いてもいいですか」
「なんなりと」
「……やはり、この国を裏切ったのは、あなただったのですね」
部屋の空気が、ぴたりと、凍りついた。
スイ姫が、ゆっくりと、向き直る。
恐怖で、声は、少し震えていた。けれど、その背筋は、ぴんと伸びている。
大きな瞳は、まっすぐにハングラルを見据えて、決して、逸らさなかった。
ハングラルは――ふ、と、困ったように、眉を下げた。
「……これは、異なことを。姫様、いったい、何を、おっしゃっているのですか」
その顔は、いつもの、頼れる騎士団長のものだった。
穏やかで、誠実そうな。
「この身は、長年、この国の王家にお仕えしてまいりました。それを、裏切りだなどと……あんまりな、お言葉です」
よどみのない、弁明だった。並の相手なら、信じてしまうだろう。
だが、スイ姫は、首を、横に振った。
「もし、裏切り者が仕掛けてくるなら。それは、この式典の混乱に乗じてくるはず。……だとすれば、いちばん怪しいのは。この騒ぎの中で、真っ先にわたしへ近づいてきた、人間です」
一歩、踏み出す。
「そして、あなたは言いました。『安全な場所へ』と。……でも、連れてこられたのは、護衛の目も、人の気配もない、城のいちばん奥。本当にわたしを護るつもりなら、こんな場所を、選ぶはずがない」
「……偶然、でございましょう。たまたま、この部屋が、近かった。それだけのこと」
「では、これも偶然ですか」
スイ姫の声が、鋭くなった。
「わたしは、ある情報を、あなたに伝えていましたね。一般の者では、決して知りえない、この国の機密。……なのに、それを、敵は知っていた」
「……それは、私以外の幹部が、漏らしたのでは?」
スイ姫は、首を横に振る。
「いいえ、実は、その情報は……あなたにだけ、伝えていたものです」
ハングラルの、眉が。ぴくり、と動いた。
「あなただけが、知っていたこと。それが、外に漏れた。……これでも、まだ。偶然だと、言い張るおつもりですか」
沈黙が、落ちた。
ハングラルは、しばらく、無言で、スイ姫を見つめていた。
やがて――その口元が。
くっ、くっ、と、震え出す。
「……くく。ふ、はははっ」
低い笑いが、薄暗い部屋に、こぼれ落ちた。
それは、あの誠実な騎士団長の声では、なかった。
「……お見事です、姫様。まさか、あの情報が。この私を、試すための、罠だったとは」
顔を上げた、ハングラルの表情は。もう、別人のように、いびつに、歪んでいた。
「ええ、ええ。認めましょう。この国を、内側から食い破ってきたのは――この、私です」
あっさりと、認める。開き直った、その顔で。
スイ姫の胸が、ぎゅっと、締めつけられた。
分かっていた。分かっていたはずなのに。
本人の口から聞かされると、こんなにも、苦しい。
だが、ハングラルの濁った目に、ふと、わずかな疑念が、よぎった。
「……しかし、妙ですなあ。あの罠を、あなたは、なぜ仕掛けた? はなから私を疑っていなければ、あんな真似は、できますまい。……いつから、この私を、疑っておられた?」
「……正直、ずっと。信じたくはなかったんです」
スイ姫は、目を伏せた。
「レガリスへ発つ、少し前から――あなたの体に、黒いモヤのようなものが、視えるように、なりました」
「モヤ、だと……?」
「はい。でも……それが、何なのかは、わたしにも分からなかった」
その声が、かすかに、揺れる。
「わたしの『浄化』の力は、汚れた水を、清めるための力です。人に、そんな『汚れ』が視えたことなんて、一度もない。一族の記録にも、そんな力は、どこにも記されていませんでした」
「……だから最初は、ただの気のせいだと、思おうとしました。疲れているんだ、目の錯覚だって、何度も、自分に言い聞かせて」
うつむきかけた顔を、それでも、ぐっと、上げる。
「……あなたは、わたしが小さな頃から、ずっとそばで護ってくれた、大切な人でしたから。疑うなんて、したくなかったんです」
「でも――そのモヤは、消えるどころか。日に日に、濃く、黒くなっていきました。そして、それと、まるで歩みを合わせるように……この国のクーデターの動きも、少しずつ激しくなっていった」
スイ姫の、瞳が、揺れる。
「偶然だと、思おうとしました。何度も。……でも、どうしても、拭えなかった。あのモヤと、この国の異変が、どこかで繋がっているような気がして」
「だから……確かめることに、したんです。あなたにだけ、嘘の機密を、伝えて。どうか、外れてほしいって、祈りながら」
スイ姫は、唇を、噛んだ。
「そして、先日。わたしが、この国へ帰ってきたとき。……あなたにまとわりつくモヤは、もう。どす黒い、別のものに、変わっていました」
まっすぐに、ハングラルを、見つめる。その瞳に、悲しみと、覚悟が、宿っていた。
「その時に、確信したんです。――ああ、この人はもう。わたしの知っている、ハングラルじゃ、ないんだって」
「……ならば、なぜ」
ハングラルが、目を、細めた。
「気づいていたのなら、なぜ、すぐに動かなかった。私を、捕らえる機会など、いくらでも、あったでしょうに」
「証拠が、なかったからです。機密情報の漏洩も、盗み聞きや特殊な魔具を使えば、他の人間にもできないことはないですから。それに――裏切り者が、あなた一人とも、限らない」
スイ姫は、静かに、首を振った。
「うかつに動けば、その動きは、すぐに敵へと伝わってしまう。だから、待ったんです。あなたたちが、必ず動く時を。……王族が、皆の前に姿をさらす、この『成人の儀』を」
まっすぐに、ハングラルを、見据える。
「ここで、すべてに決着をつける。『もう、大丈夫だ』と――怯えるこの国に、そう、示すために」
「……ふ。ふはは。なるほど、なるほど。その細腕で、国そのものを、背負っておられたか」
ハングラルが、肩を揺らして、笑った。
「……どうして、なんですか」
スイ姫の声が、震える。
「あなたは、この国を、誰よりも愛していた。父も、母も、あなたのことを、心から信頼していました。それが……どうして、こんな」
「愛していた。ええ、今も、愛していますとも」
ハングラルの、濁った目が、ぎらりと、光った。
「……だからこそ、なのですよ、姫様。私は、恐ろしくてならんのです。この、あまりにも、なまぬるい国が」
その声が、熱を帯びて、ふくれあがっていく。
「湖に浮かぶ、美しい国。結構。実に、結構。ですが、姫様。美しさで、剣は防げますか? 景色で、腹は、満たせますか? この世界は、力がすべてだ。力なき国から、順に、喰われていく。……それが、覆しようのない、理なのですよ」
「そんなことは……!」
「陛下は、それを、分かっておられない!」
ハングラルが、声を、荒げた。
「武力を持て、兵器を作れと、進言しても。あの方は、聞く耳を持たぬ。この美しい景色を、護るためだと……そんな、寝言で! 国が滅んでしまえば、護る景色も、民も、何もかも、消えてしまうというのに……っ!」
ぜえ、ぜえ、と、肩で息をする。
その姿は、もう、あの沈着な騎士団長では、なかった。
「だから、私が、変えるのだ。この手で。……たとえ、王家を、裏切ってでも」
「……それは、あなたの言葉ですか」
スイ姫が、静かに、問うた。
「それとも――あなたに、そう、吹き込んだ。“誰か”の、言葉ですか」
ハングラルの肩が、びくり、と跳ねた。
「……私は、私の信念で、動いている」
うわ言のような、響きだった。
「力こそが、正義。力こそが、この国を、護る唯一の道……。ああ、そうとも。私は、自分で考え、自分で、たどり着いたのだ……」
焦点の合わない目が、虚空を、さまよう。
そして、その手が、ゆっくりと。腰に差した、一振りの剣へと、伸びる。
黒く、にぶく光る、不気味な刃。
柄に触れた指先に、どす黒いモヤが、ぞわりと、絡みついた。
「まあいい、どうせ、あなたは。……ここで、死ぬ運命なのですから」
薄暗い部屋に、ハングラルの、狂気を帯びた声が、低く響く。
スイ姫は、後ずさりも、しなかった。ただ、まっすぐに、その凶刃を、見据えていた。




