第33話 人は荷じゃない
朝、ノルが来なかった。
それだけで、作業部屋の空気が少し変わった。
ノルはまだ正式な職員ではない。
軽急便の下働き見習いだ。
だから、遅刻ひとつで大騒ぎする立場ではない。
それでも、俺は胸の奥がざわついた。
昨日、偽礼状を見抜いた。
青札便の帰り荷も守った。
オルノの水桶も、鉱山町へ届いた。
少しずつ、こちらの道が強くなっている。
その中で、ノルは重要な結び目になりつつあった。
日雇いの言葉。
西市場の癖。
裏仕事の匂い。
それを拾えるのは、今のところノルが一番だ。
だからこそ、欠け指が放っておくはずがない。
「ノルさん、妹さんのところでは?」
セリアが言った。
声は落ち着いている。
だが、筆が止まっていた。
「確認を」
マルセルが職員へ指示を出す。
職員が走る。
俺は椅子に座ったまま、戻り札を握った。
焦るな。
まだ何も決まっていない。
遅れているだけかもしれない。
ミナの具合が悪くなったのかもしれない。
それなら、それで動けばいい。
だが、胸の奥はもう答えを知っている気がした。
欠け指は、人を奪いに来る。
礼を奪い損ねた。
帰り荷を奪い損ねた。
なら次は、人だ。
少しして、職員が戻ってきた。
顔色が悪い。
「ノルの長屋に、これが」
差し出されたのは、小さな木片だった。
黒い輪。
切れた鎖。
その下に、短い言葉。
妹を救いたければ、鎖を外せ。
俺は目を閉じた。
来た。
やはり、ノルだ。
「ミナは?」
俺が聞くと、職員は首を振った。
「長屋にいます。熱は下がり気味です。ただ、ノルは朝早く出たと。大家が、ノルに紙を渡した女を見たそうです」
「女」
セリアが低く言う。
「サナか」
マルセルの声が硬くなった。
「紙は?」
「ノルが持っていったようです。大家は中身を見ていません。ただ、ノルが顔色を変えて飛び出したと」
ミナは無事。
だが、ノルはそれを知らない状態で、脅された可能性がある。
妹を救いたければ。
その言葉だけで十分だ。
ノルは動く。
自分が危険荷に釣られた理由も、妹の薬代だった。
欠け指側は、そこを知っている。
「行き先は?」
マルセルが聞く。
「南水路。大家は、ノルがそう呟いたと」
また南水路。
欠け指側の好きな場所だ。
逃げ道が多く、人目も途切れやすい。
荷も人も隠せる。
俺は地図を見た。
南水路。
灰鴉亭。
西市場。
染物屋。
古い排水溝。
そして、ノルが知っている裏道。
ノルを呼び出すなら、単に脅すだけではない。
彼の知識を奪うためか。
それとも、こちらの信用を壊すためか。
軽急便の見習いが、黒い輪の道へ戻った。
そう噂を流せば、日雇いの受け皿は揺らぐ。
「追いますか」
職員が言った。
俺はすぐには答えなかった。
追いたい。
今すぐ。
自分の足で行きたい。
だが、俺はまだ走れない。
走れる者をただ走らせても、南水路では逃げられる。
追うな。
流れを見ろ。
結び目を守れ。
俺は戻り札を読んだ。
「俺はアスト。役割は運び手。焦りは判断材料。目的ではない。追うな。流れを見ろ」
【戻り札:有効】
【自己固定率:96%】
息が少し整う。
「追うだけでは駄目です」
俺は言った。
「ノルさんは南水路へ行く。でも、欠け指側はそこで待っているとは限りません」
「なら、どこだ」
マルセルが聞く。
「ノルさんが知っている場所。妹のために走る時、近道に使う場所。南水路へ行く途中で、人目を避けられる場所」
俺は地図を指す。
西市場裏。
染物屋の排水溝。
灰鴉亭の裏口。
南水路の古橋。
その先に、使われていない石倉。
「石倉です」
「根拠は」
「ノルさんは南水路と聞けば、表の道ではなく排水溝横を抜けるはずです。そこから南水路へ出る前に、古い石倉があります。前に黄色布の逃げ道にも近い。人を一度隠すなら、そこが使いやすい」
セリアが地図に札を置く。
「石倉を赤」
「ただし、正面から行かない。ガルドさんがいるなら裏から。領兵は南水路を押さえる。灰鴉亭のダンテにも知らせる。ノルさんが顔見知りに声をかけられたら止まる可能性があります」
マルセルが頷き、職員を走らせた。
俺は息を吐く。
まだ足りない。
欠け指は、ノルをただ捕まえるだけではない。
おそらく、何かを持たせる。
戻らせる。
あるいは、戻ったように見せる。
「ギルド前にも注意を」
俺は言った。
「ノルさんが裏切ったという噂が来るかもしれません。先に掲示してください」
「何と?」
セリアが筆を構える。
「ノルは確認中。妹ミナは長屋で無事。黒い輪の木片による呼び出しあり。見つけた者は責めず、商人ギルドへ知らせる」
「ノルを守る掲示ですね」
「はい。先に出す」
人は、見えない空白に噂を入れる。
なら、空白を作らない。
ノルを疑う声が出る前に、こちらから状況を出す。
彼が戻る道を残す。
それが今、一番大事だった。
◆
ガルドから最初の報告が来たのは、思ったより早かった。
南水路には、黒い輪の木片が3つ置かれていた。
だが、人影はなし。
古橋の下に、ノルの足跡らしいもの。
そして、石倉へ向かった痕跡。
読みは当たった。
だが、まだ終わっていない。
「石倉の状況は?」
「ガルドさんが裏へ回っています。領兵は正面を押さえる準備中」
伝令が答える。
「ノルさんは?」
「中にいる可能性あり」
俺は拳を握った。
リーナが横から俺の手を見る。
「爪が食い込んでいます」
「すみません」
「手を開いてください」
言われるままに開く。
手のひらに爪の跡が残っていた。
自分で思ったより力が入っている。
「行けませんよ」
リーナが言った。
「わかってます」
「本当に?」
「本当に」
そう言った瞬間、次の報告が来た。
「石倉内にノルさん確認! 黄色い布の女、サナと思われる人物もいます!」
部屋の空気が跳ねる。
「欠け指は?」
「未確認。ただ、右手小指のない男らしき影を、石倉奥で見たと」
欠け指。
ついに同じ場所にいる。
ガルドが裏に回っている。
領兵もいる。
ここで押さえれば。
俺の身体が前へ出ようとした。
背中が痛みで止めた。
リーナの手も肩に乗る。
「駄目です」
強い声だった。
俺は息を吐いた。
「行きません」
戻り札を握る。
「俺はアスト。役割は運び手。戦闘は目的じゃない。行けない焦りは判断材料。目的ではない」
【戻り札:有効】
行けない。
なら、見えない場所でできることをする。
「伝えてください。ノルさんを最優先で外へ。サナや欠け指を追うのはその後。ただし、ノルさんが何かを持たされている可能性あり。外に出たら、身体確認と荷確認。責めない。武器を持っていても、すぐ押さえつけず声をかける」
セリアが書く。
職員が走る。
人は荷じゃない。
でも、危険を持たされることはある。
ノルを助けるには、彼を敵として扱わないこと。
同時に、持たされたものは警戒すること。
その両方が必要だ。
◆
石倉で何が起きているのか、こちらには見えない。
ただ、報告だけが来る。
短く。
途切れ途切れに。
「領兵、正面接近」
「ガルドさん、裏口確保」
「中から声。ノルさんが何か叫んでいます」
「黄色い布の女、奥へ移動」
「煙!」
煙。
またか。
「火ですか」
俺が聞くと、伝令は首を振る。
「白煙。目くらましの可能性」
「中に踏み込ませすぎないで。煙を吸わない。出口を押さえる。ノルさんが出てきたら、まず水」
セリアが書く。
リーナが追加する。
「煙を吸った人は喉と目を洗う。薬師を呼んで」
さらに報告。
「ノルさん、裏口から出ました! ガルドさんが保護!」
部屋の空気が少しだけ緩む。
だが、次でまた固まる。
「ノルさんの手に、小さな包み。本人が離さないと!」
やはり。
何かを持たされている。
爆薬か。
毒か。
黒鳴石か。
手紙か。
いずれにしても、無理に奪えば危ない。
「包みを奪わない。ノルさんに、置けと言ってください。自分で地面に置かせる。置いたら離れる。包みは触らない」
「はい!」
伝令が走る。
リーナが俺を見る。
「よくそこまで」
「前にもありました。危険荷は、持たされた人間から無理に奪うと壊れることがあります」
「人も、荷も」
「はい」
人は荷じゃない。
だが、荷を持たされた人は、荷ごと扱いを間違えると壊れる。
この違いを忘れてはいけない。
◆
しばらくして、ガルド本人が戻ってきた。
ノルも一緒だった。
顔は青ざめ、服は煙で汚れている。
だが、歩いている。
生きている。
「ノルさん」
俺が声をかけると、ノルは唇を噛んだ。
「俺……」
「座って」
「でも、俺……」
「座って。水を飲んで。話はそれから」
ノルは何か言いかけたが、リーナが水を差し出すと黙って受け取った。
彼の手は震えている。
包みは持っていない。
ガルドが机に布包みを置いた。
もちろん、触らない位置に。
「封印係を呼んである」
「中身は?」
「まだ見ていない。ノルが自分で置いた」
よかった。
そこは通った。
ノルは水を飲んだ後、かすれた声で話し始めた。
「妹が……ミナが薬をもらえなくなるって言われた。俺がギルドにいるせいで、ミナが後回しにされるって」
「嘘です」
リーナが即座に言った。
「薬の順番に、あなたの仕事は関係ありません」
ノルは泣きそうな顔で頷いた。
「頭では、わかってた。でも、紙にミナの名前が書いてあって……熱がぶり返したって……俺、見に行かなきゃって」
「ミナさんは長屋にいます。確認済みです。熱は下がり気味」
セリアが言うと、ノルは顔を覆った。
「よかった……」
その肩が震える。
俺は待った。
責めない。
ここで責めれば、欠け指の言葉が刺さったままになる。
「石倉で何を言われました」
少し落ち着いたところで聞く。
ノルは顔を上げた。
「サナがいた。あと、奥に男がいた。顔は布で隠してたけど、右手の小指がなかった」
欠け指。
部屋の空気が重くなる。
「何を?」
「戻れって。商人ギルドは俺を札にしてるだけだって。俺みたいなのを拾ったふりして、裏道の情報を抜いて、使えなくなったら捨てるって」
ノルの声が震える。
「それで、包みを渡された。ギルドに戻って、青札箱の近くに置けって。そうすればミナへ薬を回すって」
青札箱。
支援物資の受付。
そこに危険物を置かせるつもりだった。
ノルを使って。
もしノルがそのまま戻っていたら。
もし俺たちが、ノルを疑わず迎えていたら。
青札箱の近くで何かが起きた。
支援者が巻き込まれた。
そして、ノルは裏切り者にされる。
背筋が冷えた。
「包みを開けたか」
ガルドが聞く。
ノルは首を振る。
「開けるなって言われた。開けたらミナが死ぬって」
「典型的な脅しです」
リーナが低く言った。
「でも、怖かった」
ノルは小さく言う。
「怖くて、持ってきそうになった」
「持ってこなかった」
俺は言った。
ノルがこちらを見る。
「石倉を出て、ガルドさんに言われて、置いた。自分で置いた。それでいい」
「でも俺、行った」
「行ったことは問題です。でも戻れた。包みを置けた。そこを分けます」
ノルは泣いた。
声を殺して。
リーナは何も言わず、布を差し出した。
セリアも、筆を止めていた。
マルセルが少し乱暴に頭をかいた。
「薬代の返済は増やさん」
ノルが涙の中で顔を上げる。
「え?」
「今日は仕事扱いではない。だが、危険荷を持ち帰らなかった。だから借りは増やさん」
「……ありがとう」
「礼は、次に札を見ろ」
マルセルらしい言葉だった。
◆
封印係が包みを開けた。
中に入っていたのは、小さな黒鳴石の粉袋と、青い染料の瓶だった。
黒鳴石の粉。
青札箱近くで撒けば、人を集めた場所に魔物を寄せられる。
青い染料。
青札や支援物資にぶちまければ、支援物資が汚れ、青札便そのものの印象が壊れる。
さらに、中には短い紙片があった。
拾った者は、裏切り者である。
それだけ。
ノルに罪をかぶせるための札だ。
全員が黙った。
欠け指は、人を荷のように使う。
運ばせる。
置かせる。
壊れたら、札を貼って捨てる。
俺は机の端を握った。
怒りが込み上げる。
【警告:感情昂揚】
わかってる。
俺は戻り札を読む。
「俺はアスト。役割は運び手。怒りは判断材料。目的ではない」
【戻り札:有効】
まだ怒りは消えない。
でも、少し形が変わる。
燃えるだけの怒りから、使える怒りへ。
「掲示します」
俺は言った。
セリアが顔を上げる。
「どこまで?」
「ノルさんが脅されて呼び出されたこと。妹ミナは無事であること。危険な包みを自分で置いたこと。青札箱を狙った危険物だったこと。ノルさんを裏切り者とする木片は偽物であること」
ノルが驚いた顔をした。
「俺のことを出すのか」
「出さないと、欠け指が先に言います」
俺はノルを見る。
「でも、出していいかはあなたが決める」
ノルは黙った。
長い沈黙だった。
やがて、彼は小さく頷いた。
「出していい。俺、行った。でも、置いた。そこも書いてくれ」
「書きます」
セリアが筆を取る。
ノルは脅されて呼び出された。
妹ミナは無事。
危険な包みを自ら地面に置き、青札箱への被害を防いだ。
黒い輪の札による「裏切り者」表示は偽。
短いが、必要なことは入っている。
「これは、ノルさんを守る札です」
セリアが言った。
「人守り札ですね」
俺が言うと、マルセルが顔をしかめた。
「また札か」
「でも必要です」
「……必要だな」
人守り札。
人を荷のように捨て札にさせないための札。
これは大事だ。
◆
掲示の効果は、すぐに出た。
青札受付に来ていた人々がざわつく。
ノルを知っている日雇いたちも集まる。
最初は疑いの目があった。
だが、ノル本人が入口に立ち、震えながらも言った。
「俺は、行った。妹のことで脅されて行った。でも、包みは置いた。ギルドの中には持って入ってない」
静かだった。
誰もすぐには責めなかった。
ノルは続けた。
「黒い輪のやつらは、俺みたいな奴を使う。金がないとか、家族が病気とか、そういうところを使う。俺は前にも使われた。だから……見たら言ってくれ。俺も見る」
それは立派な演説ではない。
声も震えていた。
だが、届いた。
同じように貧しく、不安を抱えた者たちに。
オルノが前へ出た。
「俺も、偽の礼状に騙されかけた」
水桶職人の男だ。
「あいつらは、家族を使う。礼も薬も、嘘にする。ノルだけの話やない」
日雇いの中年女が頷いた。
「黒い輪の札を見たら、ギルドへ持ってくる。それでええんやな」
「はい」
俺は椅子から答えた。
喉は張らない。
ノルたちの声で十分だ。
「責めるためではなく、止めるために」
その言葉を、セリアが掲示に足した。
黒い輪の札を見たら届ける。
責めるためではなく、止めるために。
また一つ、道ができた。
◆
夕方、ガルドが戻ってきた。
石倉でサナと欠け指は逃げた。
だが、ガルドは一点だけ掴んでいた。
「欠け指は、足を引きずっていた」
「右足ですか」
「ああ。石切坂の足跡と一致する。もう一つ、煙の中で咳をしていた。喉が悪いのかもしれん」
「右小指なし、右足を引きずる、喉に癖」
セリアが記録する。
ようやく人物像が具体的になってきた。
サナ。
青い紐の男。
黄色い布の手駒。
そして欠け指。
道は少しずつ絞れている。
ガルドは俺を見る。
「ノルを助けられたのは大きい」
「ガルドさんが現場にいたからです」
「お前が石倉を読んだ」
「ノルさんが自分で包みを置いた」
「全部だな」
「はい。全部です」
1人で無双したわけではない。
だが、それでいい。
この道は、1人で守るものではない。
ノルが戻った。
それが今日の勝ちだ。
◆
夜、下宿へ戻ると、疲れが一気に来た。
身体も頭も重い。
今日は戦っていない。
大声も出していない。
でも、人を奪われかけた。
その重さが残っている。
俺は戻り札を手に取った。
「俺はアスト。役割は運び手。戦闘も推理も声も目的じゃない。道を守る手段。情報も荷。善意も荷。礼も荷。人は荷じゃない。使ったら戻る」
【戻り札:有効】
【自己固定率:96%】
【状態:疲労大・安定】
人は荷じゃない。
今日の言葉だ。
ノルは、荷ではない。
危険物を運ばせる道具ではない。
黒い輪の札で「裏切り者」と貼られて捨てられるものでもない。
人は迷う。
脅される。
間違える。
でも、戻れる。
戻る道を残しておく。
それが、欠け指との違いだ。
欠け指は人を使い捨てる。
俺たちは、人を戻す。
その差を、道にしなければならない。
窓の外で、夜風が鳴った。
欠け指は逃げた。
だが、近づいた。
右小指なし。
右足を引く。
喉に癖。
もうただの影ではない。
次は、こちらから道を絞れるかもしれない。
俺は目を閉じた。
信じ込めた力だけが、俺の武器になる。
なら今夜は、こう信じる。
俺は、人を荷にしない運び手だ。
迷った人間を、捨て札にさせず、戻る道へ乗せられる。
欠け指が人を奪うなら。
こちらは、人を返す道を作る。
第33話─了




