帰れない旅人とぬるい酒
宿の酒場は、珍しく静かだった。
昼過ぎだ。
人もまばらで、
声も低い。
俺はカウンターで、
薄い葡萄酒を飲んでいた。
温い。
だが、
この町ではもう普通のことだ。
スイが足元で揺れる。
色は穏やかな青だ。
扉が開く。
入ってきたのは、
軽装の男だった。
旅人に見えるが、
荷物が少ない。
席に座ると、
そのまま動かない。
「飲むか」
店主が声をかける。
男は少し遅れて頷いた。
葡萄酒が出る。
男はすぐには飲まない。
しばらく見てから、
ゆっくり口をつけた。
顔が、少しだけ歪む。
「……温いな」
「冷やせない」
店主が言う。
それで会話は終わった。
男は二口目を飲む。
今度は、顔が変わらない。
「南から?」
なんとなく聞く。
男は頷いた。
「帰るつもりだった」
それだけ言う。
葡萄酒を飲む。
「でも、帰れなかった」
理由は聞かない。
だが、
それで十分だった。
「家は?」
少しだけ踏み込む。
男は杯を見たまま言う。
「残ってる」
「人は?」
男は答えない。
スイが、
床の一滴に触れる。
色が少しだけ薄くなる。
男がそれを見る。
「それ、連れか」
「まあ」
男は少しだけ笑った。
「いいな」
何が、とは言わない。
葡萄酒をもう一口飲む。
温い酒だ。
だが、
ゆっくり飲める。
男が言う。
「南は、早い」
「早い?」
「全部が、すぐ変わる」
それは、
少し分かる気がした。
「酒も?」
「酒もだ」
男は杯を傾ける。
「昨日あった店が、
今日にはない」
それは、
この町ではまだ起きていない。
「ここは、まだ遅い」
男はそう言って、
少しだけ安心した顔をした。
葡萄酒を飲み干す。
「……温いのも、悪くないな」
最初と違う言い方だった。
「だろ」
店主が短く返す。
男は立ち上がる。
「どこへ行く」
誰かが聞く。
男は少し考える。
「まだ、決めてない」
それも、
分かる気がした。
外は静かだ。
風も弱い。
スイが揺れる。
色は、
元の青に戻っていた。
俺は葡萄酒をもう一杯頼む。
温い。
だが、
今日はそれでよかった。
帰れない場所があっても、
飲める場所があれば、
とりあえずは困らない。
そういう日もある。




