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18話 どこから来たのか

 真っ白な菊の花に満ちた葬儀用の祭壇の下で、浄土真宗の坊主が一定の律動で木魚を叩きながら、俺にはなんて言っているのかわからない念仏を唱えている。坊主の後ろでは写真の人物の同僚らしき男性が、こじんまりとした机の角香炉の中から抹香をつまみ、そのまま炭の上にくべる。それから男性は両手を合わせ、俺の方を向いて一礼をしては、後ろの席へ戻っていった。


 俺はもう一度中央の写真を見た。その人物が誰なのかは、一目見ただけでわかった。だが、どうしても信じられなかった。写真に写っていたのは――ドングリ池で見た夢の中で、必ず俺を守ると誓っていた――そしてロケットペンダントの写真に写っていた――、父親と推定される人物だったからだ。


 俺は自分が酷くショックを受けているのを感じた。しかし、感情が込みあがるだけで、体はうんともすんとも動じなかった。自分の体に目が落ちると、体が小さくなっていることに気付いた。ほんの少し柔らかみのある肉付き、おそらく今の俺は、大体五歳くらいの歳だろう。そして、今の俺の精神と肉体は連動していない。つまりこれは、記憶だ。状況を理解していくうちに冷静さを取り戻してきた。だが、父親が死んでいることに対して動揺していることに変わりはない。


 どうして父は死んでしまっているんだ? 俺を守ると言っていた父が――、なぜ?


 視界に液体が浮かんでくる。そして、そのまま何も見えなくなった。木魚の音と念仏の声だけが耳の中にこだましている。目に映る液体がゆらゆらと揺れて、まるで俺は溺れているみたいだ。


 やがて葬儀の音は泡のように消え、今度は清々しい風が頬を撫でるのを感じた。楽しげに囁きあう老若男女の声、草と草が触れ合うサワサワという音。気付いたときには、俺はコンクリートの道を、左手に広がる光景を眺めながら、ゆっくりと歩いていた。風に揺れる水面、高く感じる青い空、鮮やかに紅葉する遠くの草木、自然の水を仕切る人工物の壁――。どうやらここはダムか湖なのだろう。そしてこの慣れた視線の高さ。今の俺と同じ高さだ。


 顔が右を向く。そこには見覚えのある顔があった。優しいパーマのかかった、少し色の抜けた髪、濃い茶色の眼鏡の中にたたずむつり目。母親と推定されている女性だ。母は俺より少し背が高い。母の奥では、他に多くの人々が一緒になって同じ方向へ歩いている。


「どうして遊覧船なんかに?」そう発したのは俺だった。

 母はかすかに笑みを浮かべる。「私の好きなところだからよ」

「ふーん」興味のなさそうな反応だった。しかし、俺は確かに母を尊重していた。


 俺は進行方向を向いた。だが、そこは道路じゃなかった。俺は深い碧(あお)の水面に向かって落ちていた。そして、沈んだ。


 この一瞬の出来事に、俺の精神はたじろいだ。一体何が起きたんだ! 心の中でそう叫んだ。ところが、不思議なことに、俺はすぐに冷静にこの状況を理解することができた。さっきの湖に沿って歩いていた場面から、水の中に落ちるというこの場面まで飛ばされたのだ。


 しかし、冷静でいられるのも束の間だった。突然、俺の精神が肉体に対する刺激を知覚しだしたのである。つまり、本当に溺れている感覚に陥ったのだ。



 息ができない。太陽の光に碧く照らされた湖水の中に、俺の口から複数の気泡が吐き出される。


 俺は、死ぬのか? 肺の中に酸素はもうない。入ってくるのは冷たい湖の水だけ。ぼやけた虹が逆さになって見える。なるほど、今俺は頭が下になっているのか。もはやどっちが上でどっちが下なのかわからないな。俺は深い、深い水底に沈んでいく。視界はだんだんと暗くなっていく。


 誰かが俺の名前を呼ぶのが聞こえた。だけど、音がくぐもって、よく聞こえない。


 体がもう動かないから、もがく体力さえない。ああ、意識が遠ざかっていく。



 視界が暗転する寸前のところ、一瞬の間だけであったが、俺は母の姿を見た。母は俺とともに逆さまになって湖の底へ落ちながら、俺の方へ必死に手を伸ばしている。そして、口を開けたり閉じたりして、何かを伝えようとしていた。だが、聞こえたのはたった一言だけだった。「ルカ」俺の名前だ。俺は母の姿を目で追った。表情を見るに、母は、何かを祈っているようだった。


 そして、母は俺から見て上へ落ちていった。やがて母まで太陽光が届かなくなる。伸ばされた母の右手が、俺の最後に見た光だった。



 *



 ルカが記憶の中を旅している間、地上の根っこ広場にいるキツネたちは神秘的な現象を目にしていた。初めに、巨大樹全体が明るい翠(みどり)色に発光した。それから光は消え、今度は同じ光が地中から大樹を伝って登ってきた。それはゆっくりと同じ速度で登っていき、やがて生い茂る葉に隠れて見えなくなってしまった。見えなくなってしばらくすると、大樹のてっぺんを中心とした空に、光が一気に波紋状に広がった。全体が葉で覆われた根っこ広場にまで届くほどの光だった。そして最後に、翠色の光の塊が空から羽のようにゆっくりと落ちてきた。それが地面に触れると、光が散り、ルカの姿が現れた。

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