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『父の、小言。』  作者: C・K・向田


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第二話 口数  改訂版

第二話 口数



 人は、死んでしまうと、ずいぶん口数が減るらしい。


 生きていた頃は、あれこれ言いたいことがあった。息子たちには、言っておかなければならないことがあると思っていたし、妻のセツにも、つい口を出したくなることがあった。


 ところが、いざこちら側に来てみると、声が届かない。


 護に「少しは肩の力を抜け」と言ってやりたくても、聞こえない。


 ユズルに「食べたら食器を片づけなさい」と言ってやりたくても、聞こえない。


 セツに「お前も少し休んだらどうだ」と言ってやりたくても、やっぱり聞こえない。


 まったく、困ったものだ。


 もっとも、生きていた頃から、私の小言がすべて聞き入れられていたわけではない。


 ユズルなどは、私が話し始めると、決まって妙な顔をした。


「父さん、また始まった」


 あの顔を思い出すと、今でも苦笑してしまう。


 だが、あの子は、私が話し終わるまで席を立たなかった。


 聞きたくないのと、聞かなくていいのとは、違うのだろう。


     *


 私には、二人の息子がいる。


 長男の護と、次男のユズル。


 二人は、ずいぶん違う。


 護は、何事も自分で引き受けようとする。頼まれれば断れず、困っている人がいれば放っておけない。新聞記者という仕事を選んだのも、あの性分と無関係ではないだろう。


 一方のユズルは、まだ十九歳。思いついたことを口にし、面白そうなことがあれば、そちらへ気持ちが向く。


 どちらがいいという話ではない。


 ただ、父親としては、二人とも、もう少し自分を大切にしてくれればと思っていた。


 護には、何でも一人で背負うなと言いたかった。


 ユズルには、目の前の楽しさだけでなく、その先にあるものも考えなさいと言いたかった。


 そして、二人に同じように伝えたかったことがある。


 人を大事にしなさい。


 ウソをつくのは、ダメです。


 お母さんと、弟を、大事にしなさい。


 私にとっては、難しい教えではなかった。


 人を傷つけないこと。人を裏切らないこと。身近にいる人を、当たり前だと思わないこと。


 けれど、簡単なことほど、忘れやすい。


 だから私は、何度も口にした。


 息子たちには、うるさい父親だと思われていたかもしれない。


 それでも、言っておきたかったのだ。


     *


 私がいなくなってからも、家族の暮らしは続いている。


 朝になれば、セツは台所に立つ。護は仕事へ出かけ、ユズルは自分の時間を過ごす。


 私がいた頃と、何もかもが変わったわけではない。


 ただ、食卓の一席が空いた。


 その空席を、家族がいつ、どんなふうに見ているのか。私には分からない。


 セツは、私のことを思い出すことがあるだろうか。


 護は、仕事で迷ったとき、私の小言を思い出すことがあるだろうか。


 ユズルは、私がいなくなったことを、どんなふうに受け止めているのだろう。


 聞いてみたいことは、いくらでもある。


 だが、答えを急かすことはできない。


 残された人間には、残された人間の時間がある。


 悲しみ方も、立ち直り方も、それぞれ違う。私がいなくなったからといって、いつまでも悲しんでいてほしいとは思わない。


 むしろ、笑っていてほしい。


 くだらないことで言い合いをして、食卓を囲んで、明日の予定を話してほしい。


 そんな日常が続いてくれれば、それでいい。


     *


 私は、息子たちに立派な人間になってほしかったのだろうか。


 そう聞かれれば、もちろん、そう願ったこともある。


 だが、立派という言葉は、なかなか厄介だ。


 人から褒められること。仕事で成功すること。世間から認められること。


 それらも、悪いことではない。


 けれど、私が本当に望んでいたのは、そんなことだけではなかった。


 護が、困っている人を見捨てないこと。


 ユズルが、自分と違う考えの人間を、すぐに否定しないこと。


 セツが、家族のためだけに自分をすり減らさないこと。


 そして、三人が互いを大切に思いながら、それぞれの人生を歩いていくこと。


 それができれば、十分ではないか。


 私はもう、あの家の戸を開けることも、食卓に座ることもできない。


 小言を言うこともできない。


 だから、これからは、あの三人が自分で考え、自分で選んでいくしかないのだ。


 父親の言葉が、いつまでも正しいとは限らない。


 時代は変わる。人も変わる。


 私が知らなかった世の中を、護は新聞記者として見ていくのだろう。


 その仕事の中で、あの子が何を見つけ、何を伝えようとするのか。


 それを、私は見守っていたい。


     *


 そういえば、護は、仕事に出かけるとき、いつも「行ってきます」と言った。


 当たり前の挨拶だ。


 帰ってくれば、「ただいま」と言う。


 それも、当たり前だ。


 けれど、当たり前の言葉を交わせる相手がいるというのは、ありがたいことだったのだと、今になって思う。


 私は、あの声をもう聞くことができない。


 それでも、護が帰ってきて、セツが「お帰りなさい」と言い、ユズルが何か余計なことを口にする。


 そんな光景を思い浮かべると、少し安心する。


 家族というのは、そういうものなのだろう。


 大きな出来事がなくてもいい。


 誰かが偉くならなくてもいい。


 明日の朝も、いつものように顔を合わせられる。


 そのことを、どうか大切にしてほしい。


 ……と、また小言になってしまった。


 まったく、死んでまで小言を言うとは、我ながら困った父親である。


 だが、こればかりは仕方がない。


 私は、あのふたりの父親なのだから。


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