第十六話
時間が止まった。
さて、どうするか。
止まった瞬間も絶妙だ。相手が俺の動きを見極めようと、前進を止めた途端。ただ避けるだけでは、動き出した後のボールの主導権を握るのは難しいだろう。
まずは、身体全体を左へとずらすよう念じる。ただ、重心は右に残しておき、相手の動きへの対応策を残しておく。足を大股で前に出しておき、多少不安定なバランスでもトップスピードで走れるように仕掛けておく。
後の細かい微調整はこの能力の持ち主としての勘だが、俺以外にそれを持ち合わせている奴はいない。少し保守的な選択だが、今できる限りはこれだ。
張り詰めた脳から空気が抜けると同時に、世界が再び鋭さを取り戻し、動き出す。
あいつのしかつめらしい表情に、一瞬驚きが映る。そうやって、驚いている間に俺は予定通り、一歩左に踏み込んだ後、瞬時に方向転換し、相手の右を抜けていく。
すべて上手くいった。ゴール前はがら空き。後はただ、走るだけ。視界の中心に、堂々と立つゴールを捉えて、勢いそのままに駆けだす。
ここでゴールを決められれば、歓声が上がって、選手もより活気づいて、それで。俺は負けなかったということになる。そんな未来を追いかけるようにただ周りを走る。ボールを取ろうと仕掛けてくる選手も警戒せずに。
しかし、しかし、走っても走ってもゴールが近づいてこない。景色が変わらない。歓声や熱気もやがて灰色になっていく。冷たくなった熱気は床にぼとぼとと落ちて、俺の足が重くなる。これは。
時間が止まっていたのか。
ただ、妙だ。
今まで時間が止まるのは俺がピンチに陥ったときのみで、そもそも俺が止まれと願ったときにしか発動しなかったはず、いや最近は制御が利かないことも……。
とにかく、止まったことは確かだ。その停止した時間が俺には不要なだけで。
……ならちょうどいいじゃないか。俺は逸る心を落ち着かせる。試合だとかワールドカップだとか、勝ちとか負けとか。そういうことを考えるのはいったんやめよう。
きっとこの時間がなければ、俺はシュートを外していた、ということなんだ。
それを察知した俺の脳が、この能力を発動させただけだ。なら、それを有効に活用するだけだ。
時間が経って、いやどれだけ経過したのかはもちろん分からないが、俺が落ち着けるだけの時間が経って、残っっているのは自信だけだった。あと10mとないゴールポストへと、ボールを入れるだけ。今までも散々やってきたし、これからも散々にやることだ。
もういいぞ、と脳に指示を出す。もう時間を動かしてくれ、俺の番だ、と。
歓声が聞こえだした。徐々に高まっているのを感じる。そうだ、もっと高めてくれ。俺がゴールを決めたときに、最高潮になるように。
しかし、その期待は裏切られた。
何も聞こえない。何も動いていない。どうやらまた、時間が止まったみたいだ。
流石におかしい。能力を手にした二十年間、ここまで制御ができないことはなかった。自分の思考に連動して
もう一度強く、さっきよりも強く念じる。時間が動き出してくれと。
数秒だけ、喧騒に包まれるが、またすぐに帰ってきた。もう一度試す。また数秒鮮やかな世界に行きつき、すぐに揺り戻される。もう一度。もう一度。もう一度。もう一度。
最初は数秒ほどであった時間が止まるまでの秒数も、繰り返すほどに短くなっていき、数百回ほど試した後には、もう俺が感じ取れないほどの短い時間の間しかもとの世界を訪れることができなくなっていた。
つまり、俺はこの止まった世界に閉じ込められた、ということか?
なるほど、これまで能力について浅い理解で済ましていたツケが回ってきたということだろう。
まあ、自分で得た能力じゃない以上、こんな事態になってしまってもできることはほとんどない。
まあ、長めの休暇を与えられたと思って、少し心を休ませよう。
思えば、プロになってから、休みらしい休みを取った記憶がない。そんな自分をねぎらうための能力だと考えれば案外悪いものではないのかもしれない。
………………。
ふう……。
……………………?
待てよ。
俺は……帰れないのか?
この世界から? こんな世界から?
数十秒前の自分は、正直言って事の重大さを分かっていなかった。誰も見ていないのにスカした態度を取って、平気なふりをしていただけだ。
案外悪いものじゃないなんて、いまでは全然思っていない。休暇というのは他の誰かが働いているときに、自分だけが止まっているからいいのだ。
俺はこの、脳だけが動いて、身体の自由が利かない、時間の流れも存在しないこの世界にずっといるということか? ずっと? ずっと、っていつまでだ?
冗談じゃない!
ただ俺に分かることは、数十秒前なんて表現を使えるのは、今だけだってことぐらいだ。やがて時間と言う感覚もない、一個体としての空間の一部になっていくだけなのだから。
いざ時間が止まってみると、この能力の恐ろしさに否応にも気づかされる。
俺はこんな事態を想定していただろうか。こうして戻れなくなることを。
ただ、この世界には負けはない。もちろん勝つこともないが。
そう考えると、俺にとっては理想の世界なのかもしれない。もともと勝ちも負けもない世界に生きていたと言えるほど、声の聞こえない場所で長らく頑張ってきた自覚はある。
俺がいつまでこうしていられるのか。自分自身との根比べということだが、俺にとってのサッカーだって要約すればそういう根比べであったのかもしれない。
能力を手にしてしまっただけに負けられなくなってしまった俺は、勝つことが当たり前で、そうやってこの先俺の肉体か精神が壊れるまで試合に出続けるだけだった。
だとしたら、この世界も悪くないのかもしれない。この世界に焦りは存在しない。
あるのはエアーズロックのように悠然とそびえる時間だけだ。
2026年6月23日
こうするしかない、というかこうすることが最善だ。間違いない。間違いない。間違いない。
うんそうだこれだこれだこれだ。早くこうすればよかった早くこうすればこうすればこうすればこうすればこうすれば。
この世界を止めなければ速く早くはやく早く速く速く速くはやく壊すしかない壊すしかない壊すしかない壊すしかない壊せ壊せこの世界を壊せ壊せはやく壊せ早く壊せこわせこわせこわせこわせこわせこわせこわせこわせ壊れろ壊れろ。
壊せよ!
俺の脳を。
※試合の前半、敵ゴールへと向かう新隈が突如意識を失ったことにより、試合は一時中断となった。新隈への外的な接触は一切見られず、急性の発作によるものだと判断されたたが、新隈にはそのような持病は見られておらず、この判断の妥当性が問われている。
CASE23追加資料/運動機能の変化/新隈修也 終




