第十五話_祭り囃子作戦
午後十時十二分。
零課の作戦室は、戦場になっていた。
壁一面のモニターに、湾岸部の地図が映し出されている。かつて裂界を囲んでいた壁の線から、薄紫色の染みが、じわじわと外へ広がっていく。一分ごとに、染みの輪郭が、ほんの少しずつ、膨らむ。
「境界線、現在、豊洲駅から北へ八百メートル地点! 月島、勝どき方面へ進行中!」
「江東区東雲、有明地区の住民避難、進捗四十パーセント!」
「虚獣、推定三千体以上! 境界線の内側から、外に向けて溢れています!」
オペレーターたちの怒鳴り声が、飛び交う。
不破課長は、モニターの前に立って、飴も舐めずに、地図を見つめていた。
「九条斎の狙いは、扉を完全に開くことだ」
不破課長は、振り返らずに言った。
「今は、まだ、半分ちょっと開いた状態。それでもこの有様だ。完全に開いたら、境界線は、もう止まらない。東京全域が、いや、関東全域が、残響層に呑まれる」
「いつ、完全に開くんですか」
俺が聞くと、不破課長は、壁の時計を見上げた。
「午前零時」
——零時。
「十五年前と、同じ時間だ。扉は、零時に、一番開きやすくなる。理由は、まだ、よく分かってない。たぶん、最初に開いた時間を、扉自身が、覚えているんだろうねえ」
残り、一時間四十八分。
「篠宮くん。九条。君たちは、時計塔の地下の、制御室へ行ってくれ。零時までに、扉を閉じる。それしか、方法はない」
「零課は」
「僕たちは、ここで、境界線を食い止める。虚獣を、一体でも多く、街から押し返す」
作戦室の隅で、鉄さんが、右手で軽トラックのキーを回していた。
「虚獣は、音に寄るんだろ」
鉄さんが、言った。
「ミナ」
「はいっす!」
ミナが、作戦室の入口から、両手いっぱいに何かを抱えて飛びこんできた。
スピーカーだった。工事現場で使うような、巨大なメガホン型のスピーカーが、四つ、五つ。それと、段ボール箱いっぱいの、音響弾。
「事務所の倉庫、全部ひっくり返してきたっす! あと、近所の商店街の、祭り用の拡声器も借りてきたっす!」
「借りたのか?」
「事後承諾っす!」
鉄さんは、スピーカーを一つ、右手で持ち上げた。
「軽トラに、これを積んで、思いっきり鳴らしながら走る。虚獣どもを、避難してる住民から引き剥がして、どこか、一か所に集める」
「どこへ」
「豊洲の、旧市場の先。海に突き出した、行き止まりの埠頭がある。あそこなら、逃げ場がねえ」
不破課長が、振り返った。
「そこに集めてもらえれば、零課の火力で、まとめて叩ける。……相良さん、それ、相当危ないですよ」
「知ってる」
「軽トラの速度じゃ、追いつかれる」
「追いつかれねえように、走る」
鉄さんは、三角巾で吊った左腕を、ちらりと見下ろした。
「片手でも、ハンドルは握れる。ミナ、助手席で、スピーカーの操作を頼む」
「了解っす!」
「ミナ、お前は——」
俺が言いかけると、ミナは、ぶんぶんと首を振った。
「迅さん。ウチ、鬼塚に捕まってるとき、怖かったっす。めちゃくちゃ、怖かったっす。でも、鉄さんと迅さんと凛さんが、助けに来てくれたっす」
ミナは、ゴーグルを、ぐっと目の上に下ろした。
「今度は、ウチの番っす」
言い返せなかった。
*
午後十時二十五分。
壁の、元・第四ゲート。今は、もう、ゲートの意味をなしていない。両側の壁が崩れ落ち、薄紫色の光が、川のように、外へ流れ出している。
その光の手前で、俺は、カラスに跨った。
後ろに、凛。
凛は、何も言わずに、両腕を、俺の腰に回した。最初から、がっちりと。
「体幹は?」
「訂正した発言を、撤回しません」
「どういう意味だよ」
「掴まっていたほうが、合理的です」
ヘルメットの中で、少しだけ、笑った。
隣で、相良運送の軽トラックが、エンジンを唸らせていた。荷台には、スピーカーが五つ、ロープで括りつけてある。運転席に鉄さん。助手席に、ミナ。
鉄さんが、窓から顔を出した。
「坊主」
「なんだよ」
「戻ってこいよ」
「鉄さんこそ」
「俺は、戻る。娘の墓参り、まだ、今年の分、行ってねえからな」
鉄さんは、窓を閉めた。
ミナが、助手席から、親指を立てた。
軽トラックのスピーカーから、音が、溢れ出した。
——祭り囃子だった。
商店街の夏祭りで流れる、あの、陽気な、太鼓と笛の音。最大音量で。
「……選曲」
「ミナのセンスだろ」
軽トラックが、光の中へ、突っこんでいく。祭り囃子を撒き散らしながら。
光の中の、崩れたビルの陰から、硝子の獣たちが、一斉に、顔を上げた。
裂け目が、音のほうへ、向く。
そして、雪崩を打って、軽トラックを追いかけ始めた。
百。二百。いや、もっと。
祭り囃子が、遠ざかっていく。
俺は、反対の方角へ、アクセルを開けた。
無音で。
*
光の中は、もう、俺の知っている裂界じゃなかった。
残影が、多すぎた。
道の両側に。交差点に。歩道橋の上に。半透明の人影が、ぎっしりと、隙間なく、立っていた。
十五年前の、あの夜の人たち。それだけじゃない。もっと古い服を着た人。着物を着た人。防空頭巾をかぶった子供。この土地で、かつて、死んだ、すべての人たち。
みんな、同じ数秒を、繰り返している。
走る。転ぶ。誰かを呼ぶ。空を見上げる。
カラスが、その間を、すり抜けていく。残影の体を、通り抜ける。冷たい。水の膜を、何枚も、何枚も、くぐり抜けていくみたいだった。
『……篠宮』
インカムから、凛の声。
『なんだ』
『怖く、ないですか』
『怖えよ』
『……そうですか』
『お前は』
『怖いです』
凛は、正直に言った。
『兄が、ここにいるかもしれないと思うと。……いえ、兄は生きています。でも、もし、この中に、兄の残影がいたら、と思うと』
『いねえよ』
『なぜ分かるんですか』
『あいつ、生きてんだろ。生きてるやつは、残影にならない』
『……そうですね』
凛の腕に、少しだけ、力がこもった。
『では、紗月さんは』
答えられなかった。




