第34話 足跡は、道になる
朝の作業部屋には、昨日とは違う重さがあった。
ノルは来ている。
いつもより早く。
だが、顔色は悪い。
目の下に隈があり、何度も自分の手を見ていた。
石倉で持たされた包み。
青札箱の近くに置けと言われた黒鳴石の粉と青い染料。
そして、妹ミナを餌にされた記憶。
それは簡単に消えない。
それでも彼は逃げなかった。
青札箱の横に立ち、黒い輪の札を持ってきた日雇いの話を聞いている。
「責めるためやない。止めるためや。見た場所と、誰にもろたかだけ教えてくれ」
声はまだ震えている。
だが、昨日より前を向いていた。
俺は椅子からその姿を見ていた。
人は荷じゃない。
昨夜、戻り札に加えた言葉だ。
ノルは運ばれる物ではない。
捨てられる札でもない。
戻る道を持つ人間だ。
だから、今日はそこから一歩進める。
欠け指に奪われかけた道を、今度はこちらからたどる。
ガルドが作業部屋へ入ってきた。
手には泥のついた布袋。
中には、石倉で拾ったものが入っている。
黄色い布切れ。
青い紐。
黒い輪の木片。
そして、石倉の床に残っていた足跡の写し。
濡らした薄紙に煤を押しつけて取った、簡単なものだ。
「右足を引きずる跡だ」
ガルドが机に置く。
「石切坂の足跡と似ている。右足の外側が強く擦れている」
俺は足跡の写しを見た。
右足の外側。
踵の端。
確かに、左とは減り方が違う。
欠け指は右足を引く。
右手の小指がない。
喉に癖がある。
これまでは人物の特徴だった。
だが、特徴は道になる。
足を引けば、靴が減る。
喉が悪ければ、薬や蜂蜜を買う。
小指がなければ、紐の結び方が変わる。
人は自分の身体から逃げられない。
俺は戻り札に触れた。
深く入るな。
追跡者になりきるな。
ただ、見る。
【自己暗示候補:追跡解析模倣】
【参照対象:物語内追跡者群・鑑識役・軍師群】
【適合率:36%】
【効果:痕跡整理・行動経路推定】
【警告:過集中に注意】
起動。
足跡。
右足。
靴修理。
喉。
蜂蜜。
青い染料。
黒鳴石の粉。
南水路。
石倉。
職人通り。
線が浮かぶ。
欠け指本人を追う必要はない。
欠け指が使う道具を追えばいい。
彼は人前に出ない。
だが、靴は直さなければならない。
喉は癒やさなければならない。
青い染料も、黒鳴石の粉を包む紙も、どこかで手に入る。
「靴直しです」
俺は言った。
マルセルが眉を上げる。
「靴?」
「右足を引くなら、右の靴だけ減ります。石切坂と石倉を動いているなら、靴底の傷みは早いはずです。右の外側を厚く直す客がいないか、職人通りで聞けます」
セリアが筆を取る。
「靴直し職人へ確認」
「あと、喉薬」
リーナが反応した。
「喉薬ですか」
「昨日、欠け指は煙の中で咳をしていた。喉が弱いなら、蜂蜜、薬草飴、喉に使う乾草を買うかもしれない」
「領都なら、薬師か香草売りですね」
「はい。ただし本人が買うとは限りません。青い紐の男かサナが買う可能性もある」
ガルドが腕を組んだ。
「靴直しと喉薬。地味だな」
「派手な場所は囮にされます。地味な場所は、本人の身体に近い」
俺は足跡の写しを指した。
「欠け指は道を奪うと言いました。でも、自分の足の道までは消せない」
ガルドが少し笑った。
「いい。そちらを当たる」
俺は戻り札を読む。
「俺はアスト。役割は運び手。追跡も目的じゃない。道を守る手段。使ったら戻る」
【戻り札:有効】
【自己固定率:96%】
息が少し楽になった。
リーナが水を置く。
「飲んでください」
「はい」
「今のも、使ったのですね」
「少しだけ」
「少しでも、戻る。水を飲む。休む」
「はい」
完全に手順化されている。
だが、その手順に救われているのも事実だった。
◆
昼前、最初の報告が来た。
職人通りの靴直し、バルトという男が、右足の外側だけを厚く直す客を知っていた。
ただし、客本人は来ない。
青い紐を腕に巻いた男が、片方の靴だけを持ってくる。
右靴。
外側が極端に減る。
靴底には、石と煤の混じった傷。
修理代は前払い。
受け取り場所は、店ではなく職人通り裏の古井戸横。
「当たりですね」
セリアが言った。
「まだ半分です」
俺は答えた。
「靴は欠け指のものかもしれない。でも、靴だけを取りに来るのは青い紐の男か、別の手駒です」
ガルドはすでに動いている。
靴直しのバルトには、普段通り修理が終わったと伝えてもらう。
ただし、受け渡し場所は少し変える。
古井戸横ではなく、店の裏戸近く。
理由は、雨で古井戸周りがぬかるんでいるから。
自然な言い訳だ。
そこを、ガルドと領兵が見張る。
追うな。
待て。
いつもの考え方だ。
ノルが隣で足跡の写しを見ていた。
「俺、靴なんて見てなかった」
「普通は見ません」
「でも、欠け指も靴を履いてるんだな」
「そこは人間ですから」
ノルは少し黙り、それから言った。
「あいつ、人間なんだよな」
その声には、恐怖と怒りが混じっていた。
欠け指は化け物ではない。
人を使い捨てる人間だ。
だから、たどれる。
だから、捕まえられる。
◆
午後、靴の受け渡しで動きがあった。
現れたのは、青い紐の男だった。
左頬に傷。
昨日、青札の裏へ偽の見返りを書き込ませていた男。
彼は靴を受け取りに来た。
だが、すぐには捕まえなかった。
バルトが靴を渡す。
青い紐の男が金を置く。
そのまま職人通りを出る。
ガルドは距離を置いて追う。
領兵はさらに外側。
男は南水路へ向かわなかった。
西市場にも行かなかった。
彼が向かったのは、香草売りの裏通りだった。
リーナが事前に言っていた、喉薬を扱う小さな店がある場所だ。
そこで男は、蜂蜜入りの乾草包みを受け取った。
右靴。
喉薬。
点がつながる。
だが、まだ欠け指ではない。
青い紐の男は、さらに動いた。
香草売りの裏通りから、古い水車小屋の方へ。
領都の外れ。
かつて染料を洗うために使われていた水路沿いの小屋だ。
今は半分壊れている。
青い染料の匂いが残りやすい場所。
そこまで来て、俺は地図に指を置いた。
「ここが中継点です」
作業部屋に戻った伝令の報告を聞きながら、俺は言った。
「欠け指本人の本拠ではない。でも、靴と喉薬を受け取る場所。つまり、本人に近い」
マルセルが低く言う。
「踏み込むか」
「すぐには駄目です」
「なぜだ」
「青い紐の男は、尾行を警戒しているはずです。水車小屋がただの中継点なら、踏み込んでも空かもしれない。まず、何を置いて、何を持ち出すかを見る」
セリアが頷く。
「荷の入れ替わりですね」
「はい。欠け指本人を追うより、入れ替わる荷を見る」
ガルドへの伝令を出す。
水車小屋を囲まない。
出入りを記録。
靴と喉薬が小屋に入ったか。
代わりに何が出るか。
誰が運ぶか。
俺は地図を見たまま、胸の奥で小さく息を吐いた。
戦っていない。
だが、追い詰めている。
欠け指本人の生活に必要なものへ近づいた。
これは大きい。
◆
夕方前、水車小屋から動きがあった。
青い紐の男は、空手で出てきた。
靴も喉薬も持っていない。
代わりに、小柄な老婆が水車小屋へ入った。
背中に小さな籠。
数息ほどで出てきた時、籠の中には紙包みが3つ増えていた。
老婆は市場へ戻る道を取る。
ガルドは追わない。
代わりに、別の職員が市場側で待つ。
老婆は青い紐も黄色い布もつけていない。
ただの使い走りかもしれない。
だが、籠の中身は見たい。
市場の入口で、職員がぶつかったふりをした。
籠が少し傾く。
紙包みの1つが落ちる。
老婆は慌てて拾おうとしたが、職員が先に拾った。
その時、紙包みから細かな黒い粉が少し漏れた。
黒鳴石。
赤だ。
職員はすぐ離れ、領兵が老婆を止めた。
老婆は震えながら、自分は中身を知らないと繰り返した。
その言葉は、たぶん本当だ。
また、知らない者に運ばせている。
俺は報告を聞きながら、机を叩きたい衝動を抑えた。
「老婆は責めない。誰から頼まれたかだけ聞く。紙包みは封印係へ。残り2つも触らない」
セリアが書く。
「水車小屋は?」
「まだ踏み込まない」
マルセルが驚いた顔をした。
「まだか」
「欠け指本人がいるなら、老婆を出した直後に逃げる可能性があります。外へ出る道を見る。水路、裏道、屋根。全部」
その指示を出した直後だった。
水車小屋の裏から煙が上がったという報告が入った。
白煙。
また目くらましだ。
今度こそ逃げる。
「踏み込むのは裏ではなく、水路出口」
俺は言った。
「煙は小屋に目を向けさせるため。欠け指が逃げるなら、水路沿いです。右足を引くなら、足場の悪い水路縁は避けたい。でも追手が小屋へ行くと思えば、そこを使う」
ガルドへの伝令が走る。
俺は戻り札を握った。
「俺はアスト。役割は運び手。追跡は目的じゃない。使ったら戻る」
【戻り札:有効】
待つ。
短い時間が、やけに長い。
そして、報告が来た。
「水路出口で、右足を引く黒外套の男を確認! ガルドさんが接触!」
部屋の空気が止まった。
欠け指。
ついに。
「捕まえたか」
マルセルが立ち上がる。
伝令は首を振った。
「逃げられました。ただし、接触時に右手を確認。小指なし。喉に強い咳。黒外套の内側に、切れた鎖の印」
本人だ。
間違いない。
逃げた。
だが、初めて直接確認した。
影ではなくなった。
ガルドは斬れなかったのか。
いや、狭い水路で、周囲に老婆や使い走りがいたなら無理はできない。
それでいい。
今は、欠け指本人を確認したことが大きい。
「落とし物は?」
俺が聞くと、伝令が小さな包みを出した。
「ガルドさんが、男の外套から引きちぎったものです」
中には、革の小袋があった。
開けずに封印係へ回す。
だが、外側に文字があった。
青札、礼、ノル、水場、坂。
これまで狙われた結び目が、短く刻まれている。
そして最後に、次。
薬師。
リーナが息を呑んだ。
次は、薬師を狙う。
薬そのものではなく、薬師。
人。
役割。
信用の中心。
「次の結び目が見えましたね」
俺は言った。
声が少し低くなった。
「薬師を守ります」
リーナは静かに頷いた。
「はい」
その顔に怯えはなかった。
ただ、覚悟があった。
◆
夜、ガルドが戻ってきた。
服は濡れ、腕に浅い切り傷があった。
だが、大きな怪我はない。
「逃げられた」
「でも、確認しました」
「ああ。右小指なし。右足を引く。喉に咳。間違いない。あれが欠け指だ」
「強かったですか」
俺が聞くと、ガルドは少し考えた。
「戦士ではない。だが、逃げ方を知っている。自分で斬り合う気はない。人の位置と荷の位置を使って、こちらの剣を止める」
「道を使う男ですね」
「そうだ」
欠け指は戦士ではない。
だが、道を使う。
人を荷にし、荷を罠にし、礼を腐らせ、信用を奪う。
正面から斬る敵ではない。
道を断つ敵だ。
「水車小屋は?」
「空だった。靴と喉薬は残っていた。履き替える前に逃げたらしい」
これは大きい。
欠け指は、右足の合う靴を失った。
喉薬も失った。
つまり、次に動く時、身体の負担が出る。
逃げ道が少し狭くなる。
「勝ちです」
俺は言った。
ガルドが眉を上げる。
「逃がしたぞ」
「でも、本人を確認した。中継点を潰した。黒鳴石を回収した。靴と喉薬を押さえた。次の狙いも見えた。勝ちです」
マルセルが帳面を閉じる。
「商人の勘定でも、今日は勝ちだな」
セリアも頷いた。
「記録上も、大きな前進です」
リーナは何も言わなかった。
ただ、薬師と刻まれた革袋を見ていた。
次は彼女たちが狙われる。
その重さを、誰よりわかっているのだろう。
◆
下宿へ戻ると、俺はかなり疲れていた。
戦っていない。
大声も出していない。
だが、頭を使い続けた。
追跡解析。
痕跡整理。
道の読み。
どれも低出力のつもりだったが、積み重なると重い。
俺は戻り札を手に取った。
「俺はアスト。役割は運び手。戦闘も推理も追跡も目的じゃない。道を守る手段。情報も荷。善意も荷。礼も荷。人は荷じゃない。使ったら戻る」
【戻り札:有効】
【自己固定率:96%】
【追跡解析残滓:低下】
【状態:疲労大・安定】
ようやく息が抜けた。
欠け指は逃げた。
だが、影ではなくなった。
右小指なし。
右足を引く。
喉に咳。
水車小屋を中継点に使い、靴と喉薬を必要とする男。
そして、次の狙いは薬師。
なら、次はこちらから守りを組める。
欠け指の道を、少しずつ狭くできる。
俺は目を閉じた。
信じ込めた力だけが、俺の武器になる。
なら今夜は、こう信じる。
足跡は、道になる。
癖も、傷も、咳も、全部が道になる。
欠け指がどれだけ人を使い捨てても、自分の身体からは逃げられない。
次は薬師。
なら、その結び目を腐らせる前に、こちらが守る。
第34話─了




