プロローグ
『父の、小言。』
序
床前明月光
疑是地上霜
舉頭望明月
低頭思故鄉
プロローグ 名に託された願い
私の名は、渡瀬太白。
太白と書いて、たいはくと読む。
少々、気取った名前だと思われるかもしれない。
中国の唐代に、李白という詩人がいた。字を太白という。月を詠み、酒を愛し、自由な心で詩を書いた大詩人である。
私の祖父は、その李白にあやかって、私に太白という名をつけた。
祖父は漢詩を好む人だった。
私が生まれたとき、どんな思いで、この名を選んだのだろう。
大きな志を持つ人間になってほしかったのか。
詩を愛する人になってほしかったのか。
それとも、ただ李白という詩人が好きだっただけなのか。
今となっては、確かめようもない。
祖父は、私が家族を持つよりずっと前に亡くなった。
だが、名前は残った。
そして私は、詩を書いた。
幸いなことに、世間では、それなりに名の知られた詩人になった。
祖父が生きていたら、喜んでくれただろうか。
それとも、もっとましな詩を書けと、小言の一つも言われただろうか。
……いや、祖父のことを悪く言うつもりはない。
私もまた、家族に小言を言う父親になったのだから。
*
人間というものは、失ってから気づくことがある。
毎朝、同じ家で目を覚ますこと。
家族の声が聞こえること。
食卓に湯気の立つ味噌汁が並ぶこと。
そんな当たり前のことが、いつまでも続くと思っている。
私も、そうだった。
渡瀬太白。昨年、この世を去った男である。
生きていた頃は、言いたいことがあれば口にできた。
護、もう少し早く起きなさい。
ユズル、食べたら食器を片づけなさい。
セツ、お前も少しは休んだらどうだ。
ところが、今は声が届かない。
言いたいことは、相変わらず山ほどあるのだが。
まったく、困ったものだ。
*
詩人というものは、言葉を選ぶ仕事である。
どの言葉を残し、どの言葉を捨てるか。
たった一つの言葉で、景色が変わることもある。
だが、父親としての私は、どうだっただろう。
家族に向かって、ずいぶん余計なことを言った気がする。
心配だから言う。
大事だから言う。
それなのに、口から出るのは小言ばかりだった。
もう少し、うまい言い方があったのではないか。
今になって、そんなことを考える。
詩なら、何度でも推敲できる。
だが、家族と過ごした時間は、書き直せない。
あの朝も。
あの声も。
あの食卓も。
もう一度、同じように戻ってくることはない。
だから私は、今日も空の上から、あの家を見守っている。
詩人として、何を残せたのかは分からない。
父親として、何を残せたのかも分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
私は、あの三人のことが、今も気になって仕方がない。
……死んでまで小言を言うとは。
我ながら、困った父親である。
『帰る場所』
人は遠くへ行くほどに
帰る場所を思い出す
旅の空には月があり
故郷の窓にも月がある
けれど同じ月を見ながら
同じ夜を生きてはいない
いつか帰ろうと思ううち
帰れぬ日々が積もってゆく
だから今夜は戸を開けて
家族の声を聞いておこう
明日も聞けると思う声ほど
失くしたときには遠いもの




