9. ユエ「困ったことになった」
彼はオウラン皇国第十六代皇帝シン・ダーフェイ陛下の長子、シン・リュオ皇太子殿下。私の婚約者ーーというのは建前で、私の使命は彼の妃となり、子を為すことではない。
私の本名はラオ・ユエ。はるか古代より続く闇の一族、老家の末裔。
老家は代々伝わる暗殺の秘技・秘術を用い、千年以上にわたって歴史の裏側で暗躍してきた。「老を得た者が天下を得る」と怪しげな言い伝えが囁かれるほど、その存在は恐れられている。
実際、オウラン建国にも老家は深く関わっており、歴代皇帝の政敵を何度も闇に葬ってきた。ただ、今の私の使命は暗殺ではなく、現皇帝を守ることだ。
急進的で、時に強引に改革を推し進める現皇帝には敵が多い。近頃は組織的で大がかりな暗殺計画の存在も見え隠れしている。そこで暗殺のエキスパートである私の出番というわけだ。
厳重な警備を掻い潜り、痕跡を残さず人を消し去る方法において、私より長けた人間はおそらくいない。ならばそれを防ぐことにおいても、私以上の適任者はいないだろう。
素性を隠し、皇帝の近くで警護ができる身分となると選択肢は極めて限られる。最も自然に宮廷に潜り込む方法は、皇太子の婚約者となることだった。
今の私はホァン・ユェルン。没落した旧家の一人娘で、幸運にも後宮に呼ばれて太子の目に止まった。太子からの寵愛は篤く、いつでもどこでもこの娘を側に置いて離さないーーという設定にしておけば、多少強引であっても皇帝の身辺に近い場所で警護ができる。我ながら完璧なアイデアだと思ったのだけど、一つだけ誤算があった。太子の寵愛が設定ではなく本物になってしまったということだ。
もちろん嘘くさい態度では困るし、いつも自然な愛情表現があった方が周囲に怪しまれないという意味では、悪いことではない。ただなんというか、私の方が距離感を測りかねてしまう。要するに慣れていないのだ。こうまっすぐに好意を向けられることに対して。それで変にぎくしゃくしてしまう。
こちらは演技のつもりなのに、相手が本気だとやはり温度差ができる。それで無理に合わせようと演技に感情を込めると、どこまでが演技でどこまでが本当の感情なのか自分の中で境界が曖昧になってくる。
いつかそれが使命に支障をきたすのではないか、不安定な感情に引きずられて肝心な時に判断を誤るのではないかと危惧していた。そして悪い予感はすぐに現実のものとなった。
つい先日、皇帝の誕生日を祝う大祭が執り行われた。そこで暗殺計画に何らかの動きがあると予想した私は、当日宮中に出入りする者の身辺を全て調べ上げ、素性が不審な二人の荷役の人夫を見つけた。捕らえれば計画の裏側について何か分かるかもしれない。
罠に誘い込んで追い詰めると、二人は案の定、何者かが送り込んだ刺客だった。二人相手で多少手間取ったものの、なんとか一人を無力化し、もう一人も殺さずに捕らえることができそうだ……そう思った時、宮中に緊急事態を知らせる警笛が響き渡った。皇帝と太子がいる祭祀殿の方からだった。
私は残る一人を一瞬で片付け、その場に残したまま祭祀殿に走った。捕縛している時間は無い。何より皇帝の安全が最優先だった。
警笛を頼りに異変の現場にたどり着き、私は自分の目を疑った。半獣半人の妖が警護の兵たちに襲い掛かり、凄惨な骸の山を築いていた。
千年以上にわたる老の歴史にも、そんな存在のことは伝えられていない。人ではない者を殺す方法など私は知らない。
太子は迅速な判断で皇帝を先に逃がし、自らが囮となって妖に立ち向かっていた。剣の腕前はなかなかのもの。でもそれは相手が人ならの話で、人の理を超えた者に剣術など通用しない。
太子の剣が折れ、獣の攻撃に追い詰められた時、私は迷わずその場に飛び出した。太子の代わりに獣の牙を受けながら、半獣半人の人の部分に特殊な暗器を打ち込み、一撃で絶命させた。これは一種の賭けだった。狙った部分が人と同じつくりでなければ、命を落としていたのは私の方だっただろう。
老の技は人目につく場所で見せるものじゃない。私が何をしたか誰にも見えなかったと思うけど、すぐにその場を離れる必要があった。顔を隠しているとはいえ、暗殺者がいつまでも人前に姿を晒しているわけにはいかない。
立ち去る前に一瞬、太子の方に視線を向けると、私が受けた傷を案じて顔色を失っているのが分かった。その表情を目にした瞬間、これは困ったことになったと私は思った。




