第十話_屋上の煙草
昼飯は、ミナが作ったカレーだった。
ミナのカレーは、カレーというより、実験だ。毎回、何かしらの隠し味が入っている。前回はコーヒー。その前はチョコレート。その前は、聞かないほうがいいものだった。
「今日の隠し味は、はちみつと、りんごと、あとヨーグルトっす!」
「甘口かよ」
「甘口っす! ウチ、辛いの無理っすから!」
「お前の好みで作るなっていつも言ってんだろ」
「いやでも、凛さんも甘いの好きそうな顔してるっすよ」
「どんな顔だよ」
俺とミナが言い合っている横で、凛は、無言で、スプーンを口に運んでいた。
ひと口。
ふた口。
み口目で、手が止まった。
「……あの」
「はい!? まずかったっすか!?」
「いえ」
凛は、皿を、そっとミナのほうに押し出した。
「おかわりを、いただけますか」
「…………」
「…………」
ミナが、ものすごい勢いで、俺の脇腹を肘でつついた。目が、きらきらしている。
俺は、何も言わなかった。
何も言わずに、自分の皿の福神漬けを、凛の皿に移してやった。
「……これは」
「おかわりが来るまでの繋ぎ」
「不要です」
そう言いながら、凛は、福神漬けをひとつ、口に運んだ。
*
夕方、鉄さんが配達から戻ってきた。
凛を見て、一瞬だけ眉を上げて、それから、何も言わずに冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「……九条の娘か」
「はい。九条凛です。お邪魔しています」
「兄貴に、似てるな」
凛の肩が、ぴくりと跳ねた。
「兄を、ご存知なんですか」
「昔、不破の野郎と、ちょっとな」
鉄さんは、それ以上、何も言わなかった。缶ビールのプルタブを、ぷしっと開ける。
俺は、冷蔵庫の中を覗いた。ビールの横に、一升瓶が冷えている。
ラベルは、菊正宗。
手帳に書いてあった、鉄さんの好きな酒。
——そうか、これだったのか。
見ても、何も思い出さなかった。ただ、手帳の文字と、目の前のラベルが、一致した。それだけだった。
「坊主。何、突っ立ってる」
「……なんでもない」
俺は、冷蔵庫を閉めた。
*
夜。凛は、結局、事務所のソファで眠ってしまった。
ミナが毛布をかけてやり、「ウチ、凛さんのこと好きになったっす」と宣言して、自分の部屋に引き上げていった。
俺は、屋上に出た。
相良運送の屋上からは、湾岸が見える。黒い壁の輪郭。その向こうで、薄紫色の光が、ゆっくりと脈打っている。
「眠れねえのか」
背後から、鉄さんの声がした。手に、湯呑みを二つ持っている。中身は、菊正宗だ。
「俺、未成年だけど」
「知ってる。だから、お前のは白湯だ」
受け取った湯呑みは、確かに、ただのお湯だった。
鉄さんは、俺の隣に並んで、手すりにもたれた。しばらく、二人で黙って、壁の向こうの光を眺めていた。
「千夏はな」
鉄さんが、ぽつりと言った。
「あの日、友達の家に、泊まりに行ってた。お台場の、海の見えるマンションだ。花火が見えるからって、えらくはしゃいでな」
千夏。鉄さんの娘。零時のとき、八歳だった。
手帳に、書いてある。でも、鉄さんの口から、直接聞くのは、たぶん、初めてだった。
——いや。初めてじゃないのかもしれない。前にも聞いて、それを、俺が忘れているだけかもしれない。
「迎えに行こうとした。車で、高速飛ばして。でも、間に合わなかった。目の前で、空が白くなって、それで、終わりだ」
鉄さんは、湯呑みの酒を、ひと口すすった。
「十五年、毎年、あの壁の前に花を置きに行ってる。中に入ろうと思えば、入れる。お前みたいにな。でも、入らねえ」
「……なんで」
「怖えからだ」
鉄さんは、あっさりと言った。
「中には、残影ってのがいるんだろ。死んだ奴の、最後の数秒が、ぐるぐる回ってる。千夏も、いるかもしれねえ。いたら、俺は、たぶん、二度と戻ってこれねえ」
夜風が、鉄さんの坊主頭を撫でた。
「九条の兄貴は、それで、戻ってこれなくなったのかもしれねえな」
「……」
「坊主」
「なんだよ」
「お前は、戻ってこいよ。何を見ても。何を忘れても」
鉄さんは、俺の頭を、ぐしゃっと撫でた。
初めて会ったときと、同じ手つきだった——と、思う。
初めて会ったときのことは、手帳に書いてある。
でも、それが本当に、この手つきだったかどうか、俺にはもう、確かめようがない。
俺は、白湯を、ひと口飲んだ。
ぬるかった。
*
それは、午前二時に起きた。
最初に聞こえたのは、音だった。
——どおん。
鐘じゃない。もっと近い。もっと、重い。
事務所の建物全体が、揺れた。
「っ、なんだ!?」
屋上から階段を駆け下りる。二階の事務所。ソファの上で、凛が、もう雪代を抜いて立っていた。
「一階です」
——どおん。
二度目。床が、跳ねた。棚の上の書類が、雪崩のように落ちる。
——どおおおんっ!!
三度目。
一階の整備場の、鉄のシャッターが、内側に向かって、ひしゃげて吹き飛んだ。
粉塵の向こうに、巨大な影が立っていた。
二メートルを超える巨体。剃り上げた頭。両の拳に、黒い革の手甲。
そいつは、ひしゃげたシャッターの残骸を、片足で、ぐしゃりと踏み潰した。
「ごめんくださぁい」
低い、楽しそうな声だった。
「篠宮迅くん、いてはりますかぁ。お迎えに上がりましたぁ」
「……誰だ、お前」
「鬼塚剛。潮騒の、まあ、用心棒みたいなもんや。白鷺の大将が、お前さんに会いたい言うてはってな。ちょっと付き合うてもらうで」
「断ったら」
「断られへんように、するだけや」
鬼塚が、笑った。
その足元で、何かが、動いた。
小さな影。油まみれのつなぎ。ゴーグル。
鬼塚の左手が、その襟首を、猫の子みたいに、ひょいと摘み上げていた。
「ミナ!!」
「迅さ……ん……っ」
ミナの足が、宙で藻掻く。顔が、真っ青だ。
「この子、整備場で寝とったわ。工具抱えてな。ええ子やなあ。働き者や」
「離せ!」
「離したるよ。お前さんが、ワイについてきたらな」
鬼塚が、右の拳を、軽く握った。
それだけで、空気が、ずしりと重くなった気がした。
「〈断〉」
俺の横から、凛の声。
白い刀身が閃く。鬼塚の左手首を狙った、見えない一閃。
——がきぃんっ!
金属音。
鬼塚の手甲に、白い線が走る。でも、その下の手首には、届いていない。
「おお、怖。ほつれ斬りの嬢ちゃんか。大将の妹やな」
鬼塚は、手甲の傷を、面白そうに眺めた。
「この手甲な、大将が特別に用意してくれたんや。ほつれを、毎秒ずらす素材やて。よう分からんけど、嬢ちゃんの刀は、一回じゃ通らへんらしいで」
「……っ」
「一回じゃ、な」
鬼塚の笑みが、深くなった。
「ほな、何回やったら通るか、試してみよか? その前に、嬢ちゃんが凍えて倒れるか、この子の首がもげるか、どっちが先やろなあ」
ミナの喉から、ひゅっ、と細い息が漏れた。
「やめろっ!」
俺は、一歩、前に出た。
「行く。行くから、ミナを離せ」
「篠宮!」
「いい子や」
鬼塚は、ミナを摘み上げたまま、くるりと背を向けた。
「ほな、この子は、旧お台場の、観覧車の下で預かっとくわ。明日の夜明けまでに、一人で来ぃ。零課の連中連れてきたら——」
鬼塚の右の拳が、事務所の柱を、軽く、とん、と叩いた。
とん。
とん。
とん。
三度目で。
柱が、粉々に砕け散った。
「——こうなるで、この子が」
粉塵の中で、鬼塚の巨体が、夜の闇に消えた。
ミナの、かすれた悲鳴を連れて。
崩れかけた事務所の中に、俺と、凛と。
そして、階段の上から、静かに降りてきた、鉄さんが残された。
鉄さんの手には、古い、刃こぼれしたサバイバルナイフが、握られていた。




