第3話 荷は喋らないが、嘘はつく
翌朝、俺は荷馬車の荷台に乗せられていた。
情けない話だが、自力ではまともに歩けなかった。
太腿の傷は布で固く巻かれ、背中も包帯で押さえられている。少し身体を動かすだけで、皮膚の奥が引きつった。
それでも昨日よりはましだった。
生きている。
痛いということは、まだ身体があるということだ。
俺は荷台の端に背を預け、ゆっくり息を吐いた。
「出発するぞ!」
ガルドの声が響いた。
宿場の前に、荷馬車が5台並んでいる。
前から順に、食料、布と雑貨、金属器具、樽と木箱、そして俺が乗せられている予備荷の馬車。
護衛は全部で8人。
商人頭のマルセルは、2台目の馬車の横で帳面を確認していた。
俺を見る周囲の目は、まだ硬い。
助けられた怪我人。
魔物を倒した怪しい雑用係。
その両方が、今の俺への評価だった。
まあ、当然だ。
俺でも怪しむ。
むしろ、いきなり歓迎される方が怖い。
馬が鼻を鳴らし、車輪が土を噛んだ。
荷馬車隊がゆっくり動き出す。
木の車輪が軋む音。
荷台が揺れる音。
馬の蹄。
革具の鳴る音。
護衛たちの足音。
俺は目を閉じた。
トラックとは何もかも違う。
エンジン音はない。
ミラーもない。
ナビもない。
排気ブレーキもない。
だが、荷が動く音だけは、どこか似ていた。
荷物は喋らない。
だが、嘘はつく。
見た目ではきっちり積まれているように見えても、少し走れば本性が出る。
重心が高い。
片側に寄っている。
固定が甘い。
箱の中身が遊んでいる。
湿気で縄が伸びている。
そういう荷は、音でわかる。
揺れ方でわかる。
車体の沈み方でわかる。
俺は耳を澄ませた。
1台目。
食料の袋が多いのだろう。沈みはあるが、揺れは小さい。
2台目。
布と雑貨。軽い。風が強い日なら少し怖い。
3台目。
金属器具。重いが、積み方は低い。まだ安定している。
4台目。
俺は目を開けた。
音がおかしい。
荷台の奥で、こつん、こつんと硬いものが当たっている。
固定してあるはずの樽が、わずかに遊んでいる音だ。
それだけではない。
左後ろの車輪だけ、泥を噛む音が重い。
積み荷が左後ろに寄っている。
「……あれ、まずいな」
小さく呟いたつもりだった。
だが、横を歩いていた若い護衛が反応した。
「何がだ」
名前はトマ。
昨日、俺を危険だと騒いでいた側のひとりだ。
若く、腕は立ちそうだが、こちらを見る目にはまだ棘がある。
「4台目の荷が左後ろに寄ってます」
「見ただけでわかるのか」
「音です」
「音?」
トマは鼻で笑った。
「馬車の音なんて、どれも同じだろう」
「同じに聞こえるうちは、荷を信用しすぎです」
言ってから、しまったと思った。
言い方がきつい。
ここは日本の運送会社でも、現場の休憩所でもない。
俺はまだ信用されていない。
案の定、トマの顔が険しくなる。
「何だと?」
「すみません。偉そうに言いました」
俺はすぐに頭を下げた。
「でも、次に大きく左へ曲がる場所があれば、4台目は外へ膨らみます。道が傾いていたら、最悪ひっくり返る」
トマは眉を寄せた。
「お前、昨日まで雑用係だったんだろ」
「前に、荷を見る仕事をしていました」
「どこの商会だ」
「遠いところです」
便利な言葉だ。
遠いところ。
前の世界とは言えない。
異世界から来ました、などとも言えない。
だが、嘘ではない。
トマはまだ疑っていたが、完全には無視できない様子だった。
そこへ、ガルドが近づいてきた。
「何を揉めている」
「こいつが、4台目の荷が危ないと」
ガルドが俺を見る。
「理由は」
「左後ろへ重心が寄っています。樽が遊んでいる音もします。今は平地だからいいですが、曲がりと傾斜が重なると倒れるかもしれません」
「止めるほどか」
「止めた方がいいです」
俺は即答した。
ここは引けない。
戦闘なら自信はない。
剣も魔法も、まだ使い方がわからない。
だが、荷の危なさならわかる。
そこだけは、俺の積んできた現実だ。
ガルドは少しだけ目を細めた。
「マルセル!」
声が飛ぶ。
「一度止める」
前方から、商人頭の声が返ってきた。
「まだ出たばかりだぞ!」
「荷を確認する」
「昨日の遅れを取り戻さねばならんのだ!」
「倒してから積み直すより早い」
それで話は終わった。
ガルドの判断は早かった。
隊商が渋々止まる。
4台目の馬車の布覆いが外された。
中には、大きな樽が4つ、木箱がいくつも積まれていた。
一見、縄で固定されている。
だが、俺の耳は間違っていなかった。
左後ろの樽の下に噛ませていた木片が割れ、樽がわずかに沈んでいる。
そのせいで周囲の木箱が斜めに押され、荷全体が左後ろへ寄っていた。
マルセルの顔色が変わった。
「……いつからだ」
御者が青ざめる。
「わ、わかりません。宿場を出る時は問題なかったはずで」
「雨で木が湿っていたんでしょう。走り出してから割れたのかもしれません」
俺が言うと、何人かがこちらを見た。
驚き。
疑い。
少しの感心。
俺は荷台から降りようとして、すぐにリーナに止められた。
「降りないでください」
「でも、積み直しを」
「口で言ってください。身体を壊したら、余計に邪魔です」
「はい」
正論だった。
俺は荷台に座ったまま、指示だけ出した。
「まず左後ろの樽を一度下ろしてください。下に割れた木片があります。それを抜いて、平たい板を2枚重ねる。樽は荷台の中央寄りへ。重いものは下、軽い箱は上。木箱は隙間を作らず、でも樽に押されて潰れないように」
「そんな細かく変えるのか?」
トマが言う。
「荷は喧嘩しますから」
「荷が喧嘩?」
「硬いものと柔らかいもの、重いものと軽いもの、丸いものと四角いものを何も考えずに積むと、走っているうちに押し合って崩れます」
言いながら、俺は懐かしくなった。
パレット。
ラッシングベルト。
角当て。
荷崩れ防止バー。
今はそんな便利なものはない。
だが、基本は同じだ。
重心を低く。
左右を均等に。
動く余地を消す。
擦れて切れる場所を作らない。
揺れる方向を考える。
それだけだ。
頭の中に、薄く表示が浮かんだ。
【役割固定:運び手】
【補正:荷重感覚】
【補正:危険予測】
視界の中で、荷の重さがぼんやり線のように感じられた。
魔法の光ではない。
だが、どこに重さがかかり、どこが浮いているかが、感覚としてわかる。
俺はそれに従って指示を出した。
「その箱は右前へ。違う、もう少し奥です。樽と樽の間には布袋を噛ませてください。縄は上から押さえるだけじゃなく、前後に逃げないよう斜めにも」
「斜め?」
「縦と横だけだと、揺れが斜めに入った時に逃げます」
作業していた男たちは、最初こそ半信半疑だった。
だが、実際に荷が安定していくにつれ、口数が減っていった。
最後に縄を締め直すと、さっきまでの不安な音は消えていた。
マルセルが俺を見る。
「お前、本当に荷運びをしていたのか」
「はい」
「遠いところで、か」
「はい」
マルセルはしばらく俺を見ていたが、それ以上は追及しなかった。
目の前で成果を出したからだ。
人間は正体不明のものを嫌う。
だが、利益になる正体不明なら、少しだけ扱いを考える。
商人ならなおさらだ。
「出発する。遅れを取り戻すぞ」
馬車隊が再び動き始めた。
俺は荷台に戻され、深く息を吐いた。
たったこれだけで、妙に疲れた。
傷も痛む。
だが、悪くない。
魔物を倒すより、こちらの方が俺らしい。
しばらく進むと、道は森の外れから丘陵地へ入った。
左右に低い草地。
遠くに黒い山並み。
道は細く、雨の名残でところどころぬかるんでいる。
空は晴れているが、地面は乾ききっていない。
俺は前方を見た。
道が少し下り、その先で左へ曲がっている。
曲がった先に、小さな石橋。
橋の手前だけ、道が片側へ傾いていた。
もし、さっきのまま進んでいたら。
4台目は、たぶんあそこで危なかった。
最悪、横転。
樽が割れ、後続が詰まり、護衛が荷の救出に回る。
その瞬間に魔物か盗賊が来れば、終わる。
想像しただけで首筋が冷えた。
「ガルドさん」
近くを歩いていたガルドが振り返る。
「あの橋、1台ずつ渡った方がいいです」
「理由は」
「手前が傾いてます。重い馬車同士が詰まると、前が止まった時に後ろが押して事故ります」
「馬車が馬車を押すほど速度は出ていない」
「速度じゃなくて間合いです。馬が嫌がって止まることもある。車輪が石に噛むこともある。止まった時、後ろが近すぎると逃げ場がありません」
ガルドは橋を見た。
それから俺を見る。
「わかった。間を空ける」
早い。
疑いはまだある。
だが、使う判断も早い。
ガルドが指示を飛ばし、馬車は1台ずつ橋へ向かった。
1台目。
2台目。
3台目。
問題はない。
4台目が橋の手前に差しかかった時、馬が急に首を振った。
御者が手綱を引く。
車輪がぬかるみに沈む。
荷台が左へ傾いた。
だが、間隔を空けていたため、後ろの馬車は余裕を持って止まれた。
護衛がすぐに駆け寄り、車輪の下へ板を噛ませる。
荷は揺れたが、崩れない。
横転もしない。
俺は息を吐いた。
危なかった。
だが、防げた。
マルセルの顔が、今度こそはっきり変わった。
警戒より、計算の色が濃くなる。
「ガルド」
マルセルが低く言う。
「この男、領都まで荷の監視に使え」
「本人は怪我人だ」
「口は動く」
ひどい。
だが、間違ってはいない。
ガルドは俺を見る。
「できるか」
「できます」
俺は頷いた。
「ただし、無理に急がない方がいいです。昨日の遅れを取り返そうとして事故ったら、余計に遅れます」
マルセルが渋い顔をした。
「遅れれば、取引に響く」
「荷が届かなければ、取引そのものがなくなります」
言った瞬間、場が静かになった。
少し言いすぎたかもしれない。
だが、マルセルは怒らなかった。
むしろ、細い目で俺を見た。
「……お前、商人に向かってよく言うな」
「すみません。でも、荷は無事に届いて初めて荷です」
これは、俺の本音だった。
時間指定。
納品先。
積み荷。
現場の都合。
いろいろある。
だが、事故を起こして届かなければ全部終わりだ。
遅れて怒られることはある。
だが、死んだら謝ることもできない。
マルセルはしばらく黙っていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「いいだろう。今日は無理に急がん。ただし、遅れをどう埋めるかも考えろ」
「え?」
「お前は口を出した。なら、代案も出せ」
商人らしい。
文句だけ言う奴はいらない。
代わりの手を出せ、というわけだ。
俺は考えた。
地図はない。
この身体の記憶も曖昧だ。
だが、道は見える。
馬車の状態も見える。
人の疲れも見える。
「休憩を短く増やしましょう」
「どういう意味だ」
「長く止まると、再出発に時間がかかります。馬も人も身体が冷える。だから短い休憩を何度か入れる。水を飲ませる。縄を見る。車輪を見る。御者を少し休ませる。その代わり、大休憩は削る」
マルセルは顎を撫でた。
「細かく止まる方が遅くならんか」
「事故や荷崩れがなければ、結果的に早いです。あと、危ない場所の前で一度止めて確認すれば、そこで詰まりません」
ガルドが頷いた。
「悪くない。護衛も周囲を見る時間が取れる」
「なら、それで行く」
マルセルの決断も早かった。
隊商は、俺の提案通りに動き始めた。
短い休憩。
水。
縄の確認。
車輪の泥落とし。
馬の様子。
最初は面倒そうにしていた御者たちも、橋の件があったせいか、文句を言いながらも従った。
昼を過ぎる頃には、隊商全体の空気が少し変わっていた。
俺を見る目も、ただの警戒だけではなくなっている。
役に立つかもしれない怪しい奴。
だいぶましだ。
昼過ぎ、丘を越えた先で、ガルドが隊を止めた。
道の脇に、獣の死骸があった。
鹿に似た動物。
腹が裂かれている。
だが、食われ方がおかしい。
肉がほとんど残っている。
血だけが吸われたように少ない。
護衛たちの表情が険しくなった。
「吸血蝙蝠か?」
「いや、昼にこれは変だ」
「森裂きの残りかもしれん」
俺は荷台の上から死骸を見た。
詳しい魔物の知識はない。
だが、妙な違和感があった。
死骸の周りの草が、一定方向に倒れている。
獣が暴れた痕ではない。
何か重いものを引きずったような跡。
しかも、その跡が道の方へ向かっている。
「ガルドさん。馬車、止めたままで」
「何か見えるのか」
「死骸から道へ、引きずった跡があります。獲物を食った場所から離れたんじゃなくて、道へ誘っているように見える」
ガルドの顔が変わった。
「誘い餌か」
その言葉で、護衛たちが一斉に武器を構えた。
マルセルが青ざめる。
「何がいる」
「わからん。だが、待ち伏せる魔物はいる」
ガルドが低く言った。
その瞬間、道端の泥が盛り上がった。
草の下から、茶色い塊が跳ねる。
蛇ではない。
虫でもない。
泥をまとった大きな蛙のような魔物。
口だけが異様に大きく、舌が縄のように伸びた。
狙いは先頭の馬。
「横へ!」
俺は叫んだ。
御者が反応するより早く、ガルドが動く。
剣で舌を斬った。
魔物が耳障りな声を上げる。
さらに、道の反対側から2匹目が飛び出した。
護衛たちが応戦する。
俺は荷台の上で歯を食いしばった。
戦えない。
今の身体では足手まといだ。
だが、見える。
魔物そのものではない。
危ない流れが見える。
馬が暴れれば、1台目が横を向く。
後続が詰まる。
護衛が前へ集まる。
その隙に、横から荷馬車を狙われる。
これは戦闘ではなく、事故だ。
「2台目、右に寄せないで! 馬の頭を前に向けたまま止めて!」
俺は叫んだ。
「3台目は間を空けろ! 4台目、後ろに下がるな! 後ろが詰まる!」
御者たちは一瞬迷った。
だが、橋の件が効いていた。
俺の声に従い、馬車が崩れずに止まる。
ガルドが1匹を斬り伏せた。
トマがもう1匹の足を槍で貫く。
そこへ、泥の中から3匹目が現れた。
狙いは俺の乗る5台目。
護衛が少ない後方。
完全に空いた場所。
「くそっ」
俺は痛む身体を起こした。
戦うな。
今の俺が戦えば死ぬ。
でも、何もしなければ馬がやられる。
馬が倒れれば、荷台が崩れる。
人が巻き込まれる。
右手を握る。
見えない弾。
昨日、森裂きを吹き飛ばした力。
あれを使えば止められるかもしれない。
だが、頭の奥で警告が鳴る。
【物語模倣の連続使用に注意】
【自己固定率:91%】
【役割固定を推奨】
使うなら、何の力として使うかを決めろ。
俺は魔法使いじゃない。
英雄でもない。
怪物でもない。
俺は運び手だ。
荷を守るために、邪魔なものをどける。
ただ、それだけ。
「道を空けろ」
右手を前へ出す。
派手な技名はいらない。
頭の中の物語たちが騒ぎかける。
撃て。
燃やせ。
貫け。
粉砕しろ。
だが、俺はそれを押さえつけた。
違う。
殺す力じゃない。
押し返す力だ。
「どけ!」
空気が弾けた。
昨日より弱い。
だが、狙いは正確だった。
泥蛙のような魔物の横っ腹に見えない衝撃が当たり、進路がずれる。
魔物は馬ではなく、荷台の横へ激突した。
荷台が大きく揺れる。
痛みで視界が白くなる。
だが、倒れない。
縄が持った。
積み直した荷が持った。
「トマ!」
俺が叫ぶ。
若い護衛が走っていた。
槍が魔物の口へ突き込まれる。
ガルドが続き、剣で首を落とした。
静寂。
荒い息。
馬の嘶き。
泥に沈む魔物の死骸。
俺は右手を下ろした。
頭の奥が少し痛い。
【役割固定:運び手】
【模倣出力を制限】
【自己固定率:91%】
下がっていない。
いや、わずかに揺れたが戻った。
役割を決めたからか。
俺は深く息を吐いた。
ガルドがこちらへ来る。
「今のは」
「自己暗示です」
「身体を動かすだけではなかったのか」
「道を空けるつもりで、少し」
「少しで魔物が横へ飛ぶか」
「俺もそう思います」
ガルドは黙った。
その目には、また警戒が戻っている。
当然だ。
今のは隠しきれない。
だが、昨日と違うこともある。
俺は隊商を守るために使った。
その事実も、同時に残った。
トマが戻ってきた。
顔に泥がついている。
俺を見る目が、少しだけ変わっていた。
「助かった」
短い一言だった。
俺は少し笑った。
「こっちこそ。最後、間に合ってくれて助かりました」
「……俺はまだ、お前を信用したわけじゃない」
「はい」
「だが、さっきの指示がなければ、馬車は詰まっていた」
「たぶん」
「そこは、認める」
大きな一歩だった。
信用とまではいかない。
だが、認められた。
異世界で得た、最初の現場評価だった。
その後、隊商はしばらくその場で立て直しをした。
魔物の死骸を道からどけ、馬を落ち着かせ、荷を確認する。
幸い、損害は小さかった。
荷台に少し傷がつき、縄が1本切れかけた程度。
俺はその縄を見て、交換を頼んだ。
「まだ使えるだろう」
御者が言った。
「今は使えても、次の揺れで切れます」
「もったいない」
「切れてから荷が崩れる方が高いです」
マルセルが横から言った。
「替えろ」
御者は黙って縄を替えた。
マルセルは俺の横に立った。
「アスト」
「はい」
「領都に着いたら、少し話がある」
「取り調べですか」
「それもある」
「他には?」
「仕事の話だ」
俺は瞬きした。
「仕事?」
「お前のように荷を見る者は、隊商に必要だ。腕の立つ護衛より安く済むなら、なおいい」
「安く使う気満々ですね」
「商人だからな」
悪びれもしない。
だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
安く使う気はある。
ただし、役に立つと見れば金を払う気もある。
そういう顔だった。
「考えておきます」
「お前に選ぶ余地があればな」
「ありますよ」
「ほう?」
俺は痛む身体で、少しだけ背筋を伸ばした。
「俺は役に立ちますから」
マルセルが一瞬だけ驚いた顔をし、それから笑った。
「怪しい上に、図太い」
「生き残るには必要かと」
「違いない」
夕方近く。
隊商はようやく領都を視界に捉えた。
丘の向こうに、石壁が見える。
日本の街とはまるで違う。
高い外壁。
門。
塔。
壁の上を歩く兵。
その向こうには、赤茶色の屋根が幾重にも重なっていた。
領都ルーヴェン。
この身体の記憶にある、このあたりで一番大きな街。
俺にとっては、異世界で初めて辿り着く人間の大きな拠点。
胸が妙にざわついた。
ここからだ。
森で目覚めた俺は、ただ生き残っただけだった。
宿場では、拾われた荷物だった。
道中では、少しだけ役に立つ雑用係になった。
そして領都では、何者になるのかを決めなければならない。
固有スキル持ち。
怪しい男。
運び手。
物語を頭に抱えた異世界人。
どれも俺で、どれもまだ足りない。
門へ近づくにつれ、兵士たちの姿がはっきり見えてきた。
槍。
鎧。
詰所。
検問。
荷の確認。
人の確認。
ガルドが俺を見た。
「ここから先は、言葉を選べ」
「はい」
「嘘をつくな。だが、全部を言うな」
「難しいですね」
「生きるとはそういうものだ」
ほんま、それ。
俺は小さく息を吐き、胸の奥で自分を確認した。
俺。
51歳。
大型トラック運転手。
日本で事故に遭った。
今はアスト。
固有スキルは自己暗示。
役割は運び手。
信じ込めた力だけが、俺の武器になる。
俺は、俺を見失わない。
【自己固定率:93%】
【役割固定:安定】
門の前で、隊商が止まった。
兵士が近づいてくる。
「商人ギルド所属、マルセル隊商だな」
「はい。森道で魔物に襲われ、報告事項があります」
マルセルが答える。
兵士の視線が、荷台の上の俺で止まった。
「その怪我人は?」
ガルドが短く言った。
「森裂きを倒して生き残った雑用係だ」
兵士の眉が跳ねた。
「詳しく聞く必要があるな」
俺は心の中でため息をついた。
領都に着いた。
だが、安心するにはまだ早い。
異世界の道は、門をくぐる前から渋滞しているらしい。
俺は痛む身体を起こし、兵士へ頭を下げた。
「アストです。話せることは話します」
兵士の目が鋭くなる。
その視線を受けながら、俺は思った。
魔物より、人間の方が面倒くさい。
でも、人間の世界で生きるなら、ここを避けては通れない。
荷を届けるには、門を越えなければならない。
俺という荷物も、同じだ。
領都ルーヴェンの門が、ゆっくり開いていく。
俺の異世界生活は、ようやく森を抜けた。
そしてたぶん、本当に面倒なのはここからだった。
第3話─了




