第十二話_鉄さんのナイフ
「——おい、デカブツ」
低い声が、観覧車の上から、降ってきた。
鬼塚が、顔を上げる。
ゴンドラの屋根の上に、鉄さんが立っていた。
片手で、ゴンドラの扉をこじ開けている。中から、ミナが、転がり出るように鉄さんにしがみつく。
「鉄さん……っ!」
「よく頑張った。掴まってろ」
鉄さんは、ミナを背中に背負うと、ゴンドラの屋根から、隣の鉄骨へ、跳んだ。
五十八歳の跳躍じゃなかった。
「なんや、おっさん。いつの間に」
「お前が、ガキ相手に、べらべら喋ってる間にな」
鉄さんは、鉄骨を伝って、するすると降りてくる。ミナを背負ったまま。
「坊主! ミナを連れて走れ!」
地面に降り立った鉄さんが、ミナを俺のほうへ押し出した。
「鉄さんは!」
「いいから走れ!」
鬼塚が、地面を蹴った。鉄さんに向かって。
「おっさん、ええ動きするやん。何者や」
「ただの、宅配屋だ」
鬼塚の拳。鉄さんが、躱す。紙一重。そのまま、鬼塚の懐に、潜りこむ。ナイフが閃く。鬼塚の脇腹を、浅く、裂く。
「っ、と!」
鬼塚が、飛び退く。脇腹から、血が滲む。
「やるやん、おっさん!」
鬼塚が、笑った。心底、楽しそうに。
そこからは、目で追えなかった。
鬼塚の拳と、鉄さんのナイフが、交錯する。鬼塚の拳は、一発でも当たれば、終わり。鉄さんは、それを、全部、躱し続けていた。経験。勘。十五年以上前に叩きこまれた、本物の、戦う人間の動き。
でも。
年齢は、嘘をつかない。
鉄さんの呼吸が、乱れてくる。動きが、ほんの少しだけ、遅れる。
鬼塚の拳が、鉄さんの左腕を、掠めた。
「ぐっ……!」
「一発目ぇ」
次の拳。また、左腕。
「二発目ぇ」
鉄さんの左腕が、だらりと垂れ下がった。ナイフが、手から落ちる。からん、と、乾いた音。
「鉄さん!!」
「さあ、三発目や。腕、もろたで、おっさん」
鬼塚の右拳が、振りかぶられる。
——間に合わない。
俺は、ミナを地面に下ろした。
「ミナ、カラスに隠れてろ」
「迅さん……!」
走る。鉄さんのほうへ。
地面に落ちた、ナイフへ。
拾う。
握る。
——流れこんでくる。
刃こぼれした、古いナイフ。何十年も、鉄さんの手の中にあった。そこには、数え切れない動きが、何層にも、何層にも、重なっていた。
野営の夜、薪を割る動き。誰かの縄を断ち切る動き。缶詰を開ける動き。
そして、一番、底に。
一番、強い。
一番、迷いのない、一撃。
若い頃の、鉄さんだ。どこかの訓練場か、どこかの戦場か。分からない。でも、その一撃には、何の迷いもなかった。相手の、一番弱いところを、一番正確に、一番速く、貫く。それだけのために、何千回、何万回と、繰り返された動き。
今日、一回目。
「〈追想〉」
世界が、遅くなった気がした。
いや、違う。俺の体が、速くなったんだ。
鬼塚の右拳が、鉄さんの左腕へ、振り下ろされる。その拳の、下へ。俺の体が、滑りこむ。
踏みこむ。低く。鬼塚の巨体の、懐へ。
見える。いや、この体が、知っている。
鬼塚の右腕。振りかぶった、その脇の下。手甲が届いていない、肘の内側の、柔らかい場所。
そこに、ナイフを。
突き上げる。
「——が、あっ!?」
鬼塚の右腕が、空中で、止まった。
ナイフが、肘の内側に、深々と突き刺さっている。腱を、断ち切っている。
鬼塚の右拳が、開いた。
もう、握れない。
五秒。
俺の体が、俺に戻ってくる。
全身の筋肉が、一斉に、悲鳴を上げた。若い頃の鉄さんの動きは、俺の体には、速すぎた。膝が崩れる。
頭の奥で、ぷつり、と。
何かが、消える。
「……このっ、ガキ、ぃ……!」
鬼塚の、左拳。
握れない右腕の代わりに、残った左を、俺に向けて振り上げる。
狙いは、さっき殴られた、俺の、左肩。
二発目。
腕が、もげる。
避けられない。膝が、動かない。
鬼塚の拳が、迫る。
そのとき。
八百メートル先から、声が、届いた気がした。
聞こえるはずがない。距離がありすぎる。
でも、確かに、聞こえた気がした。
——〈断〉。
鬼塚の、左の手甲に、白い線が走った。
がきん。
ずれる。ほつれが、ずれる。手甲は、まだ、割れない。
——〈断〉。
同じ場所。二本目の線。
がきん。
また、ずれる。でも、さっきより、ずれ幅が、小さい。
——〈断〉。
三本目。
同じ場所。一秒以内。
手甲が、割れた。
その下の、鬼塚の左手首に。
赤い線が、走った。
「————ッ!!」
鬼塚の、絶叫。
左の拳が、俺の肩の、わずか数センチ手前で、力を失って、開いた。
巨体が、ゆっくりと、膝をつく。
両腕を、だらりと垂らして。
もう、どっちの拳も、握れない。
「……は、はは」
鬼塚が、笑った。
脂汗を垂らしながら、それでも、楽しそうに。
「八百メートルから、三回、同じとこ、一秒以内。ワイの技、そのまま、パクリよった。……大将の妹、やるなあ」
北の空を見る。
倒れた巨大クレーンの、頂上。
小さな、小さな人影が、立っていた。
白い刀身が、一度だけ、きらりと光った。
それから、人影は、ぐらりと揺れて。
クレーンの上に、崩れ落ちるように、見えなくなった。
「——九条!」
*
凛は、クレーンの頂上で、気を失っていた。
俺が駆け上がったとき、凛は、雪代を胸に抱えたまま、鉄骨の上に倒れていた。唇は、紫を通り越して、白かった。指先が、氷みたいに冷たい。
「おい、九条! 九条!」
頬を叩く。反応がない。
呼吸を確かめる。浅い。でも、ある。
俺は、ジャケットを脱いで、凛を包んだ。それから、凛の体を、背中に背負った。
軽かった。
刀一本分くらいしか、重さがない気がした。
「……しの、みや」
背中で、かすかな声がした。
「起きたか」
「……三回、いけました」
「見てたよ」
「……私、すごいですか」
「すげえよ。めちゃくちゃ、すげえ」
「……そうですか」
背中で、凛が、ほんの少しだけ、笑った気配がした。
「……ココア、ありますか」
「帰ったら、ミナが作る。死ぬほど甘いやつ」
「……楽しみです」
それっきり、凛は、また眠ってしまった。
でも、さっきより、呼吸が深かった。
*
鬼塚は、零課に引き渡した。
鉄さんが、結局、不破課長に連絡したのだ。両腕の使えない巨漢を、三人で運ぶのは無理だったから。
不破課長は、零課の装甲車で、自ら乗りつけてきた。鬼塚の両腕に特殊な拘束具をつけさせ、装甲車に放りこむと、俺たちを見回して、飴をからころと鳴らした。
「一人にならないように、って言ったんだけどねえ」
「一人じゃなかったですよ。三人だった」
「屁理屈だねえ」
不破課長は、それでも、どこか、ほっとしたような顔をしていた。
装甲車の後部座席で、拘束された鬼塚が、俺を見ていた。
「なあ、運び屋」
「……なんだよ」
「お前さん、まだ分かってへんやろ。自分が、何なのか」
「扉なんだろ。さっき聞いた」
「そうや」
鬼塚の顔から、笑みが、消えていた。
「大将はな、お前さんを使うて、扉を開ける。そしたら、裂界が、溢れる。東京中が、裂界になる。死んだ奴らが、みんな、残影になって、そこらじゅうを歩き回る世界になる」
「……」
「大将は、それが、救いやと思うとる。死んだ奴に、もう一回、会える世界やからな」
鬼塚は、自分の動かない両腕を見下ろした。
「ワイはな、どっちでもええねん。強い奴と喧嘩できればな。でも、お前さんは、どうなんや。死んだ母ちゃんに、会いとうないか?」
——母さん。
手帳の、あのページ。
〈少し低くて、子守唄が下手だった〉。
声を、もう、思い出せない。
「……会いたくねえよ」
俺は言った。
「会っても、もう、分かんねえから」
装甲車のドアが、閉まった。
*
相良運送に戻ったのは、昼過ぎだった。
ミナは、帰り着くなり、凛のために鍋いっぱいのココアを作り始めた。牛乳と、ココアパウダーと、砂糖と、はちみつと、マシュマロと、なぜか練乳。
「甘すぎだろ」
「凛さんは、これくらいがいいんす! ウチには分かるっす!」
凛は、事務所のソファで、毛布にくるまって眠っていた。ミナのココアの匂いに、寝顔が、少しだけ、緩んだように見えた。
鉄さんは、左腕を三角巾で吊っていた。骨は折れていない。ひびが入っただけだ、と、本人は言い張っている。
俺は、二階の自分の部屋で、手帳を開いた。
今日の一回目。鉄さんのナイフ。
何が、消えたのか。
ページをめくる。
すぐに、見つかった。
〈十二歳の冬。施設を逃げ出して、雨の高架下にいた。寒くて、腹が減ってて、もう動けなかった。そしたら、坊主頭のでかいおっさんが、軽トラから降りてきた。何も聞かずに、缶のコーンスープをくれた。熱かった。おっさんは、「乗れ」とだけ言った。それが、鉄さん。〉
読む。
もう一度、読む。
雨の高架下。缶のコーンスープ。「乗れ」。
何も、ない。
俺の頭の中には、どこにも、ない。
鉄さんに初めて会った日のことを、俺は、もう、思い出せない。
——あの人のナイフで、あの人の記憶を、払ったのか。
「…………」
皮肉にしては、出来すぎていた。
俺は、そのページに、印をつけようとした。
鉛筆の先が、紙の上で、止まった。
なかなか、印が、つけられなかった。
ドアが、ノックされた。
「坊主」
鉄さんだった。三角巾で左腕を吊って、右手に、何か持っている。
「入るぞ」
「……ああ」
鉄さんは、部屋に入ってくると、俺のベッドの端に、どかっと腰を下ろした。
それから、右手に持っていたものを、俺に、ぽんと放った。
受け取る。
熱い。
缶の、コーンスープだった。
「……なんで」
「ミナのココアは、甘すぎて飲めたもんじゃねえ。お前は、昔から、それが好きだっただろうが」
鉄さんは、それだけ言って、窓の外を見た。
俺の手帳を、ちらりとも見なかった。
何も、聞かなかった。
俺は、缶のプルタブを開けた。
湯気が、立ち上る。とうもろこしの、甘い匂い。
ひと口、飲んだ。
熱かった。
——ああ。
思い出したわけじゃない。何も、戻ってきてはいない。
でも、この熱さを、俺の舌は、知っている気がした。
「……鉄さん」
「なんだ」
「ありがとう」
「何がだ」
「なんでもない」
鉄さんは、鼻を鳴らした。
それから、俺の頭を、ぐしゃっと、右手で撫でた。
俺は、手帳のページに、印をつけるのを、やめた。
代わりに、そのページの一番下に、一行だけ、書き足した。
〈今日、もう一回、もらった。やっぱり熱かった。〉




