第十一話_観覧車の下の拳
午前三時。崩れかけた事務所の一階で、三人は、地図を囲んでいた。
「一人で行く」
俺が言うと、凛が即座に首を振った。
「不可能です。あの男の能力は、打撃の蓄積です。同じ場所に当てるたびに、威力が倍になる。一発目は普通の拳。二発目でその倍。三発目でさらに倍。あの柱を見たでしょう」
粉々になった柱の残骸が、床に散らばっている。とん、とん、とん。たった三回の、軽い打撃で。
「あなたが三発もらったら、終わりです」
「分かってるよ」
「分かっていません」
「じゃあ、零課を呼ぶか? あいつ、零課の連中連れてきたらミナを殺すって言ったんだぞ」
「…………」
凛が、唇を噛んだ。
「零課は呼ばない」
低い声がした。
鉄さんだった。テーブルの端に、古いサバイバルナイフを置いて、腕を組んでいる。
「呼んだら、不破の野郎は、たぶん、ミナより作戦を優先する。あいつは、そういう奴だ」
「……鉄さん」
「だから、俺が行く」
俺と凛が、同時に鉄さんを見た。
「鉄さん、裂界に入ったことないだろ」
「ねえな」
「十五年、一度も」
「ああ」
「怖いって、言ってたじゃねえか」
「言った」
鉄さんは、ナイフを手に取った。刃こぼれした、古いナイフ。柄に巻かれた革紐は、黒く変色している。
「でもな、坊主。娘をもう一人、あそこで失うほうが、もっと怖え」
鉄さんは、ナイフを、腰の鞘に収めた。
「お前が正面から行け。あいつの狙いはお前だ。お前が目の前にいれば、ミナには手を出さねえ。俺は、裏から回って、ミナを取り返す」
「九条は」
「私は」
凛が、地図の一点を指差した。旧お台場の、観覧車から、北に八百メートル。湾岸の、倒れた巨大クレーン。
「ここから、観覧車が見えるはずです」
「八百メートルだぞ」
「見えるなら、斬れます」
凛は、淡々と言った。
「あの手甲は、ほつれを毎秒ずらす。一回では通らない。でも、あの男自身が教えてくれました。同じ場所に、重ねればいい」
「……三回、同じとこ斬るつもりか」
「はい。一秒以内に」
「お前、それ」
「問題ありません」
凛は、俺を見なかった。
問題ある顔だった。いつもより、ずっと。
*
午前四時半。
カラスで、裂界の中を走る。後ろには、誰も乗っていない。
凛は、三十分前に、徒歩でクレーンに向かった。鉄さんは、さらにその前に、旧お台場の南側、海沿いのルートを回りこむために出発した。十五年ぶりに、いや、生まれて初めて、壁の向こうへ。
出発する前、鉄さんは、壁のゲートの前で、一度だけ立ち止まった。
門扉の脇に、枯れた花束が、いくつも、いくつも、積み重なっていた。
鉄さんは、その花束を見下ろして、何も言わなかった。それから、ゲートをくぐった。振り返らなかった。
——ごぉん。
鐘が、鳴る。
旧お台場。
かつては、観光地だった場所だ。ショッピングモール、テレビ局、海浜公園。今は、すべてが傾き、ひしゃげ、薄紫色の空の下で、巨大な骨の残骸みたいに佇んでいる。
その中心に、観覧車が立っていた。
いや、立っていると言っていいのか分からない。直径百メートルを超える巨大な輪は、半分ほど、地面に沈むように傾いていた。ゴンドラのいくつかは落ち、いくつかは、まだ、錆びた鉄骨にぶら下がって、風もないのに、ゆっくりと揺れていた。
その、一番低い位置にあるゴンドラの中に。
「ミナ……!」
小さな影が、ガラス窓に、両手を押しつけていた。
生きてる。
「よう来たなあ」
観覧車の、真下。
鬼塚が、巨大な支柱に背中を預けて、座っていた。
「ちゃんと一人で来たな。偉い偉い」
「ミナを、降ろせ」
「降ろすで。お前さんが、ワイについてきたらな」
鬼塚は、のっそりと立ち上がった。二メートルを超える巨体が、薄紫の空を遮る。
「でもなあ。大将はな、お前さんを、できるだけ傷つけんように連れてこい、て言うたんや」
鬼塚は、首をごきりと鳴らした。
「できるだけ、てことは、ちょっとくらいは、ええてことやろ?」
——来る。
鬼塚が、地面を蹴った。
速い。あの巨体で、信じられない速さ。
右の拳が、真っ直ぐに、俺の顔面へ。
避ける。体を沈める。拳が、頭の上を掠める。風圧で、髪が逆立つ。
追想じゃない。これは、俺の素の反射だ。何年も、虚獣から逃げ回ってきた、運び屋の勘。
「おっ、避けよった」
鬼塚の左の拳。腹を狙った、低い軌道。
横に転がる。拳が、地面を打つ。アスファルトが、蜘蛛の巣状にひび割れる。
一発目で、これか。
「ちょこまか、ちょこまかと。ネズミみたいなやっちゃなあ」
「運び屋だからな。逃げるのが仕事なんだよ」
「ほな、逃げられへんようにしたろ」
鬼塚の拳が、俺を狙うのを、やめた。
代わりに、観覧車の支柱へ。
とん。
「——っ!」
支柱が、軋んだ。観覧車全体が、ぐらりと揺れる。ゴンドラの中で、ミナが悲鳴を上げた。
「お前、何を」
とん。
二回目。支柱に、亀裂が走る。観覧車の巨大な輪が、ぎしぎしと、悲鳴のような音を立てる。
「三回目で、この支柱、折れるで。そしたら、この観覧車、転がるわなあ。あのゴンドラの子、どうなるやろ」
「やめろ!」
「ほな、大人しゅう、ついてくるか?」
鬼塚の拳が、三回目の位置で、止まっている。
汗が、背中を伝った。
観覧車が、ゆっくりと、揺れている。
その、揺れる鉄骨の向こう側。
ゴンドラの裏手で、何かが、動いた。
黒い影。坊主頭。
鉄さんだ。海沿いのルートから、回りこんできた。錆びた鉄骨を、黙々と、登っている。五十八歳の、元レンジャー。片手にナイフ。音を、まったく立てていない。
あと、十メートル。
時間を、稼げ。
「……一つ、聞いていいか」
「なんや」
「白鷺は、俺を連れていって、何をするつもりなんだ」
「さあなあ。ワイは難しいこと分からんねん。扉を開けるとか、満潮がどうとか言うてたけど」
「扉?」
「お前さん、扉なんやて」
鬼塚が、面白そうに俺を見下ろした。
「十五年前にな、あの塔で、でっかい扉が開きかけたんや。それを閉じたのが、お前さんの親父さんやて。で、親父さんは、その扉の鍵を、自分の息子の中に隠した。大将は、その鍵を使うて、扉を、もう一回、開けたいんやと」
父さん。
赤い廊下。大きな扉の前に立っていた、白衣の背中。
手のひらに押しつけられた、真鍮色の、変な形の鍵。
「……鍵なら、ここにあるぞ」
俺は、カラスのハンドルを指差した。キーホルダーの、真鍮の鍵。
「それやないて」
鬼塚は、笑った。
「鍵はな、お前さん自身や。お前さんの、その、〈追想〉とかいう力。それが、鍵なんやて」
——え?
一瞬、頭が真っ白になった。
その一瞬を、鬼塚は、見逃さなかった。
「隙ありぃ」
拳。
速い。避けられない。
左の肩に、鬼塚の拳が、めりこんだ。
「っ、が——!」
吹き飛ぶ。地面を転がる。肩が、焼けるように熱い。骨は、たぶん、まだ折れてない。一発目だから。
「一発目」
鬼塚が、楽しそうに数える。
「次に同じとこ当たったら、腕、もげるで」




