選ばれた三人
人類が月に到達してから、長い年月が流れた。それでもなお、月の裏側には誰も知らない領域が残されていた。
ヴァーナはカーテンの隙間から差し込む木漏れ日に導かれて静かに目を覚ました。いつもなら目覚まし時計との熾烈な戦いに敗れて、渋々とベッドから這い出すのだが、今日は違った。目覚まし時計が鳴る一時間前に、自然と目が覚めたのだ。昨夜はなかなか寝付けず、ようやく眠りについたのはわずか三時間前。それでも、身体は驚くほど軽やかだった。
昨日から準備していたスーツケースが部屋の隅で待っている。ヴァーナはその横を通り過ぎて、まずは一口、目覚めのコーヒーを味わった。心地よい苦味が舌に広がり、今日を祝福するかのようだった。トースターに朝のパンをセットし、フライパンに卵を落として目玉焼きを焼き始める。いつもの音もなく進む朝の支度、静寂の中にあるこのひとときだが、気持ちがいつもと違った。
今日から始まる二週間、特殊訓練で最終調整を行う。その後、月面ステーションに向けて出発し、月の裏側に隠された一角を調査する任務が待っている。
これまでメカによる調査を試みたが、扉に近づくと電波が途絶え、送り込んだメカは操作不能に陥るのだ。そして、メカが立ち往生するその場所に人間が足を踏み入れる事となった。
その決定が下されてから、今日に至るまで、厳選された3人の優秀な人材は訓練と準備の日々を重ね、今やっとその時を迎えようとしている。未知への探求と冒険の始まりに、胸の高鳴りを抑えきれない。月内部の秘密が解き明かされる時が近づいているのだ。
事の発端は1年前、月面ステーションから数十万キロまで接近した鉄隕石が検知された。直径500メートルのその巨岩は、地球に落ちることはないが、月面ステーションへの影響が懸念された。緊急通知が発せられるや否や、そのニュースは瞬く間に世界中のトップニュースとなり、全人類が息を呑んで月を見守ることとなった。
隕石の速度は予想を上回り、地球の引力の影響もわずかであることが判明したのは、月面衝突まで残り30分という時だった。隕石は月の裏側をかすめるように飛来し、表面の土や岩を舞い上げながら、痕跡を残していった。翌日、隕石のニュースは世界中を湧かせた。月面ステーションにも影響なく、人類は安泰であるとされた。
隕石通過後の翌日には月面ステーションから調査用の無人小型宇宙船が準備され、隕石が通過した跡へと送り込まれた。調査中、ちょうど月の裏側のど真ん中あたりに人工物のような丸い大きなハッチが発見された。ハッチが発見された時、無人小型宇宙船を操作していた調査隊の全員が息を呑み、胸の鼓動が早まった。その情報はステーションの上層部の一部だけに伝えられ、極秘裏に話が進められ、今に至った。
「ヴァーナ。おはよう。」
調査員の3人の中では一番年上で何でも指揮したがるオア・シスが良く通る甲高い声で話しかけてきた。
「おはよう。シス。あれ、今日は、リカは一緒じゃないのか。」
ヨーロッパ出身で、アメリカ慣れしていないシスを見かねて部屋に招いたメタ・リカは超大金持ちの家柄だが、お金持ちと言われるのが嫌でいつも質素な生活を送っている。シスと同居しているログハウスはオクラホマの田舎では珍しい10畳ほどの狭い部屋が3つと6畳ほどリビングキッチンがあるだけの小さな所に住んでいる。
「リカはかなり朝早くに起きて飛ぶように家を出て、訓練施設に向かってバイクを飛ばしていったよ。俺はベッドに寝たまま取り残された。」
「なるほど、リカも興奮しているみたいだな。俺も興奮気味で夜もなかなか寝付けなかった。それにしてもシス、お前の荷物は少なすぎないか。ボストンバッグ1つだけって何を持って来たんだ。」
「下着だけさ。多分2週間の訓練中に表に出ることないし、着替えだけで十分だろ。」
二人は他愛もない話をしながら、今日からの特別訓練の話をしながら訓練施設についた。施設では既にリカが着替えを終えて準備運動で体を慣らしているところだった。
「おはよう、リカ。」
懸垂を止めて、リカはヴァーナ達の方へ寄って来て言った。
「おはよう。さっき教官が漏らした事だけど、”気が狂わないように心しておけよ”だって。かなり特殊な訓練になりそう。何を心しておけばよいかわからないけど、死ぬ覚悟で挑めよってことかも。特殊訓練の説明が楽しみね。」
ヴァーナとシスは訓練着に身を包み、訓練の説明を受けるために会議室へと足を運んだ。広い部屋には大きなテーブルが並び、その中央に座っているのは教官とリカの二人だけだった。教官は周囲から「鬼将」と呼ばれるほどの厳格な人物だが、リカと話しているときは常ににこやかな笑顔を見せていた。鬼教官も美人には弱いのかも知れないと思わせる場面だった。ヴァーナとシスが近づくと、鬼将のテラ教官の顔から笑顔が消え、険しい表情で話し始めた。眉間には深い皺が刻まれ、緊張感が一気に高まった。
「3人とも揃ったな。では、前置きなしに本題に入る。3人とも通常の宇宙飛行士の訓練レベルを上げた試験をこなしてきた。ここからは異星人と遭遇した場合の特殊訓練を行う。しかし、我々人類は未だに異星人と遭遇した事がない。どんな訓練を行えばよいのか正確な答えを持つ者はいない。そこで、特殊な状況でも生き残れるための訓練を行ってもらう。」
宇宙空間以外にも、特殊な環境が存在するのかとヴァーナは考えていたが、ここで発言すると、狂ったようにしゃべりだす教官の顔が浮かんだので、質問せずに続きの話を聞いた。
「今日から調査用の宇宙服に着替えてもらう。この宇宙服はハッチ内部に入って行動する事を想定して製造されたものだ。これは、宇宙放射線などを遮るものなどは最低限となり、宇宙塵などからの防御は想定していない、圧力維持も最低限となる。今着ている訓練着の冬着を着ているような感じの動きやすい宇宙服だ。また内部ではお互いの通信もできない可能性があるため、ケーブルを接続して会話できるシステムもある。ハッチまではこの服の上に21世紀に使用していた宇宙服を着て移動する。宇宙服についての詳細はマニュアルを各自に渡すから読んでおくように。」
そんな簡易な服で宇宙空間に出るのは誰も経験していないため、不安は隠せないが、天才たちが考えた末の答えなのだから、大丈夫だろうと信用するしかなかった。
教官がわずかに声のトーンを下げて言った。
「特殊訓練は全部で3つ。」
一瞬、ヴァーナの喉がごくりと鳴った。空気が張り詰める。
「1つ目は1人で真っ暗な空間で今日から3日間過ごしてもらう。動けるスペースはほとんどない。閉じ込められた場合を想定した訓練だ。おそらく、これが精神的に最も過酷な訓練になるだろう。」
シスが話に割り込んだ。
「3日間も飲食せずに過ごすってことですか。それって…」
教官が手を上げてシスの話を止めた。
「まぁ最後まで聞け。5日分の液体食料を予備に背負って行くので食料に困ることはない。さらに排泄循環システムで再液体食料化もされるので、食料については安心してくれていい。体調についても、訓練中は中のお前たちの状態は観察しているので、何かあれば訓練を中止する予定だ。お前たちはレベルが違うという所を見せてくれ。」
長期間の暗闇は精神的健康や体のリズムを壊す恐れがある、こんな訓練をした直後に宇宙の実任務に向かうというのは現実離れしているが大丈夫なのかと疑問が頭をよぎるが、ここまで来たら何が何でも訓練を乗り越えていくしかないと更に意気込む3人だった。
「1日の休みをとり、2つ目は、灼熱の暑さを耐えてもらう。太陽光を受け続けた宇宙服表面は150度近くに達する。その温度で3日間過ごす。これは3人一緒の部屋だ。娯楽はないが、部屋内では何をしても良い。宇宙服の冷却液の試験はこなしているが、中に人がいる場合の感情の変化がどうなるのかは試していない。宇宙服の機能試験も兼ねての訓練となる。」
シスが質問した。
「中の人間の具合が悪くなった場合はどうなるんですか。」
教官が顔をしかめながらも答えた。
「だから、宇宙服から身体の情報を常に収集して監視していると言っただろ。何かあれば即中止にする。」
「中止になったら、月への出発も延期になるんでしょうか。」
「そうなる可能性もあるが、その可能性は0.01%の予想が出ている。心配せずに話を最後まで聞け。」
戸惑いながらも、シスは黙ってうなずき、訓練の話を聞いた。
「また1日休みをとり、残りの5日間を1人で宇宙服を着たまま小さな部屋で過ごしてもらう。部屋では身動きもできるし、明かりもある。孤独との戦いだ。1日目の暗闇訓練ではAIの話し相手がいるが、この5日間は完全な一人だ。1つ目の暗闇試験を乗り越えたなら、この試験はそれほど過酷ではないだろう。それを終えたら、また1日休みをとり、翌日は宇宙へ向けて出発だ。お前たちには本当に期待している。月の中に異星人のいる可能性もゼロではない。地球人代表である事を忘れないでくれ。最後に何か質問はあるか。」
リカが質問した。
「途中に休みがありますが、その時はこの施設を出ても大丈夫なのでしょうか。それとも施設の休養施設で過ごすのでしょうか。」
「自分が心も体も一番休まる過ごし方をしてくれればよいのだが、できれば、この施設内に3人の家を用意しているので、そこで過ごして欲しい。お前たちは最重要人物である事を認識して欲しい。施設内の者の家族などの外来者が泊まれるための家が10戸ほどある。その内の3戸をお前たちのために用意している。」
「ありがとうございます。その家で過ごす事にします。」
「他に質問がなければ、13時に特殊訓練棟に来てくれ。訓練の開始だ。」
第一章を読んでいただき、ありがとうございます。
『ルナリアン』は、未知との遭遇により、地球や人間がどう変化していくのかを描きたいと思いながら書いていきます。
次章から、いよいよ特殊訓練が始まります。
月の裏側に待つものとは何なのか。引き続き楽しんでいただければ幸いです。




