第十四話_鍵
「篠宮くん」
不破課長が、俺を見た。
「その鍵。お父さんから、もらったものだね」
俺は、ポケットから、カラスのキーホルダーを取り出した。
真鍮色の、変な形の鍵。持ち手に、小さな穴がいくつも開いている。擦り切れたプラスチックの札。
「それは、たぶん、制御室の、物理キーだ。扉を手動で操作するための」
「……知ってたんですか」
「形を見て、そうじゃないかと思ってた。確信は、なかったけどね」
鍵を、握りしめる。
十五年間、ずっと持っていた。何の鍵なのかも、知らずに。
「その鍵に、恭一さんの動きが、残っていないかな。扉を閉じたときの、動きが」
凛が、はっとして、不破課長を見た。
「課長、それは」
「分かってる。篠宮くんの力には、代償がある。無理にとは言わない」
不破課長は、俺を見た。
「でも、もし、恭一さんが、どうやって扉を閉じたのか、分かれば。九条斎が扉を開いたとき、もう一度、閉じられるかもしれない」
俺は、鍵を見下ろした。
真鍮の表面は、俺の指の脂で、鈍く光っている。十五年間、毎日、握ってきた。カラスのハンドルで、揺れてきた。
俺の動きが、何千、何万と、重なっているはずだ。
その、一番、底に。
父さんの動きが、まだ、残っているだろうか。
今日は、まだ、一回も使っていない。
俺は、目を閉じた。
鍵を、両手で、包むように握った。
——流れこんでくる。
最初は、俺だ。カラスのエンジンをかける動き。ハンドルの上で、鍵が揺れる動き。眠れない夜に、布団の中で、鍵を握りしめる動き。施設のベッドの上で。雨の高架下で。
何層も、何層も。
その下へ。
もっと、深く。
冷たい水の中へ、沈んでいくように。
——あった。
大人の手だ。
細くて、指の長い手。インクの染みがついた、研究者の手。
その手が、鍵を、何かに差しこむ。回す。左に、二回。止める。右に、一回。そして、ぐっと、押しこむ。
何度も、何度も、繰り返された動き。毎朝の点検で。毎晩の確認で。
そして、一番、上に。
一番、新しく、一番、強く、残っている、動き。
その手が、鍵を、小さな手のひらに、押しつけている。
小さな指を、鍵ごと、握りこんでいる。
なかなか、離さない。
離したくない、と、その手が、言っている。
「〈追想〉」
俺の手が、動いた。
左手で、鍵を、空中の、見えない鍵穴に差しこむ。左に、二回。止める。右に、一回。押しこむ。
そして、その次に。
俺の右手が、俺自身の左手を、ぎゅっと、包みこんだ。
鍵ごと。
強く。
なかなか、離さない。
五秒。
体が、俺に戻ってくる。
気がつくと、俺は、自分の手を、自分で握りしめていた。
指が、震えている。
頭の奥で、ぷつり、と。
何かが、消える。
「……左に二回。右に一回。押しこむ」
俺は、呟いた。
「それが、扉を閉じる手順だ」
凛が、俺の顔を見ていた。
何か、言いかけて、やめた。
代わりに、凛は、ポケットからハンカチを取り出して、黙って、俺に差し出した。
「……なんだよ」
「拭いてください」
「何を」
「顔です」
頬に、手をやった。
濡れていた。
いつから泣いていたのか、自分でも、分からなかった。
*
そのときだった。
——ごぉん。
鐘の音が、した。
壁の向こうからじゃない。もっと近く。いや、近くじゃない。
音が、止まらなかった。
——ごぉん。ごぉん。ごぉん。ごぉん。
鳴り続ける。途切れない。一つの音が消える前に、次の音が重なる。重なって、重なって、一つの、巨大な、うなりになる。
窓ガラスが、震えた。
机の上の飴の瓶が、かたかたと鳴った。
課長室のドアが、乱暴に開いた。若い隊員が、真っ青な顔で飛びこんでくる。
「課長! 東の壁、第三区画から第七区画まで、同時に崩落! 裂界の境界線が、外に向かって、移動しています!」
「速度は」
「時速、およそ四キロ! 人が歩く速さです! 江東区、中央区の湾岸部に、虚獣が溢れ出しています!」
不破課長は、窓の外を見た。
俺も、見た。
東の空。
夜の闇の中に、巨大な黒い壁の輪郭が、浮かんでいた。
その壁が、ゆっくりと、崩れていく。
まるで、砂の城が、波に洗われるみたいに。
壁の向こうから、薄紫色の光が、溢れ出していた。
光は、潮のように、街へ、街へと、押し寄せていく。光に呑まれたビルの窓から、街灯から、信号機から、色が抜けていく。輪郭が、にじんでいく。
そして、その光の中に。
半透明の人影が、ぽつり、ぽつりと、立ち上がり始めた。
この街で、かつて死んだ人たち。十五年前の夜に。もっと、ずっと昔に。
残影。
その数が、増えていく。百。千。いや、もっと。
光に呑まれた街のすべての路地に、すべての交差点に、すべての窓辺に。
死者たちが、歩き始めていた。
「……満潮だ」
不破課長が、呟いた。
飴を噛む音は、しなかった。
「篠宮くん。九条。相良さん」
不破課長は、振り返った。
その顔に、いつもの、飄々とした笑みは、なかった。
「頼みがある。今度は、本気で、頭を下げて」
俺は、手の中の鍵を、握りしめた。
左に二回。右に一回。押しこむ。
手順は、もう、体が覚えている。
さっき、何が消えたのかは、まだ、分からない。
確かめている暇は、なかった。




