第4話 門の内側にある罠
領都ルーヴェンの門は、近くで見ると想像以上に大きかった。
石を積み上げた外壁。
人の背丈の何倍もある木の門。
その横に立つ兵士たち。
槍の穂先は鈍く光り、革鎧には古い傷がいくつも刻まれている。
観光地の城門ではない。
人を止めるための門だ。
魔物を防ぐための壁だ。
そして、怪しいものを中へ入れないための境界線だった。
今、その怪しいもの扱いされているのが俺である。
「森裂き4匹に襲われ、生存者1名。うち3匹を、その生存者が倒した、と」
門番の兵士が、ガルドの報告を聞きながら俺を見た。
目つきが完全に犯罪者を見るそれだった。
まあ、無理もない。
荷馬車の上に寝かされた若造。
身体中包帯だらけ。
なのに、魔物を複数倒したという話。
怪しい。
俺でも怪しむ。
「名は」
「アストです」
「出身は」
「ルカ村です」
この身体の記憶にある名前を答える。
ルカ村。
領都から森を挟んだ小さな村。
アストはそこで生まれ育った。
ただし、評判は良くない。
親なし。
腕なし。
魔法なし。
仕事も続かない。
今回の荷馬車隊の雑用係も、村を出るために半ば無理やり入れてもらったようなものだった。
「職は」
「雑用係です。今は……荷の見張りを少し」
「荷の見張り?」
兵士の眉が動く。
横からマルセルが口を挟んだ。
「道中、この者の指摘で荷崩れを避けられました。魔物の待ち伏せにも気づいております。怪しい点はありますが、隊商に損害を与えたわけではありません」
「怪しい点がある時点で問題だ」
「それは承知しています」
マルセルは商人らしく頭を下げた。
だが、完全に下手には出ていない。
荷を通さなければ、領都の商いにも響く。
そんな空気を、静かにまとっていた。
門前には、ほかの荷馬車や旅人も並んでいる。
ここで長く止めれば、後ろが詰まる。
待たされる人間は苛立つ。
苛立った人間は、余計なことを言う。
余計なことが増えると、事故が起きる。
現場の嫌な空気というのは、世界が変わっても似たようなものだった。
門番の兵士は、俺とマルセルと荷馬車隊を順に見た。
それから、短く息を吐く。
「隊商は通していい。ただし、その怪我人は詰所で聞き取りだ。商人頭、護衛頭、薬師見習いも同行しろ」
「承知しました」
マルセルが頷く。
俺は内心で息を吐いた。
牢屋直行ではない。
それだけで、今は十分すぎる。
荷馬車隊は門をくぐった。
俺も荷台のまま、領都の中へ入る。
まず鼻に来たのは、人の匂いだった。
土。
馬。
焼いた肉。
香草。
汗。
煙。
どこか下水に似た臭い。
いくつもの匂いが混ざって、むっと押し寄せてくる。
道は石畳だった。
ただ、日本の舗装道路とは比べものにならない。
石の高さが微妙に違い、車輪がごとごと跳ねる。
そのたびに傷が痛んだ。
「っ……!」
「顔色が悪いです」
横にいたリーナが、低い声で言った。
「大丈夫です」
「大丈夫な人は、そういう顔をしません」
「じゃあ、大丈夫じゃないです」
「はい。なので動かないでください」
正論だった。
俺は荷台の上で、なるべく揺れを殺すように身体を丸めた。
街の中は賑やかだった。
露店。
水売り。
荷車。
剣を下げた冒険者らしい連中。
大きな袋を背負った職人。
子ども。
修道女のような服を着た女たち。
どこを見ても異世界だった。
だが、浮かれる余裕はない。
俺の両脇には、兵士が2人ついている。
護衛ではない。
護送である。
門のすぐ内側にある詰所へ運ばれた。
石造りの建物。
中は薄暗く、壁には槍や盾が並んでいる。
俺は長椅子に座らされた。
座るだけで背中が痛む。
だが、寝転がるわけにもいかない。
兵士の1人が木の板と筆を持って向かいに座った。
「改めて聞く。名はアスト。ルカ村出身。間違いないな」
「はい」
「固有スキルがあると聞いた」
「はい」
そこは避けられない。
ガルドにはすでに話した。
ガルドが領兵に黙る理由もない。
下手に隠せば、後で余計に疑われる。
「スキル名は」
「自己暗示です」
兵士は筆を止めた。
「聞いたことがない」
「俺も、昨日初めて知りました」
「効果は」
ここが問題だった。
全部は言えない。
だが、少なすぎても怪しまれる。
俺は息を整えた。
「自分に強く言い聞かせることで、痛みに耐えたり、身体を無理に動かしたりできます。死にかけた時に、急に使えるようになりました」
「それで森裂きを倒したと?」
「地形と運もあります」
「魔法は使えるか」
「普通の魔法は使えません」
普通の、という言葉を少しだけ意識して使った。
兵士は気づかなかったようだが、ガルドはちらりと俺を見た。
鋭い。
やはりこのおっさん、変なところを拾う。
「道中で魔物を吹き飛ばしたという報告がある」
来た。
俺は右手を見た。
「あれも自己暗示です」
「身体を動かすだけではないのか」
「たぶん、自分を強く思い込んだ結果、身体の外にも力が出たんだと思います。ただ、狙って何度もできるかはわかりません」
嘘ではない。
完全に制御できているわけではない。
使えば、俺自身にも負担がかかる。
何度もできるとは言いたくない。
兵士は疑わしそうに俺を見た。
「都合のいい説明だな」
「俺もそう思います」
「自分で言うか」
「でも、本当にまだよくわかっていません」
そこへ、ガルドが口を開いた。
「森道でこいつがやったことは、隊商にとって害ではなかった。森裂きを倒し、荷崩れを防ぎ、魔物の待ち伏せを見抜いた。危険かどうかは別として、少なくとも道中で味方を傷つけてはいない」
「護衛頭としての証言か」
「そうだ」
兵士は板に何かを書き込んだ。
次にマルセルを見る。
「商人頭」
「私も同じ証言をします。この者の正体には不明な点があります。しかし、荷と人を守る働きはしました」
「雇う気か」
「能力次第では」
マルセルはあっさり言った。
兵士が苦い顔になる。
「商人は何でも値をつける」
「値をつけるから、無駄には捨てません」
「それを堂々と言うな」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、兵士の疑いは消えていない。
「薬師見習い。傷の状態は」
リーナが一歩前へ出た。
「深い裂傷と咬傷があります。普通なら、まだ起き上がれる状態ではありません。回復は早いですが、無理をすれば悪化します」
「毒気は」
「今のところありません」
「魔物化の兆候は」
その言葉に、俺は一瞬だけ身体を固くした。
魔物化。
そんなものがあるのか。
リーナは首を振った。
「ありません。目も正常。脈も人のものです。傷口にも黒化はありません」
「なら、今すぐ処分する理由はないか」
処分。
さらっと言われた。
背筋が冷える。
この世界では、怪しいものは本当に殺される。
魔物に変わる可能性があるなら、人道だの何だのと言っていられないのだろう。
ここは優しい異世界ではない。
都合よく主人公を受け入れてくれる舞台でもない。
生きるためには、信用と証明がいる。
兵士は立ち上がった。
「鑑定官を呼ぶ。固有スキル持ちなら、最低限の確認が必要だ」
来たか。
俺は顔に出さないようにしたが、内心では嫌な汗をかいていた。
鑑定。
それがどの程度のものかで、俺の運命が決まる。
スキル名だけを見るのか。
効果まで見るのか。
俺が異世界から来たことまでわかるのか。
頭の中にある物語模倣まで見抜かれるのか。
もし全部見えるなら、終わりだ。
この世界の人間から見れば、俺は危険物そのものだろう。
無数の能力を再現できる可能性がある。
しかも出所不明。
拘束。
監視。
利用。
最悪、解剖。
そこまで想像して、胃が重くなる。
頭の奥で表示が浮かんだ。
【対外鑑定の可能性を検知】
【自己保護反応:起動可能】
【注意:過剰な隠蔽は不審な反応として検出される恐れがあります】
便利だが、怖い。
隠せるのか。
だが、隠しすぎると怪しまれる。
大型で検問に引っかかった時と似ている。
書類を出せと言われて、妙に隠そうとすれば余計に調べられる。
見せていいものは見せる。
見せたらまずいものだけ、荷台の奥へ置く。
俺は心の中で、自分の情報を積み直した。
表に出すもの。
名前はアスト。
出身はルカ村。
固有スキルは自己暗示。
効果は痛覚鈍化、身体維持、恐怖耐性。
危険時の身体強化。
条件は、強く思い込むこと。
隠すもの。
俺が日本で死んだ記憶。
前の世界の知識の量。
頭の中の漫画、アニメ、小説。
物語模倣。
人格混濁。
自己固定率。
俺は静かに息を吸った。
俺は荷を積む。
見せる荷と、見せない荷を分ける。
嘘ではない。
ただ、全部を降ろさないだけだ。
【役割固定:運び手】
【情報整理を確認】
【自己保護:低出力起動】
胸の奥が少し落ち着いた。
しばらくして、鑑定官が来た。
年老いた女だった。
灰色の髪を後ろで束ね、深い青のローブを着ている。
目が細く、声は静かだった。
「この子かい。森裂きを倒した固有持ちというのは」
「子という年でもないです」
俺が思わず言うと、老婆はふっと笑った。
「年寄りから見れば、たいていの者は子さ」
それはそうかもしれない。
この身体は若い。
だが中身は51歳。
それでも、この老婆から見れば子どもなのだろう。
「名はアストと言ったね」
「はい」
「私はエルザ。領都詰所付きの鑑定官だ。怖がらなくていい、とは言わないよ。怖がるくらいがちょうどいい」
「正直で助かります」
「正直でない鑑定官は、長生きできないからね」
この街、正直に物騒な人が多い。
エルザは小さな水晶板を取り出した。
透明ではなく、薄く乳白色に濁っている。
「手を置きなさい」
俺は右手を伸ばした。
水晶板に触れた瞬間、冷たいものが皮膚から染み込んでくる感覚があった。
頭の奥で、何かが揺れる。
【外部鑑定干渉】
【開示範囲を調整】
【自己暗示:表層情報固定】
俺は心の中で繰り返した。
俺はアスト。
固有スキルは自己暗示。
効果は身体を奮い立たせること。
痛みに耐えること。
死にかけても立つこと。
荷を守るために動くこと。
それ以上は奥へ。
荷台の奥へ。
縄をかけろ。
布を被せろ。
今は見せるな。
水晶板がぼんやり光った。
エルザの目が細くなる。
「……ふむ」
嫌な沈黙だった。
長い。
長すぎる。
額に汗が浮く。
リーナが心配そうにこちらを見る。
ガルドはいつでも剣を抜ける位置にいる。
マルセルは表情こそ商人のままだが、指先が小さく帳面を叩いていた。
やがて、エルザが水晶板から手を離した。
「固有スキルは確認できた。名は、自己暗示」
詰所の空気が少し動く。
「効果は、精神状態に応じた身体強化、痛覚鈍化、恐怖耐性。低位の衝撃魔法に似た現象も、ごく短時間なら発生する可能性あり」
俺は息を殺した。
そこまでは見えた。
だが、物語模倣までは出ていない。
異世界人とも言われない。
まずは通った。
「危険度は」
兵士が聞く。
エルザは少し考えた。
「中」
「中?」
「低とは言えない。自己判断で力が跳ねる可能性がある。だが、常時暴走しているわけではない。本人の意識が保たれている限り、制御は可能だろう」
「監視対象か」
「登録対象だね」
監視よりはましなのか。
いや、登録対象も十分怖い。
俺は慎重に聞いた。
「登録とは?」
エルザがこちらを見た。
「固有スキル持ちは、街に登録する。犯罪に使えば罪は重くなるが、仕事に使えば信用にもなる。隠すよりは生きやすい」
「登録しないと?」
「門の外へ戻ることになる」
実質、登録しろということだ。
この怪我で門の外へ放り出されたら死ぬ。
選択肢はない。
「登録します」
俺は答えた。
兵士が頷き、板に記録する。
エルザは水晶板をしまったが、その目はまだ俺を見ていた。
「ただし、アスト」
「はい」
「このスキルは、あまり乱用しない方がいい」
心臓が跳ねた。
「なぜですか」
「自己暗示とは、自分を自分で縛る術だ。使い方を誤れば、力より先に心が歪む」
見えているのか。
全部ではない。
だが、方向はわかっている。
俺は黙った。
エルザは続ける。
「痛みに耐えるのはいい。恐怖を抑えるのもいい。だが、恐怖を感じない人間になろうとしてはいけない。死を恐れぬ者は強いのではない。ただ、死に近いだけだ」
その言葉は、妙に胸に刺さった。
俺は森で、死にたくない一心で力を使った。
それはいい。
だが、もし次に「俺は痛くない」「俺は怖くない」「俺は死なない」と思い込みすぎれば。
本当に、戻れなくなるかもしれない。
「覚えておきます」
「覚えているだけでは足りないよ。自分に戻る方法を持ちなさい」
俺は一瞬迷った。
そして、少しだけ答えた。
「名前を確認しています。自分が誰か。何をしてきたか」
エルザは満足そうに頷いた。
「いい。古いやり方だが、効く」
古いやり方。
つまり、この世界にも似た危険はあるのだ。
戦士が戦いに呑まれる。
魔法使いが魔力に呑まれる。
聖職者が信仰に呑まれる。
俺は物語に呑まれる。
形は違っても、人が自分を失う危険は同じなのかもしれない。
聞き取りはそれからもしばらく続いた。
森裂きとの戦い。
宿場での治療。
道中の荷崩れ回避。
泥蛙のような魔物――こちらでは泥喰い蛙というらしい――との遭遇。
俺は話せる範囲で話した。
話すたびに、どこまで言うかを考える。
全部隠せば怪しい。
全部話せば危ない。
この綱渡りは、魔物と戦うより神経を使った。
ようやく解放された時には、日が傾きかけていた。
俺は詰所の長椅子にぐったり背を預けた。
背中が痛い。
太腿も痛い。
頭も痛い。
エルザの鑑定で、精神的にも削られた。
「今日はもう動かない方がいいです」
リーナが言った。
「俺もそう思います」
「珍しく意見が合いました」
「俺、そこまで無茶ばかりしてます?」
リーナは答えなかった。
答えないことで答えていた。
ガルドが低く笑う。
「いい薬だな」
「薬より効きそうです」
俺がそう言うと、リーナは少しだけ呆れた顔をした。
マルセルが帳面を閉じる。
「アスト。登録は済んだ。お前はしばらく領都に滞在できる」
「しばらく?」
「身元確認が終わるまでだ。ルカ村へ問い合わせが行く」
「なるほど」
村での評判を考えると、あまり期待はできない。
役立たず。
頼りない。
仕事が遅い。
そんな評価だろう。
それはそれで悲しいが、危険人物扱いよりはましだ。
「それで、仕事の話だ」
マルセルが言った。
「本当にするんですか」
「する。だが、その前にお前を治す必要がある。まともに歩けない荷運びなど、荷物以下だ」
「言い方」
「事実だ」
ぐうの音も出ない。
「商人ギルドの下宿に空きがある。安いが寝床はある。治療代は今回の報酬から引く」
「報酬があるんですか」
「森裂きの件、荷崩れ回避、泥喰い蛙の件。すべて合わせて銀貨4枚」
銀貨4枚。
この世界の価値はまだよくわからない。
この身体の記憶では、村の人間が数週間は暮らせる額だ。
少なくはない。
だが。
「治療代と下宿代を引くと?」
「残りは銀貨1枚と銅貨6枚だ」
「めちゃくちゃ引かれてますね」
「命は高い」
「確かに」
そこは文句を言えない。
治療してもらわなければ死んでいた。
寝床も必要だ。
むしろ借金にならないだけましかもしれない。
リーナが少し眉を寄せた。
「治療は私が続けます。途中で放置すれば、傷が悪くなります」
マルセルが横目で見た。
「薬師見習いが決めることか?」
「患者を悪化させると、師匠に怒られます」
「なら仕方ない」
それで通るのか。
リーナの師匠、何者だ。
その時だった。
扉が開き、若い兵士が入ってきた。
「ガルド殿、マルセル殿。商人ギルドから使いです。森道の件で、ギルド長が話を聞きたいと」
マルセルが顔をしかめた。
「早いな」
「門の報告が回ったようです」
ガルドが俺を見る。
「人気者だな」
「全然嬉しくないです」
マルセルは少し考え込んだ。
「アストは今日は無理だ。見ればわかるだろう」
若い兵士も俺を見て、少し同情したような顔をした。
「それは、まあ」
「ギルド長には明日連れていく。そう伝えろ」
「承知しました」
兵士が去る。
俺は深く息を吐いた。
明日は商人ギルド長。
次から次へと面倒が来る。
異世界の生活、全然スローではない。
「今日は下宿へ運ぶ」
ガルドが言った。
「歩け」
「無理です」
「なら担ぐ」
「できれば丁寧にお願いします」
「努力する」
努力だけでは怖い。
結局、俺は護衛2人に支えられながら詰所を出た。
領都の夕方は、さらに人が多くなっていた。
仕事を終えた職人。
買い物をする女たち。
酒場へ向かう男たち。
子どもたちの笑い声。
遠くで鐘が鳴る。
石畳に夕日が反射し、街全体が赤く染まっている。
俺はその光景を見ながら、不思議な気分になった。
生きている。
この世界に、俺は入った。
まだ客でも住人でもない。
怪しい登録者。
仮の荷物。
でも、門の内側には入った。
それは大きい。
商人ギルドの下宿は、表通りから少し外れた場所にあった。
2階建ての木造建物で、1階は倉庫兼食堂、2階が寝室らしい。
俺に与えられた部屋は狭かった。
ベッド。
小さな机。
水差し。
窓。
それだけ。
だが、屋根がある。
横になれる。
魔物がすぐには襲ってこない。
今の俺には十分すぎるほどだった。
「明日の朝、迎えに来る」
ガルドが言った。
「ギルド長と話すんですよね」
「ああ」
「どういう人ですか」
「商人だ」
「それは知ってます」
「金になるものを見逃さず、危ないものには先に値札をつける男だ」
「つまり、俺に値札をつけに来ると」
「そうだ」
わかりやすい。
嫌だが、わかりやすい。
マルセルも同じようなものだが、ギルド長となると規模が違うだろう。
俺のスキルを危険物として扱うか。
便利な人材として扱うか。
明日の会話で決まるかもしれない。
「気をつけることは?」
俺が聞くと、ガルドは少し考えた。
「安く売るな」
「え?」
「お前は怪しい。弱い。身元も薄い。だが、役に立つところを見せた。なら、ただの雑用係として買われるな」
意外な言葉だった。
「助言してくれるんですか」
「隊商を守った分の礼だ」
「ありがとうございます」
「勘違いするな。俺はまだお前を完全には信用していない」
「はい」
「だが、安く買われた人間は、安い扱いを受ける。使い潰されるぞ」
それは重い言葉だった。
この世界では、人の値段がそのまま扱いに直結する。
安い仕事。
安い命。
安い責任。
前の世界でも似たようなものはあった。
無理な運行。
安い運賃。
削られる休憩。
雑に扱われる現場。
安く見られた仕事は、最後に人を壊す。
俺はもう、1回死んでいる。
同じことを繰り返すわけにはいかない。
「覚えておきます」
「それと、ギルド長の前で妙な力は見せるな。見せれば、値が上がる前に鎖がつく」
「怖いですね」
「人間の欲は、魔物より長く追ってくる」
ガルドはそう言って部屋を出た。
リーナは傷の確認をしてから、無理をしないよう短く言い残して出ていった。
マルセルは報酬の残りを小袋に入れて机に置いた。
銀貨1枚と銅貨6枚。
異世界で得た、最初の金。
俺はそれをしばらく見つめていた。
今はこの世界の価値を覚えなければならない。
飯はいくらか。
宿はいくらか。
薬はいくらか。
服は。
武器は。
情報は。
そして、自分はいくらで売るべきか。
ベッドに横になると、身体の力が抜けた。
痛い。
疲れた。
だが、眠る前にやることがある。
俺は小さく呟いた。
「俺。51歳。大型トラック運転手。日本で事故に遭った」
胸の奥が落ち着く。
「今はアスト。ルカ村出身の身体。領都ルーヴェンに入った。固有スキルは自己暗示」
頭の奥で、表示が浮かぶ。
【自己確認行動を検知】
【自己固定率:94%】
「役割は運び手。荷を守る。人を守る。道を読む。無理はしない」
【役割固定:運び手】
【安定】
少しだけ安心した。
俺は俺だ。
まだ、大丈夫。
窓の外では、領都の夜が始まっていた。
遠くで酒場の笑い声がする。
荷車の音がする。
誰かが歌っている。
その全部が、俺の知らない世界の音だった。
だが、不思議と怖さだけではなかった。
ここには仕事がある。
人がいる。
道がある。
荷が動いている。
なら、俺にも入り込む余地がある。
剣士としてではなく。
魔法使いとしてでもなく。
まずは、運び手として。
ただし、忘れてはいけない。
俺の頭の中には、まだ開けていない荷が山ほどある。
物語の力。
英雄の影。
怪物の衝動。
それらは便利な道具であると同時に、危険な積み荷だ。
雑に扱えば、俺自身が潰される。
「……荷崩れ注意、やな」
思わず呟いて、少し笑った。
異世界に来てまで、俺は荷崩れを心配している。
でも、たぶんそれでいい。
俺は英雄ではない。
少なくとも、今はまだ。
俺は荷を積む。
道を読む。
危険を避ける。
そうやって、生き延びる。
明日は商人ギルド長との面談。
値札をつけられる日。
なら、こちらも準備しなければならない。
安く買われないために。
危険物として鎖をつけられないために。
そして、この世界で最初の居場所を得るために。
俺は目を閉じた。
眠りに落ちる直前、頭の中に薄い文字が浮かんだ。
【新規課題】
【商人ギルドとの交渉】
【推奨:交渉系統の模倣は低出力に留めること】
【警告:他者を欺く前に、自分を欺きすぎないでください】
まったく。
便利なスキルなのに、いちいち説教くさい。
だが、その警告は正しい。
明日、俺は誰かを騙すかもしれない。
全部を話さず、自分を高く見せ、危険を小さく見せる。
それは交渉だ。
だが、その前に。
俺自身が、俺の値段を間違えてはいけない。
安売りしない。
盛りすぎない。
崩れないように、きっちり積む。
俺はその言葉を胸の中で何度も繰り返しながら、ようやく眠りに落ちた。
第4話─了




