第八話 冷めた甘酒
虚獣が来た。
俺の叫び声と、凛の〈断〉と、そして、何より、三度鳴り響いた鐘の音に、引き寄せられて。
「九条、乗れ!」
梁から半分落ちるように降りて、カラスに飛び乗る。後部シートには、意識の朦朧とした久我を乗せたまま。
「三人は無理です」
「無理でも乗れ!」
凛は、一瞬だけためらった。それから、久我の後ろに、体を押しこむように跨った。久我を、俺と凛で挟む形になる。
重い。カラスのサスペンションが、悲鳴を上げる。
「掴まれ!」
アクセル全開。
広場の四方から、硝子の獣が雪崩れこんでくる。
正面。犬型が三匹。避ける。
右。猿型が飛びかかってくる。
「〈断〉」
後ろから、凛の声。猿型の核が、ぱきんと砕ける。
「それ、最後の一回だろ!」
「……」
「九条!」
返事がない。ミラーを見る。凛の頭が、久我の肩に、がくりと落ちかけていた。腕だけは、俺のジャケットを掴んで、離さない。
くそ。
交差点。左。ずれた道路の段差を、フロントを持ち上げて乗り越える。後輪が浮く。三人分の重さで、着地の衝撃が全身を突き抜ける。
来た道を、戻る。〈淀み〉の交差点。
「息、止めろ!」
飛びこむ。世界が、どろりと重くなる。
背後で、虚獣どもも〈淀み〉に突っこんでくる。でも、あいつらの体は、俺たちより重い。硝子が、ゆっくり、ゆっくり、こちらに手を伸ばす。
抜けた。
世界が、元の速さに戻る。
ミラーの中で、虚獣の群れが、まだ〈淀み〉の中で、スローモーションのように藻掻いていた。
俺は、灯台島に向けて、カラスを走らせ続けた。
*
「まったく、無茶ばっかりして」
千代婆さんは、ぶつぶつ言いながら、凛の体に毛布を三枚、重ねてかけた。
灯台島の、市場の奥の小部屋。石油ストーブが、赤く燃えている。
久我は、島の元看護師だという婆さんの知り合いに預けた。脱水と衰弱がひどいけれど、命に別状はない、らしい。
凛は、ストーブの前で、毛布にくるまって、膝を抱えていた。
唇の色は、ようやく、少しだけ戻ってきた。両手には、千代婆さんが持たせた、甘酒の湯呑み。
さっきから、ひと口も飲んでいない。
湊が心配そうに、部屋の入口から覗いている。千代婆さんが、「ほら、子供は寝る時間だよ」と、湊を連れて出ていった。
部屋に、俺と凛だけが残された。
ストーブの、ちりちりという音。
「……知っていたんですか」
凛が、ぽつりと言った。
「何を」
「兄が、生きていること」
俺は、答えに迷った。
「知ってたわけじゃない」
「でも、何か、分かっていた」
「……あの刀の、一番底にあった動き。三年前のものにしては、新しかった気がした。それだけだ。根拠はない」
「なぜ、言わなかったんですか」
「根拠がなかったから」
「それは、嘘ではありませんね」
「ああ」
「でも、それだけでもない」
凛は、湯呑みの中の甘酒を見つめていた。
「……言ったら、お前、どうしてた?」
凛は、答えなかった。
長い、長い沈黙。
ストーブの炎が、凛の横顔を、橙色に照らしている。
「三年前、雪代が帰ってきたとき」
凛が、湯呑みを見つめたまま、話し始めた。
「私は、毎日、旧有明の方角を見ていました。今日、帰ってくるかもしれない。明日、帰ってくるかもしれない。そう思って、毎日」
「……」
「一年経って、やめました。帰ってこないものを待つのは、とても、疲れたので」
凛の指が、湯呑みの縁を、ゆっくりとなぞった。
「だから、決めたんです。兄は死んだ。私は、兄の刀で、兄の代わりに戦う。それで、全部、終わりにしようと」
「……」
「なのに」
凛の声が、初めて、震えた。
「なのに、今さら、生きていたなんて」
その先は、言葉にならなかった。
凛は、湯呑みを床に置いて、毛布に顔を埋めた。
泣いているのかどうか、分からなかった。音は、しなかった。ただ、毛布にくるまった小さな肩が、ほんの少しだけ、揺れていた。
俺は、何も言わなかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
代わりに、自分のジャケットを脱いで、凛の毛布の上に、もう一枚、重ねてやった。
凛は、何も言わなかった。
でも、毛布の端から伸びた指が、俺のジャケットの裾を、ほんの少しだけ、つまんだ。
カラスの後ろで、最初にそうしたみたいに。
*
凛が眠ったあと、俺は、部屋の隅で、手帳を開いた。
今日の一回目。千鳥の足取りを追想した、あの一回。
何が消えたのか。
ページをめくる。一つずつ、頭の中と照らし合わせる。
鉄さんの誕生日。覚えてる。ミナのアイス。覚えてる。
千代婆さんの島への道。覚えてる。
最初のほうの、ページ。施設にいた頃に書いた、たどたどしい字。
〈母さんの声。少し低くて、子守唄が下手だった。でも、いつも最後まで歌ってくれた。〉
指が、止まった。
——母さん。
思い出そうとする。
声。子守唄。下手だった、と書いてある。最後まで歌ってくれた、と書いてある。
何も、ない。
声の高さも、どんな歌だったのかも、どんな顔をして歌っていたのかも。そこには、ただ、文字が並んでいるだけだった。
母さんの記憶は、もともと、ほとんどなかった。零時より前の記憶は、俺の中に、ほとんど残っていない。その、数少ない、残っていたもののひとつだった。
声だけは、覚えていたのに。
「…………」
指先が、冷たくなった。
ストーブの火は、まだ燃えているのに。
俺は、そのページに、印をつけた。消えた、の印。いつもと同じように。
鉛筆を持つ手が、少しだけ、震えた。
「……篠宮?」
声がして、顔を上げた。
凛が、毛布の中から、こっちを見ていた。起きていたのか。それとも、今、起きたのか。
「……なんでもねえよ。寝てろ」
「それは、何ですか」
「手帳」
「何が消えたんですか」
鋭いな、と思った。
「……たいしたもんじゃない」
「嘘ですね」
凛は、毛布にくるまったまま、俺をまっすぐ見ていた。
俺は、少しだけ笑った。笑ったつもりだった。
「母さんの声」
「……」
「もともと、ほとんど覚えてなかったんだけどな。声だけ、なんとなく残ってた。それが、消えた」
ストーブの火が、ぱちりと爆ぜた。
「今日の一回で?」
「ああ」
「私が、斬れと言ったから」
「お前は、探せるかって聞いただけだろ。使うって決めたのは、俺だ」
「でも」
「いいんだよ。手帳に書いてある。下手な子守唄を、最後まで歌ってくれたって。それが分かってりゃ、十分だ」
凛は、何か言いたそうに、唇を動かした。
でも、結局、何も言わなかった。
代わりに、毛布の中から、片手を伸ばした。
床に置いてあった、甘酒の湯呑み。
それを、俺のほうに、そっと押し出した。
「……冷めてるぞ、これ」
「知っています」
「飲めってこと?」
「……甘いものは、少しだけ、いいので」
何がいいのか、凛は言わなかった。
俺は、冷めた甘酒を、ひと口すすった。
甘かった。
ものすごく、甘かった。
*
その夜、遅く。
——ごぉん。
鐘の音が、また、聞こえた。
市場の天井の隙間から、俺は、旧有明の方角を見上げた。
時計塔の頂上で、青白い光が、脈打っていた。
昨日よりも、少しだけ、速く。
「……あの鐘、なんか、呼んでるみたい」
いつの間にか、隣に湊が立っていた。寝ぼけ眼をこすりながら、同じ方角を見上げている。
「呼んでる?」
「うん。おいで、おいで、って」
湊は、あくびをひとつした。
「じんにいちゃんのこと、呼んでるのかなあ」
「……なんで俺なんだよ」
「わかんない。なんとなく」
湊はそれだけ言って、ふらふらと寝床に戻っていった。
俺は、ひとり、時計塔を見上げ続けた。
カラスのハンドルで、真鍮の鍵が、かすかに揺れていた。
風は、吹いていなかった。




