第三十六話
「はい、それで分かったかな。ある日四つ足をついて歩いていた人間に起きた、寄生脳の寄生。それが人間が人間となったきっかけ」
博士は半ば投げやりにそう言い放った。
「小寺の能力、明晰夢世界は脳の大脳皮質という部分が発達したことで発現した」
CASE217の中で、小寺は当たり前のように能力名をつけていた。博士もそのまま使ってるし、人間の感覚からしたらこれがかっこいいのだろうか。
「意識機能が発達したことによって、脳の中にある世界を視界にも移すことができるようになった。つまり、自分が自由に操作できる世界に自由に入り込める。そして、自分だけじゃなく他の人もその世界に入れることができる。これは寄生脳側で上手いことやってることだからよく分からなくはあるんだけど。寄生脳は、寄生脳同士で通信、みたいなことができるらしく、それを使って一人の脳の中に入っているということらしいんだよね。その際に入り込む側の脳の情報も共有できる」
僕にも宿っている能力だが、原理は知らなかった。
「どう? 一応、人類に関する基礎知識はこんなところだけど。まだ聞きたいことはある?」
基礎知識というのは、人類が生まれた原因から滅亡する原因までという範囲のことを言っているのだろう。
「あります」
「おお、いいね」
僕は先ほどまで読んでいたCASEから、該当箇所を探し出す。
『ぶちん、みたいな、なんかそんな感じの音が』
『ボカーンなんて音が鳴りそうな勢いで』
「この音は何なんですか?」
「ああ、それかー」
そういえば説明がなかったね、と言いながら顎をポリポリと掻いている。
「それは脳が動いているときの音だよ」
まだ言葉が足りないような説明だ。
「その音が鳴るのは、能力をフル活用しているとき。そう言われたら、君が見せてくれた状況もそうでしょう」
それは、そうだ。CASE1においては記憶の中から写真を探っているとき、CASE23においては時間を止めて相手選手を追い抜こうとしたとき。
「脳が動くのってカロリーを使うんだよね。その音が鳴るってことは、本来これぐらい消費するだろうなって、身体が脳のために用意しているカロリーの量を上回るぐらいに脳を使っているっていうこと」
人間の事情を説明されても。
「ピンとこない? なら見せてあげよう」
そう言うと博士は手袋を外して両手をあらわにした。
「よく聞いてて」
次の瞬間、
「えいっ」
博士は自分の爪をすべて剥いでいた。
「何をしてるんですか?」
「しっ! 聞いてて」
言われた通り黙っていると、博士の頭部から何かが弾ける音が聞こえてきた。
「ほら、聞こえる?」
これまでに出てきた、ぶちん、だとかバーンみたいな擬音で表されるような音。あまり大きくはないが、確かに響いていた。
その音と同時に、博士の指の爪が元通りに戻っていく。
「え?」
人類にそんな機能があったのだろうか。
博士は剥いだ方の爪をゴミ箱に投げ捨てると、振り返ってこちらを向いた。
「まあ、こういう感じで」
やけに自慢げだ。
「じゃあ、音については分かりました」
もう一つ聞くことが増えたが、それは後回しにする。
「次に、僕があそこでCASE217追加資料を読んでいなかったら、博士はなんと言おうとしていたのか、知りたいです」
「いや、まあ。同じことの繰り返しになるけどね」
ううん、と咳払いをして話し始めた。
「私は、人間の脳はもとは独立した生物である、っていうのをドカンとバラしたかったんだよ。話し始めたときからここは盛り上がるぞって思ってたからね。結局過去の自分にネタバレされたけど」
博士は、というかさあ、と続ける。
「君たちは読むのが速すぎるよ。人間が時間をかけてじっくり読む文章を、僕が話している間に一瞬で読んじゃうんだから」
「そう言われても……」
思ったより引きずっていたようだ。好きに読んでていいって言ったのに。
「人類は寄生脳が寄生したタイミングで、二足歩行のサヘラントロプスになった。それが空っぽの頭(エンプティ―ヘッズ)と進化が分岐したきっかけということ」
「じゃあ、二足歩行を始めた理由って何になるんですか?」
人間を代表する特徴。それが始まった理由をまだ博士から聞いていない。
「そうだね。高い知能を手にした人類が最初にしたのは、二本足で立ち上がることだった。それは立ち上がる必要があったから」
博士はわざとらしく、一度しゃがんで、立ち上がってみせた。
「言っておきたいのは、かつての研究で調べられているような、両手を自由に使うためとか、身体のバランスがとりやすいとかそういう理由がなくなるわけじゃない。さまざまな複合的な要因が、現状を変えるほどになったことで、身体的な進化と言うのは発生するわけだ」
博士は一層楽しそうに話した。
「じゃあ、寄生脳に関連する原因とは何なのか。私が思うに」
先ほどと同じように、言葉を溜められる。今度は話だけに集中する。
「寄生脳を敬っていたから、なんじゃないかと思っている」
「どういうことですか?」
「簡単な話さ」
博士は両手を前に突き出した。
「人間は偉い人を上に置きたがるんだ。それはいつの時代もだよ。偉い人ほど高い椅子に座るし、たとえ物理的な高低差がなくとも任意の方向を上座とか下座とかに分けて、無理にでも上に偉い人がいる、という構図を作りたいんだ」
突き出した両手のうち対面する僕から見て右の方を上に、左の方を下に移動させた。
「それを寄生脳にも行っていたということですか?」
「そういうこと」
「そんなの……」
「馬鹿げてるって?」
心を読まれて、ドキッとする。
「でも、そこまであり得ない話じゃないと思うんだ。ある日、自分に突然とんでもない能力が芽生えたとしたら、まずそれに感謝するのが自然じゃないかな。ほら、CASE1の北本みたいにさ」
北本は試験勉強が上手くいかないなかで写真記憶の能力を得たことを、まるで神からの贈り物だとでも言うほどありがたがっていた。
「それと同じように、遥か昔の人類も……」
人間は自分を寄生脳と対等だと判断しなかった。だから、寄生脳を敬うために対等の立ち位置にある四足歩行ではなく、二足歩行にした。たとえ、要因の一つだとしても現実性に欠ける。
「反感があるなら、私を否定してみればいい。昔の人間も、今ある説を否定しようと躍起になった人が成功を収めたんだ。地面に埋まっている人間の化石を調べるのも楽しんじゃないかな」
余裕の表情で返されるとなんだか負けた気分になる。
「それと。これが一番重要です」
初めからずっと疑問に思っていたことを、ようやく聞くことができる。
「あなたは一体何者なんですか?」
きょとんとした顔を見せながらも質問されるのがあまり嫌ではないのか、博士は嫌な顔一つ見せず言葉を発する。
「え、私? 博士だけど」
「勝手に呼ばせているだけですよね。僕が聞きたいのは、あなたはなぜ人間なのに生き残っているのか、ということです。我々が数多く生存する地球で、なぜ生きていられるんですか? 先ほど見せたものも含めて答えてください」
さっき見せた異常な治癒能力も、通常の人間には備わっていないものなはずだ。
博士は「うーん」とか「ふふっ」みたいなことを言いながら、次の言葉を探しているようだった。
「さっき、研究者に向いてるって言ったのは、ちょっと冗談でもあったんだけど」
博士は口の半分以上を手で隠していた。そのせいで表情が読めない。
「本当にそうかもね」




