第八話
2025年7月14日
それは、テスト勉強期間中だった二週間前。明日に控えた世界史の試験の勉強はもちろん一夜漬けで、しかも時刻はどんどんと取り返しのつかない方へ進んでいった。
焦りと、自分への後悔、もういいかという諦めのささやきがついに脳の全土を覆いつくし、その重さに耐え切れず頭からベッドへと転がり落ちた。
そのとき。
脳全体に、血が巡った。
今まで起きたことのない、血流の動き。体の全体温が脳に移動してしまうのかと思うほど、全身の血液が脳に入って出てを繰り返し、またそれに応じて、心臓もどくどくと鳴っていた。
その感覚はあれに似ていた。兄に悪ふざけで腕の両端を掴まれ、まるでぞうきんを絞るかのように数十秒間捻られた後。咄嗟に放した腕に、真っ赤な血が巡りこんでくるあの感じ。
あのときのような、生命の一存に関わる緊迫感を感じた。
そして、およそ一分後、まるで何事もなかったかのように体がふっと楽になった。
さっきまで自分を包んでいた怠惰な空気は消えて、そしてなぜか机に向かいたくなっていた。本来するべきことなのに、いざ自分が勉強しようとするとなんだか違和感がすごかった。
自分でも訳が分からないまま、とりあえず思った通りに行動してみる。椅子に座って、世界史の問題集を開いて、なんとなく勉強を始めて、ページをめくろうとしたとき、奇妙なことが起きた。
いくらページをめくっても、45・46ページから先に進まないのだ。
先のページに触れることはできるのだが、めくって現れるのはまた同じページ。
どういうことだろうか。何かいたずらをされた? にしては痕跡が見当たらないし、そんなことをする必要も分からないし。
数回繰り返して、自分の身に起きていることが分かった。
目の前に映し出されている45・46ページは、自分の脳内に記憶されているものだったのだ。
気づいたきっかけは、まばたきをした瞬間。暗い背景になぜか問題集が映し出されていたのだ。しかもそれは、さっきめくってもめくっても出てきた45・46ページであった。
つまり、該当のページをずっと――といっても数分である――見ていたせいで、俺はそれを写真みたいにそっくり記憶してしまったのだ。
そして、その記憶されたものがぴったり問題集とかぶっていたせいで、ページをめくってもめくっても、次に進まないと錯覚していたというわけだ。
もしや、と念じてみると、目の前に表示されていた45・46ページはすっと消えて、目の前には乱暴にページを捲られてぐしゃぐしゃになった問題集が現れた。
当たり前だが、俺にこんな力はなかった。
見えている景色を写真のように覚える能力なんて、瞬間移動と同様に、憧れはしたが習得はできなかった超絶能力の一つである。
だってそれさえあれば、勉強だって楽勝で。それ以外にもきっと役立つ。
そんな能力が、今俺に身に付いたということか……。
さすがに、先ほどの現象は何か関係があるはずだ。しかし、原因の解明は後だ、というか俺には分からない。
今、そういう能力が、明日にテストを控えた俺に舞い降りたということは、活かさない手はない。そう思っていくつか試してみようとする。
目の前に開いたのは、問題集と問題集の答え。そして、先ほどと同じようにただじっと眺める。どれぐらいで記憶が完了するか分からないので、念のため長めにやっておく。
そして、視界を離すと……。ほら、やっぱり成功だ!
さっきと同じように、視界の前に薄く記憶された。そして、また念じてすっと消える。
消えた写真がどこに行ったか、自分の脳内を探ってみる。
脳内を探る、なんて初めてやることだし、おそらく普段の俺ならば探るほど脳に物が入っていない。すると、先ほどの問題集とその答えが、視界にすっと現れてきた。
記憶した写真はすぐに呼び起せるし、すぐに消せる。
これは……、とんでもない能力かもしれない。
暗記科目であれば、まず間違いなく苦労しない。それ以外の教科でも、覚えるべきものはすべて写真に撮り記憶すれば、それなりに点数も取れるだろう。問題は覚えられる量だが、どうせ空っぽの頭(エンプティ―ヘッズ)だ。ガリ勉のやつらよりも、俺に向いている能力なはずだ。
ああ、ありがとう。神だか仏だか知らないが、俺にこの能力を与えてくれた人。とりあえず明日のテストはこれでどうにでもなりそうだ。
あふれ出る高揚感の中、本来早く寝たほうがいいテスト前日に見夜まで問題集を記憶し続けた。




