勇者の座る席
その町の酒場は、少し広かった。
人も多い。
だが、
一角だけ空いている席がある。
誰も座らない。
「そこ、空いてますか」
店主に聞く。
店主は一瞬だけこちらを見る。
「空いてる」
だが、
少しだけ間があった。
「誰も座らないんですか」
「座らないな」
それだけだった。
席に近づく。
普通の木の椅子。
少し擦れている。
特別な装飾はない。
ただ、
使われていた跡はある。
「そこ、あいつの席だ」
後ろから声がした。
振り返ると、
酒を持った男が立っている。
「あいつ?」
「勇者だよ」
その言い方は、
少しだけ軽い。
「よく来るんですか」
「来てた、だな」
男は席を見ながら言う。
「来て、飲んで、
少し話して、帰る」
どこにでもいる客の話だった。
「強そうでした?」
男は少し考える。
「分からん」
「分からない?」
「強いとこ見たことない」
それも、分かる気がした。
「静かだったな」
男はそう付け足す。
「飲み方も、普通だ」
「普通ですか」
「一杯ずつ飲む。
無駄に飲まない」
俺は席を見る。
グラスの跡が、
うっすら残っている。
スイが、
足元で揺れる。
色は穏やかな青だ。
「座るのか」
男が聞く。
「一応」
そう言って、椅子を引く。
少しだけ軋む。
座る。
特に何も起きない。
当たり前だ。
店主が酒を持ってくる。
同じものだろう。
一口飲む。
……普通だ。
うまいが、
特別ではない。
「同じ酒ですか」
「同じだ」
店主は短く答える。
「特別扱いはしない」
それも、
この町らしい。
もう一口飲む。
グラスを置く。
視線の高さが、
少しだけ変わる。
ここから見ていたのか。
酒場の全体が見える。
入口。
カウンター。
客の顔。
確かに、悪くない席だ。
「どうだ」
男が聞く。
「普通ですね」
「だろ」
それでいいらしい。
スイが、
椅子の足元に寄る。
少しだけ揺れる。
色は変わらない。
「……他人の感じがしないな」
誰に言うでもなく、口に出る。
理由は分からない。
ただ、
妙にしっくりくるだけだ。
グラスを空にする。
席を立つ。
特別なことは何もない。
ただ、
一つだけ分かった。
勇者も、
ここではただの客だった。
それだけだ。




