第四十話
提出文書/『翻訳不可』 102340年9月2日
僕たちが住んでいる世界は高度に発達したものなんだ。およそ10万年(人間が使っていた単位。僕たちの言語で言えばおよそ『翻訳不可』ほど)前にこの地球を支配していた人間について知った日の最初の夜、情報を整理しながらそんなことを呆然と考えていました。
自分たちが住んでいる以外の文明は知らなかったのだから、客観的に見ることができないのは当然です。しかし人間は、自分たちの文明こそ高度に発達したものであると確信していたとのことです。それも僕と同じで、他の高知能生命についての知識が何もなかったからなのでしょう。
境遇は同じなのに、結論は違う。僕はこのことから人間の性格は、得られる情報からなるべく自分にとって都合の良いものを導き出すような周りが見えていないもの、なのかと分析しました。
これについて博士(博士は現在唯一生き残っている人間です。寄生脳によって老化機能が変異し、絶滅を免れました)は「あながち間違いではない」と言いました。確かに、人間のサンプルである博士を見ると、自分のミスを環境のせいにしたり、ただの自然現象を無関係の事象が起こる兆候だと判断したりしていました。
僕たちにはそういった考え方がありません。そもそも思考についても、人間に比べて自由は利きません。
僕たちが地球に移住を始めたころ、人間と同様に寄生脳が体に埋められている個体がいくらか発見されました。しかし、生来的に肉体反射で思考を行う我々は、脳を得る以前から自律的な思考を獲得していたため人間と違い脳の必要性は薄かったのです。害はないが、利もない寄生脳を、我々の先祖は地球から追い出すことを決めました。
そのような内容を、自身が寄生した個体から理解した寄生脳側の代表は、寄生脳の要求を述べました。この会話記録も博士から提供していただいた物になります。
「『一人称』は他の生物に寄生し、その生物が進化することで我々もまた進化を得ている。しかし前回寄生していた生物は、『一人称』達の進化に追いつけず絶滅した。『二人称』ならば、次の寄生先として申し分ない。構造的に不要であったとしても、今以上の発達を望めるのは間違いないだろう。互いの生存のため『一人称』を寄生させてもらえないだろうか」
この要求に対して、旧個体は依然として反対的な体制を示しました。しかし、その後提示された条件が決め手となって、結局規制の受け入れを決めたんです。
「(すでに寄生脳が寄生している複数の個体に向かって)『二人称』達はもう可能になっていると思われるが、寄生されているもの同士では思考の共有が自由にできるようになる」
今では当たり前になった明晰夢世界は寄生脳との取引によって手に入れたものです。
「具体的にどのようなものなのかは、感覚的に理解してもらうしかないのだが、『二人称』達の情報共有の手段はすべてこの能力で代替可能だろう」
我々の歴史において、この能力は多くの発展をもたらしました。
そんな未来を予見していたのかは分からないですが、旧個体はその条件に好意的な反応を示しました。
「ほかにも、人間に寄生していた際に獲得した能力は幾つかある。記憶機能に変化をもたらす写真記憶。運動機能に変化をもたらす無限瞬間。感情機能に変化をもたらす厚顔無恥。すべて人間も手に入れていた能力だ。『二人称』を寄生させればおそらくすべて会得することができるだろう」
これらの能力もまた、能力という言葉を使うのがおかしいぐらいに当たり前に使っていますが、これらがない旧個体が確かに存在していたことも事実です。
また、能力の名称については博士から伝えられた通りですが、日本語訳に博士の趣味が大きく反映されているとも伝えられています。
さて、こうして取引を承諾した旧個体は、予定していた寄生脳の排除を取りやめ、次々と寄生脳を受け入れていきました。受け入れが進んでいくうちに先ほどの能力を手に入れて、今の個体に近い生活を送る旧個体が増えてきました。
人間の情報を知って驚いたのは、無知であることを楽しむ行為が非常に多い、ということです。
具体的に言えば、学力試験です。
人間は写真記憶を持っていないため、脳の記憶機能に可能な限り情報を詰め込み、その成果を試すという機会を楽しんでいました。我々には人間の行う記憶と言うのに馴染みがありません。写真記憶ができる生物にとって、この世にあるすべてのものは存在する時点で情報となり、またその情報は明晰夢世界で瞬く間に共有されるので、個人が持つ知識という者が生まれません。こうして言葉にするとなんだか不思議な感覚ですが、あくまで人間と比べた場合の話です。
また、スポーツ、もその一つです。
人間が誕生以来、いくらかの断絶はありながらも継続的に勤しんできたものがスポーツです。これはつまり、身体動作における大小さまざまな技能課題を、時間の流れと共に失敗なくこなすという点に置いての優劣を決める行為で、なぜ我々には普及しなかったのかよく分かると思われます。
言うまでもなく、我々の身体動作に誤りが生じることはありません。動作を行う途端に、時間は止まり、正確には時間の流れがごくわずかに感じられ、その間に自分の身体の細やかな動きまで設定できるからです。これによって身体の怪我や、故意に負わせる外傷も根絶され、我々を傷つけるのは抗いようのない寿命のみとなりました。
しかし人間にはその能力はなく、だからこそ、その文化の興隆があったのです。身体操作に難がある人間がいたからこそ、得意なものの地位が上がる。能力差というのは悪しきものだという教育は、人間ではむしろ行われていなかったようです。
人間の中で一層盛り上がっていたスポーツとして、サッカーという物があるそうです。
人間にとっては高度な身体技能が要求されるもので、 ルールとしては、球体を指定箇所に運ぶだけなのですが、足(我々の『翻訳不可』に当たる部分です)以外を使ってはいけないという禁止事項が勝負を成立させるために存在します。
もし、我々がサッカーをやったらどうなるのでしょうか。
おそらく始まった瞬間、無限瞬間が同時に発動します。無限瞬間が他者同士で発動した場合、おそらく相手の動きを予測することが重要になるのでしょう。両者とも間違いのない動きをすると仮定したとき、相手がどう出るかさえ分かればそれを完璧に封じることができますから。しかし、発動時点では一切の情報はないので、脳内に浮かんだいくつもの可能性のうちの一つが起こると信じて動きを設定するだけになります。その推測が当たれば勝ち、外せば負け。感情の存在した人間であれば、このようなサッカーには魅力を感じないでしょう。
しかし、人間はこれに似たような勝負もよく行っていたそうです。しかも、サッカーよりも多くの人間に親しまれていたと知りました。
じゃんけんというスポーツです。
ルールは先ほど説明したものと同じ。根拠のない推測を行い、その結果のみに依拠した勝敗を得るという至極単純なものです。人間にとって、スポーツの複雑性と言うのは享楽に影響しなかったのでしょうか。
感情というのは、正反対の事象にも同様に働くものなのでしょうか。しかし、我々には感情の仕組みが分かりません。どういったものなのか、何をもたらすのか。
人間は感情に行動を大きく左右されていました。それによってもたらされたものも多いそうです。
なかでも、対人間に抱く情愛は、感情の中でも特別視されていた、と博士から教えられました。
人間の情愛をもとにした恋愛というスポーツは先ほどの、サッカー、に比べようもないほど複雑なルールや条件を伴うそうです。
しかし、続きを尋ねる僕に博士は「詳しくないから」と情報の提供を拒否しました。それまでは聞いたことに対して、想定以上の回答を用意してきたものですが、このときだけは補足も付け足しもありませんでした。11万年生きていて説明できないのだとすれば、それほどに複雑なものであると想定できます。
恋愛はそれらを題材にさまざまな作品を生み出しました。映画やドラマ、小説などさまざまな形態で恋愛は表されてきました。
映画と言うのはおよそ2時間(『翻訳不可』程度)の映像のことで。漫画というのは、ドラマと言うのは、小説というのは……。というように。
人間の世界は、いま存在しない物ばかりで構成されていたようです。
この文章の結びとして、果たして人間と我々が暮らす世界、どちらが優れているのかという問題を検討したいと思います。
人間は最初から最後まで脳に振り回された生物でした。自身の発展の理由も、衰退の理由もすべて脳にありました。人間たちもそのことは十分に自覚していたみたいです。自らの肥大化した頭部を高知能生命体の象徴として誇りに思い、
一方我々は、寄生脳と対等な関係を結んでいると言えるでしょう。互いの利益を考慮したうえで我々は寄生脳の寄生先として存在し、その代わりに人間には扱えなかった能力を手にし、比較しようもないほどの発展を遂げました。
その過程で失ったものがあるとすれば、それは進化として最適化されていった結果の先にある物です。どの生物にとってもこうなるべきだと言えるものです。
よって、どんな観点から見ても我々の世界は人間より優れており、この能力を持ってその証明が可能であると考えます。
人間の歴史と我々の歴史の違いについて/『翻訳不可』 終




