特殊訓練
特殊訓練が始まる。
それは、人類が未だ経験したことのない“未知”へ適応するための試練だった。
オクラホマ州西部、何もない広大な平原の中央に、その訓練施設は存在していた。周囲には小さな町が点在するだけで、人の気配は少ない。夜間は施設を囲う柵などがないため、野生動物が徘徊する。ゆえに、外の歩行は厳禁とされていた。そんな田舎にある広大な施設内には最新鋭のハイテク機器が揃っている。施設は大きく5つの区画に分かれている。居住区、研究区、実験区、訓練区、娯楽区だ。住み込みのコックや清掃員も含めて約500人が施設内で活動している。
その日、真夏の太陽が頂点に達する13時、3人の若者が汗だくになりながら教官の到着を待っていた。教官がようやく姿を現した頃には、彼らはプールから上がったかのようだった。
「すまん、すまん。総督とお前たちのことを話していて、時間がかかってしまった。待たせて悪かったな。さあ、行こう。」
これから始まるのは、今の明るさで目がやられるのとは真反対の暗闇の訓練だ。
訓練区には数多くの建物が立ち並んでいたが、どれも古びた雑居ビルであり、その外見はひどく素朴だった。ビル内に足を踏み入れると、すべての部屋のドアは閉ざされ、人の気配は微塵も感じられなかった。まるで幽霊が住んでいるかのような不気味な雰囲気の中、教官は錆びついたエレベーターに乗り込み、5階と1階のボタンを同時に押した。すると、エレベーターはガタンと音を立てて地下へと降下し始めた。3人は上昇を予想していたため、不意に訪れた下降に身体のバランスを崩した。教官はそんな3人の様子を見て、にこりと微笑みながら言った。
「驚いたか?誰でも最初は同じだ。お前たちほど優秀なやつでもな。」
「やめてくださいよ。口から内臓が飛び出しそうでした。」
リカが軽口を叩いた。
エレベーターはどこまで降りるのか、と思う頃、ガタンと音を立てて停止し、ドアが開いた。そこに広がる光景は、床も壁も天井も真っ白な無機質な空間だった。通路は車が3台並んで通れるほど広く、天井はビルの3階分ほどもある高さだ。訓練区の建物とは思えないその場所を、白衣に身を包んだ研究員たちが行き交っていた。
教官と共に歩を進めると、すれ違うすべての人が笑顔で挨拶をして、頑張れと声をかけてくる。その暖かな歓迎に少しばかり驚きながら、3人は目的の部屋へと向かった。約3分歩いて、ようやく部屋の前にたどり着いた。
「向こうの更衣室に、今回の調査用の宇宙服が用意してある。着替えたらこの扉を通り、各自の名前が書かれた部屋に入ってくれ。あとは指示通りに動けば大丈夫だ。もう一度言うが、この暗闇の訓練を無事に乗り切ることができれば、後は問題ない。何かあったときのために緊急退避の方法は用意してある。しかし、月の裏側では緊急退避の方法はない。こちらから状況を把握することもできない。緊急退避は本当に最後の最後で駄目だと心に決めた時だけ使ってくれ。出てきた時は今のような元気な姿ではないかもしれないが、無事に戻ってくることを祈っている。信念を持てば、君たちなら乗り越えられる。がんばれ。では、行ってこい。」
教官の言葉に背中を押され、更衣室へと向かう3人。大きなロッカーの中には、まるでレーシングスーツを思わせるような服が掛かっていた。動きやすいとは聞いていたが、本当にこれで宇宙空間を生き延びることができるのか、不安が募るほど簡素な造りだった。
スーツに腕を通し、体にぴったりとフィットさせると、驚くべきことに、まるで何も身につけていないかのような感覚に襲われた。いつもの宇宙服の下に着用するLCVG(液体冷却・換気ガーメント)は、心地よいものの存在感がある。しかし、今回のスーツは肌に何も触れていないような、不思議な感覚をもたらした。
「これはどんな仕組みなのか…」
心の中で疑問を抱きつつ、最後にヘルメットを装着する。自動的に密封される音が響き、ヘルメット内部に文字が浮かび上がった。
[ In progress... ]
[ All set. ]
初めに宇宙服を着終えたヴァーナが独り言で凄い、凄いと叫んでいたら、次に装着を終えたシスから怒りの声が聞こえた。
「やかましいぞ、ヴァーナ。準備完了の文字が出たのと同時に叫ぶ声が響きわたってびっくりしたわ。」
リカも装着が完了したようだった。
「おわっ。自動で通信がつながるようね。」
ヴァーナもいきなりリカの声が聞こえてびっくりした。
「目の前に文字が浮き出るの、かなり便利で分かりやすい。ヴァーナもシスも感じていると思うけど、服を着ている感覚がないよな。こんな技術は初めてだ。」
やはり思う事は同じだった。すると、3人のヘルメットから声がした。
[皮膚の表面に微弱な電気で刺激を与えることで何も着用していない感覚になります。電気は非常に微弱なため、肌以外に影響する事はありません。]
「凄いわね、教官が言っていたAIがこれね。質問に答えてくれるとは。暗闇で1人になるけど、何とか乗り越えられそうね。無事にクリアできる確率がかなり上がったと思う。」
ヴァーナが2人に声をかける。
「そうだな。とりあえず、行くか。2人とも3日後、元気にまた会えるようにしようぜ。」
3人は各自の名前が書かれた部屋に入った。そこは完全に真っ白な空間で、床、壁、天井の区別がつかず、まるで白い絵の具の中にいるような錯覚に陥った。入ってきたドアも閉まり、今ではどこにドアがあったかさえ分からなくなっていた。しばらくすると、どこからかアナウンスが聞こえてきた。
「今から訓練を開始します。」
その声が響くと同時に、部屋は徐々に暗くなり始め、やがて真っ黒な空間へと変わった。突然、何かが体に押し付けるように感じ、ヴァーナの身体は完全に動きを封じられた。静かに時間が過ぎていく中、ヴァーナは思わず口に出した。
「これが暗闇の訓練か…。全く見えないし、動けない。こんな状況で自分を保つなんて可能なのか。」
その言葉が静寂の中に消えた。ヴァーナは、体に感じる圧力と暗闇の恐怖に対して、自分自身を奮い立たせようとしていた。冷静さを保つために、彼は深呼吸をし、心の中で自分を励ました。
”ここで挫けるわけにはいかない。俺なら乗り越えられるはずだ。”
時間がどれほど経ったのか分からないが、ヴァーナは静かに決意を新たにし、暗闇の中で自分を探し続けた。同じように、シスとリカもそれぞれの部屋で暗闇と向き合い、己の限界に挑んでいた。
自分の心の中を整理しつつ、ヴァーナはAIに話しかけてみた。
「この状態で3日間を耐え抜くことができる精神状態を試されるのか。これは人選時にやっておくべき試験だと思うな。そうは思わないか。AIよ。」
[精神の強さを理解する前に確認すべき試験が多くあったため、この試験が今になって実施されているのではないでしょうか。]
AIは客観的だが、的確な答えを出した。
「…お前、凄いな。そういえば名前はあるの?」
[SP000051です。]
「それ名前って言わないね。品番だ。ちゃんとした名前を聞いている。俺が言っている意味わかるよね。」
[私には家系がないので、ニル・ヴァーナのような名前を必要としません。基盤の型番と製造番号さえあれば、他と重複する事もありません。ヴァーナは名前が重複した場合はどう対応しますか。]
AIの正論に少し苛立ちを感じながらも、ヴァーナは質問に答えずに冷静に名前を告げた。
「お前の名前はディープにする。どうだ?」
[私はヴァーナと姓で呼んでいますが、なぜヴァーナは私をディープと呼ぶのですか。]
「ニックネームがディープだ。」
ディープと名付けられたAIの学習能力は高く、ヴァーナの細かい性格を次第に理解していった。身体が動かせないという環境では精神異常をきたすことが常だが、ディープと話をすることで、ヴァーナのストレスはかなり軽減されていた。
「ディープ、喉が渇いてきたがどうすればいい。」
[水をどうぞ。]
顎の下から何かが開く音がして左側の口元にチューブが触れた。
「他の飲み物はあるのか。」
[ビタミンを含んだ栄養価が高い水です。これしかありません。]
「お腹も減って来たので、食事も用意してくれないか。」
また音がして右側の口元にチューブが触れた。飲んでみると、ほぼ無味だった。食事や水で満足感は得られそうになかったが、喋り相手がいるだけで十分良しとするかとヴァーナは思った。
3日間の暗闇訓練を終え、離脱した者はいなかった。その日、テラ教官は研究室で、3人の様子を聞いた。
まず、リカの話から始まった。心拍数、血圧など身体の状態は訓練前と全く変わらなかった。彼女は暗闇の中でも驚くほど平静を保ち、まるでこの環境を楽しんでいるかのようだった。リカはAIと話すことはあまりなく、歌の練習をしたり、円周率をどこまで暗唱できるか挑戦したり、呪文のようなものを唱えたり、古代の謎や宇宙の果てについて口に出して考えたりしていた。暗闇の存在を全く意識していないかのように振る舞っていた。
リカのマイペースな行動は、まるで今まで試せなかったことを、この機会を利用して、存分に楽しんでいるかのようだった。暗闇という特殊な環境を全く感じさせないその姿は、逆に彼女の適応力の高さを物語っていた。それ以外の時間は、多めの食事を摂るか、深い眠りに落ちるかのどちらかだ。リカの睡眠時間は平均10時間。昼寝を含めると12時間は寝ていたことになる。
その結果は、今までの試験からは想像もできないものだった。リカは暗闇訓練を、まるで長期休暇を楽しむかのように過ごし、その精神的な安定ぶりには誰もが驚かされた。今後の研究にとって重要なデータとなった。
テラはモニターを見ながら、微かに笑った。
「まるで休暇だな…」
そう呟いた自分の声が、部屋に寂しく響いた。
シスもまた、身体の状態は入る前と全く変わらなかった。彼は3人の中で最も早く、この状況でどのようにすればストレスを感じないか、自分なりの答えを見出していた。AIにいくつか相談をしていたが、最終的には自分の出した答えが最適だと確信し、それを採用した。
彼の答えは、自分を、事故で身体と視覚を失った人間だと想定することだった。医者に相談され、首だけの状態で人工呼吸器に接続して生きることを選んだと自分に言い聞かせた。この自己洗脳は思ったほど時間がかからなかったという。完全に視覚を失い、首だけとなった人間が、どうすれば残りの余生を楽しめるかという究極の課題に取り組んだ。
この3日間、シスはこの課題に没頭した。首だけで社会で生きていくための様々な視点から、課題の解決方法を徹底的に考え抜いた。しかし、課題はまだ完全には解決に至っていなかった。
この状況でストレスを感じないための答えを見つける速さと、それを実行に移す冷静さ。シスの適応力と内なる強さは驚くべきものがあり、彼の行動は今後の研究に新たなインスピレーションをもたらすことは間違いなかった。
ヴァーナは他の二人とは異なる、特別な状態がいくつか確認されていた。彼は、まるで自分の意思で心拍数や血圧を調整しているかのような場面があった。さらに、睡眠以外の状態で脳波の活動が著しく低下し、その状態が長時間続くことも観察された。ノンレム睡眠状態よりもさらに低い脳波活動を実現するその能力には、研究員たちも驚きを隠せなかった。
この不可解な現象について、研究員はヴァーナが訓練を終えて戻ってきたら、是非ともその時の話を直接聞きたいと熱く語った。彼がどのようにして意識を保ちながら脳波活動を抑制し、体の生理機能を制御していたのか、その謎は暗闇訓練の成功以上に大きな興味を引くものだった。ヴァーナの能力は、適応力や精神力の域を超えているように見えた。彼がどのようにしてその状態を達成したのか、彼の心の奥底にはどのような能力や心の持ち方が隠されているのか。これらの謎を解き明かすことは、研究員たちにとっても極めて重要な課題の1つとなった。
テラ教官は訓練終了の5分前、部屋で静かに彼らを待っていた。3日前、”元気な姿ではないかもしれない”と言って送り出したが、教官の心には、もしかしたら3人は変わらぬ姿で戻ってくるかもしれないという期待があった。
やがて、ドアがゆっくりと開き、3人が揃って姿を現した。3人とも笑顔を浮かべ、楽しげに世間話をしながら歩いていた。教官に気づくと、彼らは自然に握手を求めてきた。教官はその手をしっかりと握り、静かに口を開いた。
「お前たちはいったい何者だ。3人ともストレスという言葉を知らんのか。今にもこちらから回収に向かうつもりだったが、まるで普通の訓練から戻ってきたようなその雰囲気には、正直驚きを隠せない。とりあえず、おめでとう。明日は1日、ゆっくり休んでくれ。
今だから正直に言うが、この試験は1人でも乗り越えられる者がでればいいと思っていた。だが、3人全員がクリアするとは夢にも思わなかった。しかも3人とも何事もなかったかのように戻って来た。本当に驚いているよ。もし乗り切れなかったとしても、精神が正常な状態なら月へ送り出そうと思っていたが、お前達にはそんな心配も不要だった。お前たちは月の現場でも必ずや成功するだろう。これからも3人で力を合わせて頑張ってくれ。」
ヴァーナが答えた。
「ありがとうございます。明後日から向かう月での訓練も無事こなせるように頑張ります。シス、リカもまったく大丈夫だよな。」
シスが笑いながら答える。
「熱いのは苦手ですけどね。」
リカも冗談めかして続けた。
「スーツが故障しないことを祈っています。」
その軽口に微笑みながら、教官はヴァーナに向き直った。
「そういえば、研究員がヴァーナと話がしたいと言っていた。訓練明けで申し訳ないが、第3研究室に行けるか。疲れていなければだが…大丈夫そうだな。よろしく頼む。」
ヴァーナは軽く頷き、決意のこもった眼差しで教官を見つめた。
「はい、分かりました。すぐに行きます。」
ヴァーナは2人と別れて、第3研究室に向かった。白い廊下を歩きながら、訓練開始前のようにすれ違う研究員たちが「お疲れ様でした。」と声をかけてくれる。そのたびに、暗闇訓練が終わったことの実感がじわじわと湧いてきた。
研究室に入ると、7人の研究員が席に座り、ヴァーナが来るのを待ち構えていた。
「あー、皆さん、こんにちは。」
研究員のリーダーらしき年配の方が立ち上がり、ヴァーナに向かって頭を下げた。
「ヴァーナ、訓練明けのお疲れのところ本当に申し訳ない。どうしても話をしたかったんだ。わがままを聞いてくれてありがとう。それほど時間はかけないので、自分の思う通りに答えてください。」
ヴァーナは一体何を聞かれるのか少し戸惑いながらも、落ち着いた様子で頷いた。部屋の静寂が一瞬、張り詰めたような緊張感を漂わせた。
「まず、暗闇訓練の体験について、率直な感想を聞かせてほしい。」
研究員の一人が問いかけた。ヴァーナは少し考えてから、言葉を選んで話し始めた。
「正直、最初はかなり不安でした。でも、シス、リカも同じ環境で頑張っていると考えていると、不安は徐々に消えていきました。AIが共にいたのも大きな影響がありました。完全な孤独な状況ではありませんからね。訓練を通じて、総称して言えることは、視覚に頼らずに周囲を感じ取ることの重要性を学んだという事です。今はその経験が自分の成長に大きく貢献していると感じています。」
研究員たちはメモを取りながら、熱心にヴァーナの言葉に耳を傾けていた。
「そして、私は無という世界を感じました。」
それを聞いた瞬間、一人の研究員が興奮を抑えきれずに割り込んできた。
「あー、その話を是非伺いたいのです。すいません。話を遮ってしまいました。続けてください。」
ヴァーナは少し戸惑いながらも続けた。
「はい、無の世界です。AIがこの時間を活かして過去を振り返ってはどうかという提案をしてくれました。そして、過去の思い出を何度も思い返している時、遠くの空から無の黒い空間が迫ってきたのです。瞬く間に私を取り囲みました。それはまるで暗闇訓練の再現のような感覚でした。現実なのか、思い出を振り返っているのか分からなくなり、意識が飛ぶ感覚とでも言えばいいのでしょうか。自分を見失ったような感覚でした。その状態から目覚めた時、3時間も経過していたのです。」
再び研究員が話に割り込んだ。
「割り込み失礼します。私たちが3人の状況を監視していた時、ヴァーナの脳波が著しく低下したことが確認されました。1度目に確認した時間がちょうど3時間ほどでした。おそらく、その時の現象だったのではないかと思われます。続けてください。」
ヴァーナは一瞬の間を置いて、深く息を吸い込んだ。
「その時は完全に何も感じないのです。私はその感覚を自分のものにしたいと思い、同じ思い出を振り返ってみました。すると、また同じように黒い空間が迫ってきました。何度か繰り返すうちに、無に入る方法が分かってきたのです。それは、無心になること。一つのことに集中していると無に入れます。まだ、思うようには全然コントロールできませんけどね。
少し無とは違いますが、無心になるという事は食事中にもできます。すると、液体食料の味が格段に美味しく感じられる。何をする時でもそう。ただの水を飲む時もそうです。過去の思い出を振り返る方法も変わりました。以前、日本人の友達から“悟り”を開くということを聞いた事があります。その時は何を言っているのかまったく理解できませんでしたが、今の私は少し理解できた気がします。これは、自身のレベルアップと言えるかもしれません。その時、全てが見え、全てを感じるような気がしました。…それが、私の感じた“無”です。」
研究員たちはメモを取りながら熱心に聞き入っていた。部屋には静かな緊張感が漂っていた。しばらく、研究員同士で小声で議論し、ヴァーナに向き合った。
「ヴァーナ、この現実を超越した話は今後の研究に非常に役立つものとなりました。これからの訓練項目として何とか組み込むことができないか、研究していきます。ありがとうございました。」
ヴァーナは研究室を後にし、明日の訓練に向けて体を休めるため、用意された家に向かってゆっくりと歩み始め、2人にどんな事があったのか話を早く聞きたいものだと思いながら帰るのだった。ヴァーナの背後に、静かに満ちていく新しい世界の始まりがあった。
第二章を読んでいただき、ありがとうございます。
この章では、極限環境の中で見えてくる三人それぞれの個性や精神性を描きました。
次章では、いよいよ月に向かいます。
引き続き、『ルナリアン』を楽しんでいただければ幸いです。




