第7話 ──「その優しさは、弱さじゃない」
揺れる馬車の中。
カイトは、向かいに座るスイ姫と、二人きりだった。
怪我は、本当にかすり傷だ。馬車に乗るほどでもない。
だが――「最低でも一人は姫のそばに」というパウルの密命を思えば、これは都合がよかった。
だから、断らなかった。
「失礼しますね。少し、腕を見せてください」
スイ姫が、そっと身を乗り出してくる。碧い髪が、さらりと肩から滑り落ちた。
近い。
カイトは、思わず息を止めた。
いつもの眠たげな気だるさが、どこかへ吹き飛んでしまう。
「……っ。い、いや、ほんとに、こんなの唾つけときゃ治るんで」
「だめですよ。ちゃんとしないと」
スイ姫が、傷口の上に、てのひらをかざす。
そのてのひらから、淡い光がこぼれた。
ふわりと、水の粒が傷口を包む。
透き通った、きれいな水だ。
じんわりとした優しい感覚とともに、肩のひりつく痛みが、すうっと引いていった。
「これ……」
「わたしの『浄化』の力です。傷そのものを治すことはできませんが……汚れを落として、悪くならないように、きれいにすることはできるんです」
みるみるうちに、傷口の周りが、さっぱりと清潔になっていく。
「すごいっすね……。さすが、王女様」
「ふふ。やめてください」
スイ姫が、はにかむように笑った。
「わたしの力で、人のためにできることなんて、これくらいですから。少しでも役に立てたなら、嬉しいです」
その笑顔に、王女らしい気取りは、まるでなかった。
ただの、優しい、ひとりの女の子。
困っている人がいたから、当たり前みたいに手を差し伸べる。そういう顔だった。
カイトの頬が、じわりと熱くなる。
「……もう」
ぽつりと、こぼれた。
「純粋すぎるっすよ、スイ姫は」
「え?」
カイトは、いつになく真剣な目で、スイ姫を見つめた。
「他国の兵士のために力を使ったり、さっきも、馬車から降りて戦場まで走ってきたり……」
カイトは続ける。
「スイ姫は、自分の力は争いには役に立たないって、言ってたっすよね。でも……おいらは、そうは思わないっす」
窓の外を流れていく景色を、ちらりと見やる。
「その力は、その力を使うスイ姫は、誰かを傷つけることはできなくても、癒すことはできるっす。傷ついた人に、手を差し伸べる。そういう優しさとか、純粋さってのが……いつか、この国を護ることになると思うっす」
その言葉に、スイ姫は、目を丸くした。
それから、少しだけ照れたように、窓の外へ視線を逃がす。
「……思ったよりも熱い方なんですね、カイトさんって」
「そうっすか?」
ふっと、二人の間に、やわらかい空気が流れた。
馬車は、ごとごとと、水の国を目指して進んでいく。
◆◆◆
それからの道中、スイ姫は、ある提案をした。
「一人で馬車に揺られているのも、退屈で。よかったら、順番にお話し相手になってくれませんか?」
レガリスの守護者がスイ姫のそばにいる機会をさりげなく用意してくれた。
護衛団長のグランヴェルも、姫の気晴らしになるならと、快く許した。
こうして、誰かひとりが姫の馬車へ招かれるようになった。
ドラゴは、レガリスでの武勇伝を、身振り手振りで大げさに語ったらしい。
馬車の中から、スイ姫の楽しそうな笑い声が、たびたび漏れてきた。
サシャのときは、女の子同士、ずいぶん話が弾んだようだった。
降りてきたサシャの表情が、いつもより少しだけ柔らかかったのを、カイトは見逃さなかった。
そして――意外だったのは、ガロウだ。
「おい、次はお前だとよ」
ドラゴにそう言われたガロウは、露骨に舌打ちをした。
あの、群れることを何より嫌う男が、姫の話し相手など務まるはずがない。
誰もがそう思った。
ガロウは、何も言わずに馬車へ乗り込んでいった。
中で、二人が何を話したのかは、分からない。
ただ、馬車から降りてきたガロウは、いつも通りの仏頂面で――それでも、ほんの少しだけ、表情が和らいでいるように見えた。
「……珍しいこともあるもんっすね」
カイトが、ぽつりとつぶやく。
あの孤高の男の心にも、何か、思うところがあったのかもしれない。
もっとも、旅は、和やかなことばかりではなかった。
「……なあ、あの兵士、さっきからやけにこっちを見てねえか?」
「気のせいでしょ。……たぶん」
護衛団の中に、裏切り者がいるかもしれない。
その一言が、ドラゴたちの気を、片時も休ませてくれなかった。
誰かが親切に話しかけてくるたびに、笑って応じながら、腹の底では警戒する。
夜、交代で見張りに立つたびに、暗がりのひとつひとつに神経を尖らせる。
味方かもしれない相手を、疑い続ける。
それは、魔獣と斬り合うのとはまた違う、じわじわとした疲れだった。
「はぁ……。おいら、やっぱり平和が一番っす……」
三日目の朝には、さすがのドラゴも口数が減り、あのガロウでさえ、いつもの鋭い目つきが鈍っていた。
◆◆◆
旅の果て、ついに、その光景が見えてきた。
「……うおおっ。なんだ、ありゃ!」
先頭を歩いていたドラゴが、身を乗り出して叫んだ。
目の前に広がっていたのは、どこまでも続く、大きな湖。
鏡みたいに、青い空と白い雲を、そっくりそのまま映している。
風が吹くたび、水面がキラキラと、まぶしく光を弾いた。
そして、その湖の真ん中。
水の上に浮かぶようにして、真っ白な街が立っていた。
太陽の光を受けて、白い建物の一つひとつが、宝石みたいに輝いている。
「これが……アクア・ヴィータ」
サシャも、思わず言葉を失った。
その美しさに、ただ、見とれてしまう。
「すげえ……」
ドラゴが、ぐっと拳を握った。
「決めたぜ。スイ姫だけじゃねえ。こんなにきれいな国も、まとめてオレたちが護ってやる!」
「ふん。式典の邪魔なんて、誰にもさせないわ」
サシャも、不敵に微笑む。
頼もしい言葉だった。任務に向ける、真っ直ぐな熱意。
――けれど。
馬車の中で、その言葉を聞いていたスイ姫は、どこか寂しそうな目をしていた。
窓の外、近づいてくる白い城を、じっと見つめている。
その大きな瞳が、ゆっくりと伏せられた。
膝の上で、両手が、ぎゅっと握りしめられる。
まるで、何かに、必死に耐えるみたいに。
「……スイ姫?」
その横顔の小さな変化に、カイトだけが、気づいていた。
スイ姫は、ただ、近づいてくる故郷の城を、どこか悲しそうに見つめ続けていた。




