第二十話
2026年7月7日
「かんぱーい」
「はい、かんぱい」
銀色の缶を互いに押し当て、何かを再確認するように同時に口をつける。
「はあ、美味い美味い」
真美はお酒に弱いけど、嫌いではないみたいだ。まあ、それは大学生のころの印象だけど。
「あのさ、お酒も入ったし、ちょっと相談というかさ」
「珍しい、どうしたの?」
真美が真剣な表情になるのですら、久しぶりに見た。相談事なんて……。
「ちょっと、その、将来について、というかさ」
「何? 歯切れ悪いよ」
嫌な予感がしていた。内心聞くのをためらっていたあたしとは対照的に思い切った表情でその内容を打ち明ける。
「私ね、結婚したいの」
換気扇の音が聞こえる。
「結婚?」
「そう、まだ伝えてはないんだけど」
吹き出る汗を補うように酒を口に含む。
「ちょっと早いのかな、とか、お金のこととか、いろいろ心配事はあるけど」
炭酸が喉を辛くする。
「由衣はどう思う? 私たちの結婚」
私たちの結婚。私の結婚。結婚。
飲み込む。
「いいんじゃない?」
お酒を飲んだ真美は、二缶目にたどり着く前にソファにだらしなく寝てしまった。こうなるのを待っていたし、待っていなかったのかもしれない。いつまでもこんなことが続いて良い、訳がない。でも、何かきっかけがないと断ち切れそうもない。
そうくんに電話をかける。発信音が鳴り響く部屋の中でも真美はそれよりも大きないびきを立てているだけで起きる様子はない。その寝顔を確認しながら、再びあたしの家を出る。
発信音が途切れる。電話がつながった。
「あ、おつかれー。今からそっち向かうよー」
どこに? そうくんが住む家にだ。真美が住む家でもある。
「おー、りょーかい。えー楽しみに待ってていいのー?」
下衆っぽい笑い方を含んだ言葉に、あたしの中の何かが疼くのを感じる。
「はいはい、分かったから」
軽く笑いで流して電話を切る。
歩いてでも行ける距離のマンションに、同棲用の物件を借りた二人は稼ぎも上々で快適な生活を送っているらしい。
数分歩いて、クリーム色のマンションへ辿り着いた。
エントランスにあるインターホンに部屋番号を打ち込み、オートロックを開錠してもらう。
「もしもーし、女が一人来ましたよー」
話しかけてから10秒後に返事が来る。
「はーい、男一人で待ってまーす」
外で会話をするときはお互いの名前を言わないようにしている。たとえ誰も聞いてない場所でも。言い間違いとか、怖いから。
エレベーターで303号室へ向かう。303って数字は、なんだか真美っぽい気がして、苦労なく覚えることができた。
ガチャ。伸びた手がドアを押し開ける。
「お、由衣。おつかれー」
そこにはそうくんがいた。自分が呼び出したのに、「お」とか言うような芝居臭さと共に。
この先の部屋は何度も踏み込んだことがある。
『私ね、結婚したいの』
この前と同じように。
『結婚したいの』
そうするだけ。
『結婚』
だけ。
『由衣はどう思う?』
分からないよ。
「うん。おつかれーそうく」
そのとき。
気のせいでなければ、あたしの脳が、ずばーんと広がった気がした。
実際に「ずばーん」という音すら鳴っていたかもしれない。
脳の今まで使っていた部分が奥に押しやられて、新しく作られた部分が主導権を乗っ取ったみたいな。宇宙で言えば、今までのあたしの脳は地球全体ぐらいの大きさ。そして、新しい部分がビッグバンみたいに新しい宇宙を創っていった。
それは1秒前までは地球と同じ大きさだったのかもしれないけど、1秒後には地球よりも太陽よりも大きくなって、やがてあたしの頭全体を覆っていった。なんでこんなイメージが急に湧いてきたかは分からない。多分、脳の構造が宇宙に似ている、っていう話を颯太先輩から聞いたことがあるからだと思う。颯太先輩は小難しい映画が好きだった。
「どうしたの?」
何秒も黙っていたのだろう。そうくんの表情から不安が窺える。
「ううん、大丈夫。ちょっとぼーっとしちゃって」
え?
今、私が言った?
「なんか体調悪い? 風邪ひいた?」
いや、ちょっとなんか変な感じというか。ごめん、なんか、あれ?
「いやいや、全然元気だよ、もー」
あたしが言ったのはそれじゃない!
え? どういうこと?
あたしがあたしの知らない間に動いている?
気づいたらあたしはそうくんの腕を掴んで一緒に家に入っていた。
「え? なんだ、元気じゃん」
そうくんも一切嫌がらないし。
というか、当たり前だ。あたしの中がどうなっているのかなんてそうくんから分かるわけない。こんな状態になっても誰も気づいてくれないんだ。
「あたし、今日楽しみにしてたんだ」
自分の内側から聞こえてくる自分の声に苛立ちを覚えながら、しかし何もできない自分にすごくもどかしさを覚えていた。




