↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
残響ランナー ~能力を使うたびに記憶を失う運び屋は、崩壊した東京を駆け抜ける~  作者: 深夜のトースト
第一章 零時の扉

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/33

第八話 冷めた甘酒

 虚獣が来た。


 俺の叫び声と、凛の〈断〉と、そして、何より、三度鳴り響いた鐘の音に、引き寄せられて。


「九条、乗れ!」


 梁から半分落ちるように降りて、カラスに飛び乗る。後部シートには、意識の朦朧とした久我を乗せたまま。


「三人は無理です」


「無理でも乗れ!」


 凛は、一瞬だけためらった。それから、久我の後ろに、体を押しこむように跨った。久我を、俺と凛で挟む形になる。


 重い。カラスのサスペンションが、悲鳴を上げる。


「掴まれ!」


 アクセル全開。


 広場の四方から、硝子の獣が雪崩れこんでくる。


 正面。犬型が三匹。避ける。


 右。猿型が飛びかかってくる。


「〈断〉」


 後ろから、凛の声。猿型の核が、ぱきんと砕ける。


「それ、最後の一回だろ!」


「……」


「九条!」


 返事がない。ミラーを見る。凛の頭が、久我の肩に、がくりと落ちかけていた。腕だけは、俺のジャケットを掴んで、離さない。


 くそ。


 交差点。左。ずれた道路の段差を、フロントを持ち上げて乗り越える。後輪が浮く。三人分の重さで、着地の衝撃が全身を突き抜ける。


 来た道を、戻る。〈淀み〉の交差点。


「息、止めろ!」


 飛びこむ。世界が、どろりと重くなる。


 背後で、虚獣どもも〈淀み〉に突っこんでくる。でも、あいつらの体は、俺たちより重い。硝子が、ゆっくり、ゆっくり、こちらに手を伸ばす。


 抜けた。


 世界が、元の速さに戻る。


 ミラーの中で、虚獣の群れが、まだ〈淀み〉の中で、スローモーションのように藻掻いていた。


 俺は、灯台島に向けて、カラスを走らせ続けた。


     *


「まったく、無茶ばっかりして」


 千代婆さんは、ぶつぶつ言いながら、凛の体に毛布を三枚、重ねてかけた。


 灯台島の、市場の奥の小部屋。石油ストーブが、赤く燃えている。


 久我は、島の元看護師だという婆さんの知り合いに預けた。脱水と衰弱がひどいけれど、命に別状はない、らしい。


 凛は、ストーブの前で、毛布にくるまって、膝を抱えていた。


 唇の色は、ようやく、少しだけ戻ってきた。両手には、千代婆さんが持たせた、甘酒の湯呑み。


 さっきから、ひと口も飲んでいない。


 湊が心配そうに、部屋の入口から覗いている。千代婆さんが、「ほら、子供は寝る時間だよ」と、湊を連れて出ていった。


 部屋に、俺と凛だけが残された。


 ストーブの、ちりちりという音。


「……知っていたんですか」


 凛が、ぽつりと言った。


「何を」


「兄が、生きていること」


 俺は、答えに迷った。


「知ってたわけじゃない」


「でも、何か、分かっていた」


「……あの刀の、一番底にあった動き。三年前のものにしては、新しかった気がした。それだけだ。根拠はない」


「なぜ、言わなかったんですか」


「根拠がなかったから」


「それは、嘘ではありませんね」


「ああ」


「でも、それだけでもない」


 凛は、湯呑みの中の甘酒を見つめていた。


「……言ったら、お前、どうしてた?」


 凛は、答えなかった。


 長い、長い沈黙。


 ストーブの炎が、凛の横顔を、橙色に照らしている。


「三年前、雪代が帰ってきたとき」


 凛が、湯呑みを見つめたまま、話し始めた。


「私は、毎日、旧有明の方角を見ていました。今日、帰ってくるかもしれない。明日、帰ってくるかもしれない。そう思って、毎日」


「……」


「一年経って、やめました。帰ってこないものを待つのは、とても、疲れたので」


 凛の指が、湯呑みの縁を、ゆっくりとなぞった。


「だから、決めたんです。兄は死んだ。私は、兄の刀で、兄の代わりに戦う。それで、全部、終わりにしようと」


「……」


「なのに」


 凛の声が、初めて、震えた。


「なのに、今さら、生きていたなんて」


 その先は、言葉にならなかった。


 凛は、湯呑みを床に置いて、毛布に顔を埋めた。


 泣いているのかどうか、分からなかった。音は、しなかった。ただ、毛布にくるまった小さな肩が、ほんの少しだけ、揺れていた。


 俺は、何も言わなかった。


 何を言えばいいのか、分からなかった。


 代わりに、自分のジャケットを脱いで、凛の毛布の上に、もう一枚、重ねてやった。


 凛は、何も言わなかった。


 でも、毛布の端から伸びた指が、俺のジャケットの裾を、ほんの少しだけ、つまんだ。


 カラスの後ろで、最初にそうしたみたいに。


     *


 凛が眠ったあと、俺は、部屋の隅で、手帳を開いた。


 今日の一回目。千鳥の足取りを追想した、あの一回。


 何が消えたのか。


 ページをめくる。一つずつ、頭の中と照らし合わせる。


 鉄さんの誕生日。覚えてる。ミナのアイス。覚えてる。


 千代婆さんの島への道。覚えてる。


 最初のほうの、ページ。施設にいた頃に書いた、たどたどしい字。


〈母さんの声。少し低くて、子守唄が下手だった。でも、いつも最後まで歌ってくれた。〉


 指が、止まった。


 ——母さん。


 思い出そうとする。


 声。子守唄。下手だった、と書いてある。最後まで歌ってくれた、と書いてある。


 何も、ない。


 声の高さも、どんな歌だったのかも、どんな顔をして歌っていたのかも。そこには、ただ、文字が並んでいるだけだった。


 母さんの記憶は、もともと、ほとんどなかった。零時より前の記憶は、俺の中に、ほとんど残っていない。その、数少ない、残っていたもののひとつだった。


 声だけは、覚えていたのに。


「…………」


 指先が、冷たくなった。


 ストーブの火は、まだ燃えているのに。


 俺は、そのページに、印をつけた。消えた、の印。いつもと同じように。


 鉛筆を持つ手が、少しだけ、震えた。


「……篠宮?」


 声がして、顔を上げた。


 凛が、毛布の中から、こっちを見ていた。起きていたのか。それとも、今、起きたのか。


「……なんでもねえよ。寝てろ」


「それは、何ですか」


「手帳」


「何が消えたんですか」


 鋭いな、と思った。


「……たいしたもんじゃない」


「嘘ですね」


 凛は、毛布にくるまったまま、俺をまっすぐ見ていた。


 俺は、少しだけ笑った。笑ったつもりだった。


「母さんの声」


「……」


「もともと、ほとんど覚えてなかったんだけどな。声だけ、なんとなく残ってた。それが、消えた」


 ストーブの火が、ぱちりと爆ぜた。


「今日の一回で?」


「ああ」


「私が、斬れと言ったから」


「お前は、探せるかって聞いただけだろ。使うって決めたのは、俺だ」


「でも」


「いいんだよ。手帳に書いてある。下手な子守唄を、最後まで歌ってくれたって。それが分かってりゃ、十分だ」


 凛は、何か言いたそうに、唇を動かした。


 でも、結局、何も言わなかった。


 代わりに、毛布の中から、片手を伸ばした。


 床に置いてあった、甘酒の湯呑み。


 それを、俺のほうに、そっと押し出した。


「……冷めてるぞ、これ」


「知っています」


「飲めってこと?」


「……甘いものは、少しだけ、いいので」


 何がいいのか、凛は言わなかった。


 俺は、冷めた甘酒を、ひと口すすった。


 甘かった。


 ものすごく、甘かった。


     *


 その夜、遅く。


 ——ごぉん。


 鐘の音が、また、聞こえた。


 市場の天井の隙間から、俺は、旧有明の方角を見上げた。


 時計塔の頂上で、青白い光が、脈打っていた。


 昨日よりも、少しだけ、速く。


「……あの鐘、なんか、呼んでるみたい」


 いつの間にか、隣に湊が立っていた。寝ぼけ眼をこすりながら、同じ方角を見上げている。


「呼んでる?」


「うん。おいで、おいで、って」


 湊は、あくびをひとつした。


「じんにいちゃんのこと、呼んでるのかなあ」


「……なんで俺なんだよ」


「わかんない。なんとなく」


 湊はそれだけ言って、ふらふらと寝床に戻っていった。


 俺は、ひとり、時計塔を見上げ続けた。


 カラスのハンドルで、真鍮の鍵が、かすかに揺れていた。


 風は、吹いていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。