第21話 信じ込め、俺は道を斬る
半札の運用は、思った以上に面倒だった。
1枚の木札を斜めに割る。
片方をギルド控え。
片方を運び手や依頼人が持つ。
受け渡しの時に合わせ、焼き印の線と記号がつながるかを見る。
理屈は単純だ。
だが、現場でやると手がかかる。
「この札は?」
セリアが木片を俺の前に置いた。
「……谷村物資の控え」
「違います。これは西市場臨時仕事の控えです」
「似てるんですよ」
「似ているから覚えるのです」
朝から容赦がない。
俺は作業部屋の机に向かい、木札を見比べていた。
隣ではノルも同じように札を読まされている。
手にはまだ包帯が残っているが、顔色は昨日よりずっとましだった。
「俺、字は少し読めると思ってたけど、仕事の札になると全然違うな」
「俺もです」
「アストさんも?」
「はい。今、めちゃくちゃ怒られてます」
ノルが少し笑った。
その笑いが出るだけ、彼は戻ってきている。
危険な荷を受けた若い運び屋。
今は、軽急便の下働き見習い。
まだ荷は持たせない。
まず札を読む。
危険な報酬を疑う。
中身不明を断る。
その訓練からだ。
窓の外では、商人ギルドの荷場が動き始めている。
谷村への追加物資。
南の別邸から戻ってきた受取札。
西市場臨時受付用の半札。
荷車。
馬。
人足。
その流れを見ていると、少しだけ胸が落ち着く。
正規の道が形になってきている。
まだ弱い。
穴だらけだ。
でも、昨日よりはましだ。
その時だった。
外で馬が嘶いた。
ただの嘶きではない。
怯えた、裂けるような声だった。
続いて、荷場の方で誰かが叫ぶ。
「魔物だ!」
椅子が倒れた。
セリアが立ち上がる。
ノルの顔から血の気が引いた。
俺は反射的に杖を掴んだ。
「アストさん、動かないでください」
セリアが鋭く言う。
「見ないと」
「あなたはまだ戦える身体ではありません」
「戦いに行くとは言ってません」
そう言いながら、もう足は扉へ向かっていた。
嘘ではない。
戦いに行くつもりではなかった。
ただ、荷場で何が起きているかを見なければならない。
見るだけ。
そう思っていた。
だが、荷場に出た瞬間、その考えは甘かったとわかった。
荷場の端で、馬が2頭暴れていた。
荷車の1つが横に傾き、布袋が地面に散っている。
人足たちが逃げ惑う。
その向こう。
黒い毛並みの犬に似た魔物が、3匹。
いや、4匹。
地面に低く身を沈め、牙をむき出していた。
普通の犬ではない。
背中から黒い骨のような突起が伸び、目が赤く濁っている。
口の端から、泡の混じった唾液が落ちていた。
「黒爪犬だ!」
誰かが叫ぶ。
黒爪犬。
この身体の記憶が、うっすら反応した。
街道沿いに出る小型魔物。
群れで動く。
人間より馬を先に狙う。
ただし、こんな領都の荷場まで入ってくることは普通ない。
普通なら。
俺は地面を見た。
荷場の隅。
崩れた空樽の近く。
黒い粉が撒かれている。
黒鳴石の粉。
まさか。
欠け指側が、ここまで来たのか。
偽札を止められたから。
危険荷を押さえられたから。
今度は、荷場そのものへ魔物を寄せたのか。
黒爪犬の1匹が、逃げ遅れた人足へ飛びかかった。
若い男。
昨日、偽札に釣られて西外れ倉庫へ行きかけた1人だ。
彼は尻餅をつき、腕で顔をかばった。
間に合わない。
ガルドはここにいない。
護衛も、馬を抑えるので手一杯。
兵士を呼んでいる時間もない。
俺の身体は、まだ壊れ物だ。
背中は痛む。
太腿も完全ではない。
戦闘不可。
過負荷禁止。
全部わかっている。
でも。
今ここで動かなければ、人が死ぬ。
俺は近くにあった荷解き用の鉈を掴んだ。
木箱の縄を切るための、片刃の重い刃物。
剣ではない。
でも、刃はある。
道を塞ぐものを斬るには、十分だ。
「アストさん!」
セリアの声が後ろから飛ぶ。
ノルも何か叫んだ。
俺は聞かなかった。
いや、聞こえていた。
だが、今はそれを後ろへ積んだ。
前に積むべき言葉は1つだけだ。
俺は英雄じゃない。
剣豪でもない。
魔法剣士でもない。
ただの運び手だ。
だが、俺は知っている。
雷みたいに踏み込む剣士を。
一瞬で間合いを詰める影を。
巨体の怪物の脚を断つ兵士を。
拳ひとつで道をこじ開ける男を。
何百回も何千回も、画面の中で、紙の上で、頭の中で見てきた。
あれは物語だ。
俺の身体は、あいつらにはなれない。
でも。
1歩だけなら。
1振りだけなら。
道を塞ぐ牙を斬るだけなら。
信じ込め。
俺は、道を斬る。
【自己暗示候補:物語模倣】
【参照対象:物語内剣士群・斬撃動作群】
【適合率:38%】
【警告:肉体強度不足】
【効果:踏み込み補正・斬撃軌道補正・恐怖抑制】
【制限:連続使用不可】
【起動しますか】
起動。
世界が、薄くなった。
音が遠ざかる。
馬の嘶き。
人の悲鳴。
荷袋の転がる音。
全部が遠い。
代わりに、黒爪犬の動きだけが線になって見えた。
飛びかかる軌道。
前脚。
首。
牙。
俺の足は勝手に沈んだ。
踏み込む。
太腿が悲鳴を上げる。
背中の傷が熱くなる。
だが、身体は前へ出た。
速い。
自分の身体ではないみたいに。
いや、俺の身体だ。
俺が信じ込ませた身体だ。
黒爪犬の横腹へ入り、鉈を振り上げる。
狙うのは首ではない。
前脚。
跳躍の支点。
そこを斬れば、道は開く。
「おおおっ!」
叫びと同時に、鉈が走った。
重い感触。
黒爪犬の前脚が弾かれ、魔物の身体が横へ崩れる。
牙は人足の顔へ届かなかった。
地面に叩きつけられた黒爪犬が、耳障りな声で鳴く。
俺は止まらない。
止まったら、次が来る。
2匹目が俺へ向いた。
赤い目。
泡の唾液。
黒い爪。
恐怖が来る。
身体が逃げろと言う。
だが、俺はその恐怖を握った。
消さない。
恐怖は、相手の速さを教えてくれる。
飛び込んでくる角度を教えてくれる。
【恐怖抑制:低出力】
【斬撃模倣:継続】
【警告:残り安全行動数 2】
2。
なら、2回で終わらせる。
2匹目は低く走ってきた。
こいつは飛ばない。
足を狙う。
なら、上からでは遅い。
俺は鉈を両手で持ち、身体を半歩引いた。
荷車の陰。
散った布袋。
足元の縄。
見える。
全部、荷場の道具だ。
俺は足元の縄を蹴り上げた。
縄が黒爪犬の前脚に絡む。
一瞬だけ、速度が落ちる。
その一瞬でいい。
踏み込む。
横薙ぎ。
鉈の刃が、黒爪犬の首元をかすめ、黒い毛と血が飛んだ。
浅い。
だが、十分。
魔物の体勢が崩れる。
俺はその肩に膝を入れ、荷車の車輪へ叩きつけた。
車輪にぶつかった黒爪犬が動きを止める。
3匹目が来る。
こいつは俺ではなく、馬を狙った。
馬が暴れれば、荷車が倒れる。
人が潰れる。
道が塞がる。
駄目だ。
あいつを止めろ。
俺は鉈を投げそうになった。
だが、外せば終わる。
なら、別のもの。
近くにあった木製の車止め。
重い。
普通なら投げるものではない。
でも、頭の中にはいる。
丸太を投げる豪傑。
石柱を振るう怪力の男。
怪物を押し返す巨人みたいな戦士。
俺は怪力ではない。
だが、今だけ。
道を守るために、これを動かせ。
【自己暗示候補:怪力動作模倣】
【参照対象:物語内怪力者群】
【適合率:29%】
【効果:瞬間筋力補正】
【警告:筋繊維損傷・傷口再裂傷の危険】
【推奨:非起動】
知るか。
いや、知ってる。
危ないのはわかっている。
でも、馬が倒れれば人が死ぬ。
起動。
【怪力動作模倣:瞬間起動】
腕と背中が燃えた。
痛い。
だが、車止めは持ち上がった。
俺はそれを、黒爪犬の進路へ投げる。
正確ではない。
だが、十分だ。
車止めは地面を跳ね、黒爪犬の前に転がった。
魔物が避ける。
その避けた先には、荷車の横板があった。
ぶつかる。
動きが止まる。
その瞬間、護衛の1人が槍を突き出した。
黒爪犬の肩に刺さる。
「今だ!」
俺は叫んだ。
護衛がもう1歩踏み込み、黒爪犬を押し返す。
よし。
3匹。
残りは。
4匹目。
見えない。
どこへ行った。
胸が冷えた。
その時、ノルの声が響いた。
「後ろだ!」
振り返る。
4匹目は、荷場の奥へ回っていた。
そこにはセリアがいる。
書記見習いたちを下がらせながら、半札の入った箱を抱えていた。
半札。
偽札対策の控え。
あれを散らされれば、今日の仕事が止まる。
だが、それより先に。
セリアが危ない。
俺の足は動こうとした。
だが、太腿が抜けた。
膝が落ちる。
限界。
【警告:過負荷】
【斬撃模倣:継続不可】
【怪力動作模倣:反動発生】
【行動停止を推奨】
うるさい。
まだだ。
あと1歩。
いや、俺が行く必要はない。
俺は運び手だ。
全部、自分で運ぶな。
道を通せ。
人を動かせ。
「ノル!」
俺は叫んだ。
「半札の箱を捨てろ! セリアさんを引け!」
ノルが一瞬固まった。
だが、すぐ動いた。
彼は荷場の横から走り込み、セリアの腕を掴んだ。
「こっち!」
「箱が」
「人が先だ!」
ノルが叫ぶ。
その声が、妙に嬉しかった。
人が先。
ちゃんと伝わっている。
セリアは一瞬だけ迷い、それから半札の箱を床へ滑らせた。
ノルが彼女を引く。
黒爪犬が飛びかかった。
半札の箱が弾け、木札が散る。
セリアとノルはぎりぎりで避けた。
だが、黒爪犬はすぐ次に動く。
もう1回飛べば、追いつかれる。
俺は立てない。
鉈は手にある。
投げるしかない。
外せば終わり。
なら、外さないと信じ込め。
俺は剣豪ではない。
投擲の達人でもない。
だが、頭の中にはいる。
短剣を投げる狩人。
槍を放つ英雄。
敵の動きを読んで、一点だけを射抜く弓兵。
全部を借りるな。
1つだけ。
道を塞ぐ爪を止める1点だけ。
【自己暗示:投擲軌道模倣】
【適合率:31%】
【効果:目標軌道補正】
【警告:右肩負荷大】
【起動】
俺は鉈を投げた。
刃は回転しながら飛んだ。
狙いは首ではない。
前脚。
飛び上がる瞬間、地面を蹴る脚。
鉈が黒爪犬の前脚に当たった。
深くはない。
だが、軌道が崩れる。
魔物はセリアとノルの手前で地面に落ちた。
そこへ、ようやくガルドが飛び込んできた。
剣が抜かれる。
一閃。
黒爪犬の首が落ちた。
速い。
きれいで、無駄がない。
本物の戦士の斬撃だった。
俺が借り物の動きで無理やり道を開いたのとは違う。
ガルドはすぐ周囲を見た。
「残りは!」
「3匹、動き止めた! 1匹は槍!」
俺は叫んだつもりだったが、声がかすれた。
ガルドと護衛が動く。
槍を受けた黒爪犬を仕留める。
前脚を斬った1匹も、もう1人の護衛が止めを刺す。
荷車に叩きつけた1匹は、逃げようとしたところを馬丁のニコが棒で叩き、ガルドが斬った。
終わった。
荷場に、荒い息だけが残る。
人足たちが震えている。
馬もまだ怯えている。
散った半札。
倒れた布袋。
黒い粉。
魔物の血。
そして、俺は膝をついたまま、動けなかった。
背中が熱い。
太腿が焼けるように痛い。
右肩が痺れている。
やばい。
これは、かなりやばい。
「アスト!」
ノルが駆け寄ってきた。
セリアも顔色を変えている。
「動かないでください」
「……それ、リーナさんの台詞」
「今は私が言います」
セリアの声が震えていた。
珍しい。
いつも冷静な彼女が、明らかに怒っている。
いや、怖がっている。
「無茶をしましたね」
「しました」
「認めるのが早い」
「言い訳できません」
ガルドが近づいてきて、俺の前にしゃがんだ。
「傷は」
「背中と太腿。あと肩。出血は……わかりません」
ガルドは舌打ちした。
「薬師を呼べ!」
職員が走る。
俺はその場に座り込んだ。
身体が重い。
だが、意識はある。
自己固定は。
【自己確認を推奨】
はいはい。
俺。
51歳。
大型トラック運転手。
今はアスト。
固有スキルは自己暗示。
役割は運び手。
今は、戦士じゃない。
借りただけ。
戻れ。
戻ってこい。
【自己確認行動を検知】
【自己固定率:93%】
【低下を確認】
【物語模倣残滓あり】
【推奨:休息・治療・模倣解除】
93%。
下がっている。
冷たい汗が出た。
やはり危ない。
物語の戦闘能力を深く被ると、俺自身が薄くなる。
強い。
確かに強い。
でも、危険だ。
俺は息を吐いた。
「俺は……戻ってます」
誰に言ったのか、自分でもわからない。
セリアが真剣な顔で頷いた。
「戻ってください。仕事が残っています」
「それ、励ましですか」
「はい」
「セリアさんらしい」
少し笑おうとして、痛みに顔が歪んだ。
◆
薬師が来るまでの間に、荷場の安全確認が行われた。
黒い粉は、封印係が呼ばれるまで触らない。
黒爪犬の死骸も、領兵と薬師が確認するまで動かさない。
馬はニコが落ち着かせる。
人足たちは怪我の確認。
幸い、重傷者はいなかった。
最初に襲われかけた若い人足は、腕を少し擦りむいただけだった。
セリアとノルも無事。
半札の箱は壊れたが、人は無事。
それでいい。
木札は作り直せる。
人は戻らない。
ノルは散った半札を集めながら、何度も俺の方を見た。
「俺、動けた」
「はい」
「箱を捨てろって言われて、セリアさんを引けた」
「よくやりました」
ノルは唇を噛んだ。
「前なら、荷を先に持ったと思う」
「今は人を先にした」
「うん」
それは大きい。
危険荷を受けた若い運び屋が、人を先にした。
今日、それだけでも意味がある。
ガルドは黒い粉の跡を見て、顔を険しくしていた。
「荷場に撒かれた。内部に入った者がいる」
「欠け指側ですか」
「だろうな。偽札が駄目なら、今度は魔物で潰しにきた」
「軽急便の信用を落とすため?」
「それもある。だが、お前を狙った可能性もある」
俺は黙った。
考えたくはない。
でも、ありえる。
正規の道。
黒札。
半札。
臨時仕事受付。
全部に俺が関わっている。
欠け指側から見れば、邪魔なのだろう。
「それなら、なおさら動ける身体に戻らないと」
俺が言うと、ガルドの目が怖くなった。
「逆だ。今は休め」
「はい」
「返事だけでなく、休め」
「はい」
今度は本気で逆らえない。
というか、逆らう体力がない。
◆
薬師が来て、俺の傷を確認した。
背中の傷は完全には開いていない。
だが、周囲が熱を持っている。
太腿は筋を痛めている。
右肩は投擲の反動で炎症。
総評は。
「馬鹿ですか」
薬師はそう言った。
リーナではない。
別の薬師なのに、言うことが似ていた。
「すみません」
「謝罪で肉は繋がりません」
「はい」
「しばらく安静。自然治癒促進というものが本当に働いているとしても、材料と休息がなければ壊れます」
「はい」
「はい、ではなく寝なさい」
「はい」
完全に患者である。
俺はそのまま下宿へ運ばれることになった。
本当に荷扱いだ。
だが、今回は文句を言わなかった。
言えなかった。
荷車に乗せられ、荷場を出る前に、俺は黒爪犬の死骸と黒い粉の跡を見た。
魔物を斬った。
自分の身体で。
自己暗示で、頭の中の物語の動きを借りて。
確かに、無双の片鱗はあった。
魔物の動きが線で見えた。
身体が一瞬だけ、物語の戦士に近づいた。
でも、代償は重い。
自己固定率も下がった。
これを気持ちよく使い続ければ、俺は俺でなくなるかもしれない。
それでも。
必要な時は、使う。
ただし、使い方を間違えない。
俺は運び手だ。
戦士になりたいわけじゃない。
道を開くために、一瞬だけ斬る。
それでいい。
【戦闘模倣:初回実戦完了】
【効果:黒爪犬4体の進行阻止】
【代償:肉体負荷大・自己固定率低下】
【推奨:戦闘模倣の使用条件設定】
【役割固定:運び手】
【補足:戦闘は目的ではなく、道を守る手段です】
その通りだ。
戦闘は目的ではない。
でも、道を守るために必要なら。
俺は斬る。
信じ込めた力だけが、俺の武器になる。
なら、今日信じたのはこれだ。
俺は英雄ではない。
けれど、道を塞ぐものを斬ることはできる。
荷車がゆっくり動き出す。
荷場では、人々がもう片付けを始めていた。
散った半札を拾う者。
馬を落ち着かせる者。
黒い粉の周りに縄を張る者。
魔物に怯えながらも、仕事は止まらない。
道は、またつながる。
俺は目を閉じた。
痛みで眠れそうにない。
だが、不思議と胸の奥は静かだった。
無双とは、全部を壊すことではない。
少なくとも、俺にとっては違う。
道を塞ぐものだけを、必要なだけ斬る。
そのために、俺は物語の力を借りる。
俺を失わない範囲で。
荷を、人を、道を守るために。
今日は、その最初の1歩だった。
第21話─了




