第九話_非番の押しかけ客
時計塔の最上階には、窓が十二ある。
かつて、ここは国立界面物理研究所の、展望ラウンジだった。研究者たちが昼食をとり、湾岸の景色を眺め、論文の締め切りに愚痴をこぼした場所。今では、窓ガラスはすべて砕け落ち、床には十五年分の埃と、青白い結晶の欠片が、雪のように積もっている。
その、東向きの窓のひとつに、女がいた。
半透明の女だった。肩までの髪を、耳にかける。窓の外を見る。振り返る。誰かに向かって、何かを言う。微笑む。そして、ふっと消えて、また、窓辺に現れる。
髪を耳にかける。外を見る。振り返る。微笑む。
同じ数秒を、何度も、何度も。
九条斎は、その残影の正面に、静かに座っていた。
白い、詰襟のような上衣。腰には、雪代によく似た、しかし鞘の黒い刀。歳は二十六。妹と同じ黒い髪を、うなじで短く束ねている。整った顔立ちは穏やかで、どこか、学校の先生のような柔和さがあった。
彼は、女の唇の動きを、じっと見つめていた。
何度見ても、声は聞こえない。それでも彼は、彼女が何と言っているのか、知っている。三年前、この窓辺で、彼女は振り返って、こう言ったのだ。
——ねえ、斎。見て。きれいだよ。
その直後に、床が崩れた。
「斎さまぁ」
階段のほうから、甘えた声がした。
千鳥が、左腕を押さえて、ぺたぺたと歩いてくる。白い着物の左袖はなく、包帯を巻いた細い腕が、むき出しになっている。
「やられちゃったぁ」
「見せてごらん」
斎は、残影から目を離さずに、手だけを差し出した。千鳥はその手に、自分の傷ついた腕を乗せた。斎の指が、包帯の上を、そっとなぞる。
「……凛か」
「うん。凛ちゃん、強くなってたよぉ。斎さまの型、ちゃんと使ってた」
「そうか」
斎の口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。
「でもね、凛ちゃん一人じゃなかったの。男の子が一緒だった。黒いバイクの。その子がね、ちどりの歩き方、そっくりそのまま真似っこして、梁の上まで登ってきたの」
斎の指が、止まった。
初めて、彼は窓辺の残影から、目を離した。
「名前は」
「わかんない。でもね、凛ちゃん、『篠宮』って呼んでた」
篠宮。
斎は、ゆっくりと、千鳥の顔を見た。
その目には、驚きも、喜びもなかった。ただ、深い湖の底のような、静けさだけがあった。
「……そうか。見つかったんだね」
「見つかった?」
「ずっと、探していたんだ。十五年前の夜に、ここから消えた〈鍵〉を」
斎は立ち上がった。
窓辺の残影が、また、髪を耳にかける。外を見る。振り返る。
斎は、その横を通り過ぎるとき、まるで本当にそこにいる人の肩に触れるように、そっと、手を伸ばした。
指は、何にも触れずに、すり抜けた。
「剛」
部屋の奥の暗がりに、声をかける。
暗がりが、のそりと動いた。
巨大な影だった。身の丈は二メートルを超える。剃り上げた頭に、傷だらけの顔。両の拳には、黒い革の手甲。肩に担いだ鉄骨を、どすん、と床に下ろす。結晶の欠片が、ぱっと舞い上がった。
「呼んだか、大将」
「篠宮という子を、連れてきてほしい」
「篠宮ぁ?」
鬼塚剛は、首をごきりと鳴らした。
「ワイの仕事にしては、えらい地味やな。子供の送り迎えかいな」
「その子は、〈扉〉なんだ」
斎は、静かに言った。
「十五年前、この塔で開きかけた扉を、閉じた男がいた。その男は、扉を閉じるために、自分の子供の中に、鍵を隠した。その子供が、今、壁の外で、運び屋をしている」
「……ほう」
「満潮には、その子が要る。傷つけないで連れてきてほしい。できるだけ」
「できるだけ、な」
鬼塚の傷だらけの顔が、獰猛に笑った。
「ほな、できるだけ、優しゅうしたるわ」
鬼塚が、どすどすと階段を降りていく。
千鳥が、包帯を巻いた腕をぶらぶらさせながら、斎の顔を覗きこんだ。
「凛ちゃんは? 連れてこなくていいの?」
斎は、答えなかった。
窓辺に戻り、また、残影の正面に座る。
髪を耳にかける。外を見る。振り返る。微笑む。
——ねえ、斎。見て。きれいだよ。
「凛は」
斎は、残影の唇を見つめたまま、言った。
「来るよ。自分で。あの子は、そういう子だから」
——ごぉん。
塔の最下層で、鐘が鳴った。
斎の膝の上で、黒い鞘の刀が、かすかに震えた。
*
零課への報告は、思っていたよりも、あっさり終わった。
「なるほどねえ」
不破課長は、俺と凛の報告を、飴を転がしながら黙って聞いて、最後にそれだけ言った。
「九条斎が、生きてる。〈潮騒〉っていう響者の集団を率いてる。千鳥っていう幻影使いがいる。そして、旧有明の時計塔で、何かをしようとしてる。と」
「……驚かないんですか」
俺が聞くと、不破課長は、からころ、と飴を鳴らした。
「驚いてるよ? 僕、顔に出ないタイプなんだよねえ」
絶対嘘だ、と思った。
隣の凛を見る。凛は、背筋をまっすぐに伸ばして、不破課長を見ていた。灯台島で毛布にくるまっていた面影は、もうどこにもない。いつもの、融通の利かない、零課の九条凛だった。
「課長。追加の調査を、具申します」
「却下」
「……理由を」
「九条。君は今、冷静じゃない」
「冷静です」
「冷静な人はね、自分で冷静ですって言わないんだよ」
凛の拳が、膝の上で、白くなった。
「三日、休みなさい。命令だよ。篠宮くんも。あ、篠宮くんは民間人だから、命令じゃなくてお願いね」
「……了解、しました」
凛は、短く答えて、作戦室を出ていった。
ドアが閉まる。
俺は、不破課長を見た。
「課長」
「なんだい」
「白鷺って、何をしようとしてるんですか」
「さあねえ」
「知ってる顔ですよ、それ」
「顔に出ないタイプって言ったでしょ」
不破課長は、飴をがりっと噛み砕いた。
「篠宮くん。三日、休みなさい。それと、なるべく、一人にならないように」
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ」
不破課長は、それ以上、何も言わなかった。
*
そして、なぜか。
「おじゃまします」
三日間の休みの初日、相良運送の事務所の玄関に、九条凛が立っていた。
私服だった。白いシャツに、紺色のカーディガン。それに、なぜか、腰には雪代。
「……なんで?」
「監視です」
「は?」
「課長は、あなたに一人になるなと言いました。私は、休みで暇です。合理的な判断です」
「暇なら家で寝てろよ」
「家にいても、眠れないので」
凛は、さらりと言った。
それが、たぶん、本当の理由だった。
「……上がれよ。散らかってるけど」
「おじゃまします」
凛は、きっちり靴を揃えて上がった。
相良運送の事務所は、町工場を改造した二階建てで、一階が倉庫兼整備場、二階が事務所兼住居になっている。油と鉄と、インスタントコーヒーの匂い。床には、ミナの工具と部品が、宝の山みたいに散らばっている。
「あーっ! 前輪の人!」
整備場の奥から、ミナが飛び出してきた。ゴーグルを額に上げ、油まみれの指で凛を指差す。
「あの断面! あの断面の人っすよね!?」
「……その件は、大変申し訳ありませんでした」
凛が、深々と頭を下げた。
「いや謝んなくていいっす! それより、あれどうやって斬ったんすか!? 分子結合どこで切ってんすか!? 切断面の結晶構造、全然乱れてなかったんすけど!? ウチ、顕微鏡で見て泣いたっす!」
「ほつれ、を斬りました」
「ほつれ!?」
「物には、必ずほつれがあります。そこを斬れば、何でも斬れます」
「エモ……! ちょっと、ちょっとだけ、詳しく、そこ座ってもらっていいっすか!? あとウチのホイール見てもらっていいっすか!? 新しいやつ、ほつれ全部埋めたつもりなんすけど!?」
「……埋まっていません。三か所、あります」
「三か所ぉぉぉぉ!?」
ミナが床に崩れ落ちた。
凛は、困ったように俺を見た。俺は肩をすくめた。
「気にすんな。いつもこうだから」




