第2章 - 第8話
賊のリーダーが、一歩、前へ踏み出した。
たった、それだけ――
その瞬間、渓谷の空気が、ずしりと重く沈んだ。
肌にぞわりと冷たい悪寒が走る。
喉の奥が締めつけられ、呼吸が浅くなる。
まるで、全身を見えない手で握り潰されているような――本物の、殺気。
「な、なんだ……これ……」
ドラゴの背に、冷たい汗が伝う。
「……っ、みんな! いったん距離を――」
トジが叫んだ。
しかし、叫んだ時には。
もう、遅かった。
男の姿が、目の前から掻き消える。
次の瞬間、最前にいたガロウの脇腹へ、鋭い蹴りが叩き込まれていた。
「がっ……!?」
あの驚異の身体能力を持つガロウが、反応すらできない。
声を上げる間もなく、岩壁まで一気に吹き飛ばされた。
「ガロウっ!?」
ドラゴが咄嗟に、岩壁に叩きつけられたガロウに目を向ける。
――その刹那、男が一気にドラゴとの距離を詰める。
「っ、しまっ――」
ガロウに気を取られ、隙ができたドラゴに、男が手をかざす。
男の手から凄まじい突風が生まれる。
ドラゴの体が、まるで木の葉のように宙を舞う。
吹き飛ばされたドラゴは、背中から岩壁に叩きつけられる。
「が、はっ……!」
岩が砕け、亀裂が走る。
前衛の二人が一瞬にして地に沈んだ。
「う、嘘でしょ……!」
サシャの顔から、血の気が引く。
だが、彼女はすぐに杖を構えた。
「シエル!」
「ええっ!」
光の矢と、無数の氷の剣。二人の攻撃が、男めがけて放たれる。
しかし、男は避けもしない。
ただ――指を、鳴らした。
その音と同時に、男を中心に暴風が渦巻いた。光の矢も、氷の剣も。空気の壁にぶつかり、あっけなく弾け飛ぶ。
「そんな……っ!」
「ライラ、行くぞ!」
絶望に呑まれかけた戦線へ、ゴウエンが吼えた。
巨体を盾のように突き出し、突進する。その背後に隠れて、ライラが雷の刃を構えた。
さらに上空からは、影。
「もらったニャーッ!」
死角を取ったミーナが、双短剣を握りしめ、真上から急降下する。
三人による同時攻撃。
――それでも、男は動じない。
半身をわずかにずらすだけで、ゴウエンの巨体を受け流す。
その隙間から突き出されたライラの刃を、紙一重で躱す。
そして、上空から落ちてくるミーナの短剣を――指二本で受け止めた。
「ニャっ!?」
ミーナがどれだけ体重をかけても、挟まれた短剣はぴくりとも動かない。
ライラが即座に体勢を変え、再び男に刃を振り抜く。
しかし、男はもう片方の手でライラの腕をつかみ、その剣筋をピタリと止める。
「何っ!?」
男は、そのまま二人の身体を、突進から体勢を崩したゴウエンに向けて、力任せに投げ飛ばした。
「な、ぐあっ……!」
投げ飛ばされた二人の重さにゴウエンは抗えず、三人まとめて石畳の上へと激しく叩きつけられた。
「くそっ、カイトさん! 援護をお願いします!」
「了解っす!」
グレンが地面を蹴り、男に向かって一気に走り出す。
カイトはその後ろで、腰の水筒から大量の水を開放し、空中に浮かせる。
「『水撃』!」
カイトの魔力が乗った強力な水流が、高圧の鉄砲水となって男に放たれる。
しかし、男が再び指を鳴らすと、先ほどのサシャたちの攻撃と同様に暴風に防がれ、男には届かない。
「ここです!」
グレンが走り出した勢いのまま、大きく上空へ跳んだ。
到達したのは男の頭上。
「竜巻の中心には風は吹いていない! 『朱雀炎武』」
燃え盛る炎が、男の脳天めがけて襲いかかる。
自身の生み出した暴風によって、男は避けることはできない。
――いける、誰もがそう思った。
しかし男は、冷静に――もう一度、指を鳴らした。
その瞬間、渦巻いていた竜巻が形を変える。
吹き荒れる暴風は、男を中心に球体の形となる。
死角と思われていた頭上は、完全にふさがれた。
「そんなっ!」
グレンの渾身の炎も、あっけなく球体の風に防がれてしまう。
――いや、ただ防がれただけでは終わらなかった。
グレンの放った炎とカイトの放った水が、暴風の回転に取り込まれていく。
二人の攻撃が、球体の風に乗って、男を中心にぐるぐると回っている。
「ま、まさかっすよね?」
カイトが引きつった声を上げた、次の瞬間――
暴風に乗って威力を増した炎と水が、一気に牙を剥いて味方側へと逆流した。
猛烈な勢いの水流が、空中にいたグレンの身体を無慈悲に撃ち抜く。
「ぐぁっ!」
「グレン!?」
さらに、風によって拡散された灼熱の炎が、カイト、サシャ、シエルへと容赦なく襲いかかった。
「きゃあっ!?」
「あつ……っ!」
熱風と衝撃に晒され、四人はなすすべもなく地面へと激しく倒れ込んだ。
そして――戦場から、音が消えた。
炎も、氷も、雷も、どこからも上がらない。
あるのは、地に伏した九人の、苦しげな呻きと。
馬車の前で、一人きりで立ち尽くす、トジの荒い呼吸の音だけ。
ザッ……ザッ……と。
男が、歩いてくる。
ゆっくりと。一歩、また一歩。トジへ向かって、まっすぐに。
トジは、銃を構えたまま、動けなかった。
後ろにいる要人だけは、何があっても護らなければならない。
しかし、今、目の前で、屈強な仲間たちが次々と叩き伏せられていった。
どうすればいい。どうすれば、この化け物に勝てる。
いくら脳内で思考を重ねても、答えは出ない。
男が、トジの目の前で、足を止めた。
布越しの、冷たい眼差し。それが、無言で、トジを見下ろす。
「……付け焼き刃の連携遊びは、これで終わりか?」
低く、感情のない声が、渓谷の静寂に冷酷に響き渡った。




