34. イライサ「本当の私はこんなにも弱くて」
後ろで縛っていた髪を王子の短刀でザックリ切り落とし、王子の外套を羽織ってフードを被ると、ルシエットは穴の外を窺った。わずかに差し込む薄明かりが、フードからこぼれる王子と同じ赤毛を煌めかせた。
「イライサ様……どうかご無事で」
洞穴を出て行く彼女を止められない。声を殺して涙を零しながら、私は生きた心地もせずに穴の外の物音を窺った。程なくして敵兵の声が聞こえてくる。
「いたぞ!王子を見つけた!一人だけだ!」
「いいぞ!その先は崖で行き止まりだ!そのまま追い詰めろ!」
足音と声が遠ざかってゆく。心臓を締め付けられるような恐怖に震えながら、ただ祈る。
「あぁ、ルシエット……ルシエット……神様、どうか……どうかルシエットをお守りください……」
しかし、その後すぐに遠くから聞こえてきた無情な声が私の希望を打ち砕いた。
「落ちた!王子が落ちたぞ!」
「どこだ!ここからじゃ見えない!下に降りて探せ!」
「あっちから降りられそうだ!」
ここに来る途中、木立の間から岩だらけの深い谷が見えた。夜の闇の中では谷底が見えなかったが、もしあの崖を落ちたのだとしたら、とても命が助かるとは思えない。
「あぁっ……ルシエット!嘘よ!……嘘……嘘だわ…………神様お願いです!どうか……どうかルシエットを……」
残酷な現実から目を背けるように、私は目を閉じてひたすら祈り続けた。
どれほどそうしていただろう。洞穴の外からはもう何も聞こえてこない。敵兵たちは崖を降りて行ったのだろうか?
崖の下でもしルシエットを見つけたとしたら……想像したくないけれど、それが王子ではないと気付いたら、彼らはまた戻ってきて王子を探すかもしれない。そうしたらルシエットが残してくれたほんのわずかな希望も今度こそ絶たれてしまう。彼女の勇気を無意味なものにしてしまう。
それだけはダメだ、絶対に。そんなことは耐えられない。脳裏にルシエットの声が蘇る。
「……王子様をお願いします」
洞穴を出て助けを呼びに行くのは今しかない。やるべきことは分かっているのに、足がすくんで動かない。絶望に打ちひしがれた心が立ち上がることを拒否している。目を瞑り、耳を塞いで現実を拒絶しろと叫んでいる。
「ごめんなさいルシエット……私には無理よ……無理なの……許して……」
脳裏の声がさらに大きく響く。
「……これからもずっと王子様を守れるのはイライサ様だけなんです」
「だって……足が動かないの………本当の私はこんなにも弱くて……卑怯で……守られていなければ何もできない臆病者なんだもの!」
また目を瞑り、耳を塞ごうとした私の手に、そっと何かが触れた。手の甲に温かな感触が重なり、優しく包み込まれる。そして頭の中ではなく耳元ではっきりと、ルシエットの声がした。
「大丈夫、イライサ様は強いお方です」
「ルシエット!?」
夜明けの光が射す洞穴の外に、こちらを振り向いて微笑むルシエットの幻影が見えた。
「お願いルシエット!あなたの勇気を私に頂戴!あなたの大切な人を守る力を……私の中に宿らせて!」
私は這うように体を引きずってルシエットの方に手を伸ばした。その手が力強く握られる。
「ほら、イライサ様、行きましょう!」
手に足に、力が戻ってきた。不安よりも恐怖よりも、ルシエットの声だけが私を衝き動かす。ただ前だけを見て、言うことを聞かない足をひたすら前に進める。
大丈夫。私は大丈夫。ルシエットがそう言うのなら、きっと私は辿り着ける。もう神になんて祈らない。ルシエット、私を導いて!
不安が頭をよぎる度にルシエットの励ます声が聞こえる。疲れて足を止めそうになるとルシエットの幻影が手を引いてくれる。そうやって夢中で歩き続けるうちに、少しずつ木立がまばらになり、木々の向こうに開けた土地が見えてきた。畑やいくつかの農家も見える。ここはもうワシリウス領内の農村だ。
早く誰か人を呼ばないと。私は駆け足になって農家の方へ向かった。
早朝から畑仕事に出ている人もいるだろう。事情を話せば馬を借りられるかもしれない。領主の所在を教えてもらえるかもしれない。早く、一刻も早く王子の所に戻らないと。
村へと続く山道に出て走り出したところで、ずっと後ろの方から叫ぶ声が聞こえた。
「おい!待てそこの女!」




