第一話 夜明け前の、春風 改訂版
【登場人物紹介】
◾️渡瀬 護
三十三歳。帝都新聞社会部の事件記者。
事件が起きれば現場へ駆けつけ、人の話に耳を傾け、事実を確かめて記事を書く。派手な手柄よりも、確かな記事を大切にする男。家では母を気遣い、十九歳の弟・ユズルと軽口をたたく、ごく普通の兄でもある。
亡き父から繰り返し聞かされた三つの小言を、今も心のどこかに抱えている。
◾️渡瀬 セツ
護とユズルの母。六十五歳。
身体が弱く、家族に心配をかけることもあるが、家の中ではしっかり者。息子たちの食事を気にかけ、出かける護には弁当を持たせようとする。
口ではあれこれ言いながら、いつも家族のことを考えている。護とユズルにとって、帰る場所そのもののような存在。
◾️渡瀬 ユズル
十九歳。護の弟。
明るく、少々口が達者。兄をからかい、母に小言を言われながら、家族と暮らしている。
実は、セツの亡くなった妹の子ども。つまり、護とは血縁上はいとこにあたる。しかし、セツは我が子として育て、護も弟として大切にしてきた。ユズル自身は、その出生の秘密をまだ知らない。
◾️渡瀬 太白
護の父。故人。
物語が始まる前年に亡くなった。生前、護に何度も言い聞かせたのは、人を大切にすること、嘘をつかないこと、そして母と弟を大切にすることだった。
息子にとっては、少々口うるさい父親だったかもしれない。けれど、その小言は、護が事件と向き合うとき、人生の道しるべとなってよみがえる。
第一話 夜明け前の、春風
人間というものは、失ってから気づくことがある。
毎朝、同じ家で目を覚ますこと。
家族の声が聞こえること。
食卓に湯気の立つ味噌汁が並ぶこと。
そんな当たり前のことが、いつまでも続くと思っている。
私も、そうだった。
渡瀬太白。昨年、この世を去った男である。
いまさら自己紹介をするのも妙な話だが、これから語るのは、私の家族の話だ。妻のセツ、長男の護、そして次男のユズル。
私が生きていた頃、あの三人は、実に賑やかだった。
とりわけ、春の朝はいい。
障子の向こうが白み始めると、家の中にも少しずつ気配が戻ってくる。
「ユズル、起きなさい。朝ですよ」
台所から、セツの声がした。
返事はない。
「聞こえているでしょう?」
やはり返事はない。
あの子は、都合の悪いときだけ耳が遠くなる。
私はそう思って、いつものように笑ったものだった。
セツは手を拭き、息子の部屋へ向かった。襖を開けると、ユズルは布団を頭までかぶっている。
「もう、十九にもなって」
「起きてるよ」
「起きている人は、布団をかぶって返事をしません」
「まぶしいんだよ」
「まだ障子も開けていないでしょう」
セツの声には、呆れた響きがあった。けれど、怒っているわけではない。あの子が朝に弱いことなど、とうに承知しているのだ。
そこへ、護がやって来た。
「ユズル。母さんが困っているぞ」
「兄さんはいいよな。朝から立派で」
「立派じゃない。仕事に遅れると困るだけだ」
「それを立派っていうんじゃないの?」
護は答えず、弟の布団を引いた。
「寒い!」
「春だぞ」
「春だって寒いものは寒い!」
セツがとうとう笑い出した。
私も、あの場にいたなら笑っていただろう。
護は昔から、妙に生真面目なところがあった。弟の面倒を見て、母親を気遣い、何かあれば自分が引き受けようとする。
長男だから、というだけではない。
あの子は、誰かが困っていると、放っておけないのだ。
その性分が、新聞記者という仕事に向いているのか、向いていないのか。
父親だった私にも、最後まで分からなかった。
*
朝餉の膳には、焼き魚と漬物、味噌汁が並んだ。
セツは護の前に飯茶碗を置き、それから弟たちの顔を見た。
「護、お昼はどうするの?」
「弁当を持っていくよ」
「ちゃんと食べるのよ」
「分かってる」
「忙しいからといって、食べないのは駄目ですよ」
「母さん、僕はもう子供じゃないんだけど」
「子供でなくても、お腹は空くでしょう」
護は苦笑した。
セツは、そういう人だった。
大げさなことは言わない。けれど、家族が食べているか、眠れているか、無理をしていないか。そんなことばかり気にかけている。
ユズルが焼き魚をほぐしながら、口を挟んだ。
「兄さんは新聞で人のことを書くんだから、自分の昼飯くらい記事にすればいいんだよ」
「何を書くんだ」
「本日の渡瀬護、弁当を完食。以上!」
「それでは記事にならないな」
「じゃあ、残したら?」
「母さんに叱られる」
「ほら、記事になる!」
セツは、今度は護の弁当箱を包みながら笑った。
護も笑った。
私は、その光景をよく覚えている。
いや、正確に言えば、こうして思い返すたびに、あの朝の細かなことまで見えてくる気がするのだ。
家族というものは不思議だ。
一緒にいるときには、相手の顔を見ているようで、案外、見ていない。
明日も同じ朝が来ると思っているからだろう。
*
護が玄関で靴を履いていると、セツが弁当を持ってきた。
「忘れないでね」
「ありがとう、母さん」
「帰りは遅くなるの?」
「まだ分からない。何もなければ、いつもどおりだよ」
「そう」
セツは、それ以上、尋ねなかった。
記者の仕事が、予定どおりに進まないことくらい知っている。けれど、無事に帰ってきてほしいという気持ちは、言葉にしなくても変わらない。
ユズルが奥から顔を出した。
「兄さん、帰りに何か買ってきてよ」
「何が欲しいんだ」
「帰ってきてから考える」
「それなら、自分で買いなさい」
「兄さん、冷たいなあ」
護は笑い、戸を開けた。
春風が吹き込んだ。
庭先の草が揺れ、朝の光が土間に差していた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
セツの声に、ユズルの声が重なった。
護は一度だけ振り返り、手を上げてから出ていった。
あの朝、私は何も心配していなかった。
護は仕事へ行く。セツは家を守る。ユズルは、いつものように何かを言って母親を困らせる。
明日も、きっと同じだろう。
そう思っていた。
けれど、人生というものは、こちらの都合など聞いてはくれない。
人はいつだって、何かが起きる前の日を、ただの一日として過ごしている。
それが、どれほど大切な一日だったのかも知らずに。
私は、あの春の朝を忘れない。
夜明け前の、春風。
あの風の中を、護は新聞社へ向かって歩いていった。




