第8話 ──「指を、鳴らすだけで」
賊のリーダーが、一歩、前へ踏み出した。
たった、それだけ――
その瞬間、渓谷の空気が、ずしりと重く沈んだ。
肌にぞわりと冷たい悪寒が走る。
喉の奥が締めつけられ、呼吸が浅くなる。
まるで、全身を見えない手で握り潰されているような――本物の、殺気。
「な、なんだ……これ……」
ドラゴの背に、冷たい汗が伝う。
さっきまで賊を薙ぎ倒していた大剣の先が、わずかに震えていた。
「……っ、みんな! いったん距離を――」
トジが叫んだ。
しかし、叫んだ時には。
もう、遅かった。
男の姿が、目の前から掻き消える。
次の瞬間、最前にいたガロウの脇腹へ、鋭い蹴りが叩き込まれていた。
「がっ……!?」
――見えなかった。
あの驚異の身体能力を持つガロウが、反応すらできない。
声を上げる間もなく、岩壁まで一気に吹き飛ばされた。
「ガロウっ!?」
ドラゴが咄嗟に、岩壁に叩きつけられたガロウに目を向ける。
――その刹那、男が一気にドラゴとの距離を詰める。
「っ、しまっ――」
ガロウに気を取られ、隙ができたドラゴに、男が手をかざす。
男の手から凄まじい突風が生まれる。
ドラゴの体が、まるで木の葉のように宙を舞う。
吹き飛ばされたドラゴは、背中から岩壁に叩きつけられる。
「が、はっ……!」
岩が砕け、亀裂が走る。
前衛の二人が一瞬にして地に沈んだ。
「う、嘘でしょ……!」
サシャの顔から、血の気が引く。
だが、彼女はすぐに杖を構えた。
「シエル!」
「ええっ!」
光の矢と、無数の氷の剣。二人の攻撃が、男めがけて放たれる。
渓谷が、白と青の光で埋まった。
しかし、男は避けもしない。
ただ――指を、鳴らした。
その音と同時に、男を中心に暴風が渦巻いた。光の矢も、氷の剣も。空気の壁にぶつかり、あっけなく弾け飛ぶ。
「そんな……っ!」
「ライラ、行くぞ!」
絶望に呑まれかけた戦線へ、ゴウエンが吼えた。
巨体を盾のように突き出し、突進する。その背後に隠れて、ライラが雷の刃を構えた。
さらに上空からは、影。
「もらったニャーッ!」
死角を取ったミーナが、双短剣を握りしめ、真上から急降下する。
三人による同時攻撃。
――それでも、男は動じない。
半身をわずかにずらすだけで、ゴウエンの巨体を受け流す。
その隙間から突き出されたライラの刃を、紙一重で躱す。
そして、上空から落ちてくるミーナの短剣を――指二本で受け止めた。
「ニャっ!?」
ミーナがどれだけ体重をかけても、挟まれた短剣はぴくりとも動かない。
ライラが即座に体勢を変え、再び男に刃を振り抜く。
しかし、男はもう片方の手でライラの腕をつかみ、その剣筋をピタリと止める。
「何っ!?」
男は、そのまま二人の身体を、突進から体勢を崩したゴウエンに向けて、力任せに投げ飛ばした。
「な、ぐあっ……!」
投げ飛ばされた二人の重さにゴウエンは抗えず、三人まとめて地面へと激しく叩きつけられた。
「くそっ、カイトさん! 援護をお願いします!」
「了解っす!」
グレンが地面を蹴り、男に向かって一気に走り出す。
カイトはその後ろで、腰の水筒から大量の水を開放し、空中に浮かせる。
「『水撃』!」
カイトの魔力が乗った強力な水流が、高圧の鉄砲水となって男に放たれる。
しかし、男が再び指を鳴らすと、先ほどのサシャたちの攻撃と同様に暴風に防がれ、男には届かない。
「ここです!」
グレンが走り出した勢いのまま、大きく上空へ跳んだ。
到達したのは男の頭上。
「竜巻の中心には風は吹いていない! 『朱雀炎武』」
燃え盛る炎が、男の脳天めがけて襲いかかる。
自身の生み出した暴風によって、男は避けることはできない。
――いける、誰もがそう思った。
しかし男は、冷静に――もう一度、指を鳴らした。
その瞬間、渦巻いていた竜巻が形を変える。
吹き荒れる暴風は、男を中心に球体の形となる。
死角と思われていた頭上は、完全にふさがれた。
「そんなっ!」
グレンの渾身の炎も、あっけなく球体の風に防がれてしまう。
――いや、ただ防がれただけでは終わらなかった。
グレンの放った炎とカイトの放った水が、暴風の回転に取り込まれていく。
二人の攻撃が、球体の風に乗って、男を中心にぐるぐると回っている。
「ま、まさかっすよね?」
カイトが引きつった声を上げた、次の瞬間――
暴風に乗って威力を増した炎と水が、一気に牙を剥いて味方側へと逆流した。
猛烈な勢いの水流が、空中にいたグレンの身体を無慈悲に撃ち抜く。
「ぐぁっ!」
「グレン!?」
さらに、風によって拡散された灼熱の炎が、カイト、サシャ、シエルへと容赦なく襲いかかった。
「きゃあっ!?」
「あつ……っ!」
熱風と衝撃に晒され、四人はなすすべもなく地面へと激しく倒れ込んだ。
そして――戦場から、音が消えた。
炎も、氷も、雷も、どこからも上がらない。
あるのは、地に伏した九人の、苦しげな呻きと。
馬車の前で、一人きりで立ち尽くす、トジの荒い呼吸の音だけ。
ザッ……ザッ……と。
男が、歩いてくる。
ゆっくりと。一歩、また一歩。トジへ向かって、まっすぐに。
トジは、銃を構えたまま、動けなかった。
後ろにいる要人だけは、何があっても護らなければならない。
しかし、今、目の前で、屈強な仲間たちが次々と叩き伏せられていった。
どうすればいい。どうすれば、この化け物に勝てる。
いくら脳内で思考を重ねても、答えは出ない。
男が、トジの目の前で、足を止めた。
布越しの、冷たい眼差し。それが、無言で、トジを見下ろす。
「……付け焼き刃の連携遊びは、これで終わりか?」
低く、感情のない声が、渓谷の静寂に冷酷に響き渡った。




