第十三話_隠された零時
零課の地下三階には、窓のない部屋が一つある。
壁も、床も、天井も、灰色の吸音材で覆われている。響者を拘束するための部屋だ、と不破課長は言った。能力の種類によっては、音や光や振動すら、武器になるから。
その部屋の中央で、鬼塚剛は、椅子に縛りつけられていた。
両腕は、肘から先を分厚い拘束具で覆われ、だらりと膝の上に置かれている。腱を断たれた腕は、もう、拳を握ることもできない。それでも、マジックミラー越しに見る鬼塚の顔は、昨日と同じように、どこか楽しそうだった。
「全然、喋らないねえ」
ミラーのこちら側で、不破課長が、飴を転がしながらぼやいた。
「名前と、所属と、好きな食べ物。それしか喋らない。ちなみに好きな食べ物は、お好み焼きだって。広島風は認めないらしい」
「どうでもいい情報ですね」
俺の隣で、凛が言った。
昨日、クレーンの上で倒れた凛は、一晩、ミナの鍋いっぱいのココアを飲み干して、今朝にはもう、普通に歩いていた。顔色も、ほとんど戻っている。ほとんど。
「どうでもよくないよ。広島風を認めない人とは、僕、仲良くなれないからねえ」
「課長は広島風派なんですか」
「僕は、両方いける派」
「もっとどうでもいいです」
凛と不破課長のやり取りを聞き流しながら、俺は、ミラーの向こうの鬼塚を見ていた。
鬼塚も、こっちを見ていた。
ミラー越しには、こちらは見えないはずだ。なのに、鬼塚の目は、まっすぐに、俺のいる位置を捉えていた。
その唇が、動いた。
——は、よ、せ、ん、と。
「……早よせんと?」
読み取った言葉を、口に出す。
不破課長の飴の音が、止まった。
「篠宮くん、今、何て」
「あいつの口が、そう動いた。早よせんと、って」
ミラーの向こうで、鬼塚が、にやりと笑った。
そして。
ふいに、その目が、焦点を失った。
口が、半開きになる。体から、力が抜ける。椅子の上で、鬼塚の巨体が、ぐったりと傾いた。
目を開けたまま。
何かを、見つめたまま。
「——っ」
凛が、息を呑んだ。
同じだ。旧国際展示場の広場で倒れていた、調査班の四人と。
「剛ちゃん、おしゃべりしすぎぃ」
声がした。
部屋の中からじゃない。ミラーのこちら側。俺たちのすぐ、後ろから。
振り返る。
監視室の入口に、零課の制服を着た、若い女性職員が立っていた。手に、書類のファイルを持っている。どこにでもいそうな、目立たない顔。
その顔が、にこりと笑った。
笑い方が、千鳥だった。
「〈断〉——!」
凛の刀が、閃いた。
女性職員の体が、真っ二つに裂ける。
そして、煙のように、消えた。
「はずれぇ。ちどり、ここにはいないよぉ。ずうっと遠く」
声だけが、監視室に残る。
「幻影ってね、遠くからでも、作れるの。一回でも行ったことのある場所ならね。この前、展示場で、凛ちゃんの記憶、ちょっとだけ覗かせてもらったから。零課の中、だいたい分かっちゃった」
凛の顔から、血の気が引いた。
「剛ちゃんはね、ちどりの夢の中で、ゆっくり寝てもらうことにしたの。起きたら、喋っちゃいけないこと、喋っちゃいそうだから」
「……あいつを、どうした」
「だいじょうぶ、死んでないよぉ。楽しい夢、見てるだけ。剛ちゃんの一番楽しかった喧嘩を、ずうっと、ずうっと、繰り返してるの」
くすくす、と笑い声。
「それじゃあね、お兄さん。もうすぐ、会えるよ。満潮の夜に」
声が、消えた。
ミラーの向こうで、鬼塚が、目を開けたまま、ほんの少しだけ、笑っていた。
楽しそうに。
*
「さて」
課長室。
不破課長は、窓際の机に腰掛けて、いつもより、ずっとゆっくりと、飴を転がしていた。
部屋には、俺と、凛と、それから、相良運送から呼び出された鉄さんがいた。鉄さんは、三角巾で左腕を吊ったまま、壁にもたれて、腕を組めない代わりに、右手をポケットに突っこんでいる。
「時間がないみたいだから、話すよ。全部じゃないけど、話せることは、全部」
不破課長は、机の引き出しから、一冊の古いファイルを取り出した。黄ばんだ表紙。擦り切れた角。
〈国立界面物理研究所 第三実験棟 人員名簿〉
「十五年前まで、僕は、あの研究所の、警備担当の責任者だった。防衛省からの出向でね。そこで、相良さんとも知り合った」
「相良さんは」
「研究所の警備部隊に、教官として来てた。訓練の指導にね」
鉄さんは、黙っていた。否定もしなかった。
「あの研究所が、何を研究していたか。表向きは、新しいエネルギーの研究。でも、本当は違う」
不破課長は、ファイルのページをめくった。
「〈界面〉。この世界と、もう一つの層の、境目。研究者たちは、そう呼んでいた」
「もう一つの層?」
「この世界で起きた、すべての動きの、記憶が溜まっている場所。誰かが歩いた。誰かが走った。誰かが誰かを抱きしめた。そういう動きの残響が、全部、どこかに、積もっている。研究者たちは、それを〈残響層〉と呼んでいた」
——残響。
俺の〈追想〉が読み取るもの。物に残った、動きの記憶。
「研究所は、その残響層に、窓を開けようとした。この世界の、過去の動きを、全部、観測できるようにするために。そのための装置が、あの時計塔の地下にある。研究者たちは、それを〈扉〉と呼んでいた」
「扉……」
「そして、十五年前の八月十五日。午前零時。最初の起動実験で、扉は、制御を失って、開きかけた」
不破課長は、ページの、ある写真を指差した。
眼鏡をかけた、痩せた男。四歳くらいの男の子を、肩車して笑っている。
「実験の責任者は、主任研究員の、篠宮恭一さん。篠宮くんの、お父さんだ」
知っていた。
鬼塚から、聞いていた。
それでも、写真の中の、笑っている男の顔を見た瞬間、胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
覚えていない。この顔を。
赤い廊下の、白衣の背中と、ひびの入った眼鏡。俺が覚えているのは、それだけだ。
「扉が開きかけて、残響層が、この世界に溢れ出した。それが、裂界だ。中で時間が狂うのも、物理が軋むのも、残影が現れるのも、全部、残響層が、こっちに滲み出してきているから」
「虚獣は」
凛が聞いた。
「残響層に溜まった、記憶の、残りかすみたいなもの、らしい。形を持てなかった記憶が、形を求めて、生きてる人間の記憶を食べにくる。だから、音と記憶に寄ってくる」
不破課長は、飴を、がりっと噛み砕いた。
「恭一さんは、扉が完全に開く前に、制御室に入って、手動で、扉を閉じた。でも、完全には閉じきれなかった。半開きのまま、なんとか、止めた。それが、今の裂界だ。そして、恭一さんは、制御室から、出てこなかった」
部屋が、静まり返った。
「……じゃあ、俺は」
声が、掠れた。
「俺の、この力は、何なんですか。鬼塚は、俺が鍵だって言った。扉だって」
「それは、僕にも、正確には分からない」
不破課長は、首を振った。
「ただ、恭一さんは、扉を閉じる直前に、君を研究所に連れてきていた。なぜかは、分からない。でも、君は、零時の夜に、扉の一番近くにいた人間の一人だ。そして、生き残った」
「……」
「君の〈追想〉は、たぶん、他の響者の力とは、根っこが違う。君は、物から残響を読んでいるんじゃない。物を通して、残響層そのものに、直接、触れているんだと思う。だから、何年も前の動きでも、読める。他の誰にもできないことだ」
手のひらを、見下ろした。
何の変哲もない、俺の手。
「九条斎は、それを知っている。扉を完全に開くには、残響層に直接触れられる人間が要る。だから、篠宮くんを狙っている」
「……課長は」
凛が、低い声で言った。
「いつから、それを知っていたんですか」
不破課長は、答えなかった。
「篠宮が運び屋をしていると知って、泳がせていたんですか。いつか、利用するために」
「九条」
「答えてください」
凛の手が、雪代の柄に掛かっていた。
不破課長は、凛を見た。それから、俺を見た。それから、ふっと、肩の力を抜いた。
「半分は、そうだ」
「……」
「上には、篠宮くんを、どこかに閉じこめておけって言う人たちもいた。危険すぎるから、ってね。それを、なんとか、ごまかしてきた。運び屋なんて、目立たない仕事をしている限りは、ってね。それが、もう半分」
不破課長は、飴の包み紙を、指先で、くしゃくしゃに丸めた。
「恭一さんにね、頼まれたんだよ。零時の、三日前に。もし自分に何かあったら、息子を頼む、って。冗談みたいな口調だったけどね。……あの人、何か、分かってたのかもしれない」
凛の手が、柄から、ゆっくりと離れた。
鉄さんが、壁にもたれたまま、鼻を鳴らした。
「だから、あの雨の夜、俺に連絡してきたのか。施設から逃げたガキが、高架下で死にかけてる、って」
——え?
俺は、鉄さんを見た。
「十二の冬だ。不破から電話があった。名前も聞かずに、場所だけ言われた。行ってみたら、お前がいた」
雨の高架下。缶のコーンスープ。「乗れ」。
手帳に、書いてある。
俺の頭の中には、もう、ない。
でも、そこに、こんな続きがあったなんて、手帳にも、書いてなかった。
「……知らなかった」
「言ってねえからな」
鉄さんは、それだけ言った。
不破課長は、少しだけ、気まずそうに笑った。
「僕が直接迎えに行ったら、怪しまれるからねえ。相良さんなら、何も聞かずに、拾ってくれると思った」
「何も聞かずに、じゃねえ。お前が何も説明しなかっただけだろうが」
「そうとも言うねえ」




