第十六話_橋の上の少女
午後十時五十分。
旧有明へ続く、最後の橋。
運河をまたぐ、短い、コンクリートの橋だ。その向こうに、時計塔が見える。頂上で、青白い光が、もう、脈打つというより、燃えるように輝いている。
——ごぉん。ごぉん。ごぉん。
鐘の音は、もう、途切れない。
橋の、真ん中に。
小さな人影が、座っていた。
白い着物。左の袖はない。包帯を巻いた細い腕。橋の欄干に腰掛けて、足を、ぶらぶらと揺らしている。
「来たぁ」
千鳥が、にっこりと笑った。
「待ってたよぉ。お兄さん。凛ちゃん」
カラスを止める。
凛が、後部シートから、降りた。
雪代を、抜く。
「篠宮。先に行ってください」
「は?」
「彼女の相手は、私がします。あなたは、時計塔へ」
「一人で勝てんのかよ」
「勝ちます」
凛は、千鳥から目を離さずに、言った。
「あなたが、教えてくれました。彼女の幻影は、地面に、何も残さない」
「でも、お前、地面に触っても読めねえだろ」
「読めません。でも、見えます」
凛の目が、すっと、細くなる。
「私の目は、ほつれを見ます。物の、ほつれ。人の、ほつれ。……そして、たぶん、力の、ほつれも」
千鳥の笑みが、ほんの少しだけ、固まった。
「篠宮。行ってください。零時まで、時間がありません」
「…………」
「篠宮」
凛が、初めて、振り返った。
俺を、まっすぐ見た。
「必ず、追いつきます。だから、先に行って、待っていてください」
——待っていてください。
三年前、毎日、旧有明の方角を見ていた凛。帰ってこないものを待つのは、疲れた、と言った凛。
その凛が、今、俺に、待っていろと言った。
「……時間指定は?」
「零時より前です」
「了解。再配達はなしだぞ」
「了解です」
俺は、アクセルを開けた。
橋の上を、千鳥の横を、すり抜ける。千鳥は、追ってこなかった。欄干の上で、足をぶらぶらさせながら、俺を見送った。
「いってらっしゃぁい。斎さまが、待ってるよぉ」
*
橋を渡りきって、三百メートル。
ミラーに、白い霧が、映った。
橋全体を、呑みこむように。
その霧の中で、白い光が、一度、閃いた。
俺は、カラスを止めた。
止めてしまった。
——行け。
頭の中で、声がする。凛の声だ。行ってください。待っていてください。
分かってる。分かってる。
でも。
霧の中で、また、光が閃く。二度。三度。
そのたびに、凛の体温が、下がっていく。
ミラーを、睨みつける。
時計塔を、見上げる。
零時まで、あと一時間。
俺は、ハンドルを、握りしめた。
*
——霧の中。
九条凛は、刀を構えたまま、動かなかった。
白い霧が、彼女の周りを、ゆっくりと渦巻いている。その霧の中に、無数の人影が、浮かんでは、消える。
千鳥の幻影だけでは、なかった。
「凛」
声がした。
霧の中から、一人の青年が、歩いてきた。白い詰襟の上衣。うなじで束ねた黒い髪。穏やかな、学校の先生のような顔。
「兄、さん」
凛の刀の切っ先が、ほんの少しだけ、揺れた。
「大きくなったね、凛」
青年は、微笑んだ。
三年前と、同じ顔で。
「雪代、大事にしてくれて、ありがとう。剣も、ずいぶん上手になった」
「……」
「もう、戦わなくていいんだよ、凛。こっちへおいで。紗月も、待ってる」
青年の後ろから、もう一つの人影が、現れた。肩までの髪を、耳にかける女。凛が、何度も、一緒にご飯を食べた人。姉のように、慕っていた人。
「凛ちゃん」
紗月が、微笑んだ。
「一緒に、行こう?」
凛の手が、震えた。
刀の切っ先が、下がる。
下がって。
下がって。
——止まった。
「……兄は」
凛が、低い声で言った。
「そんなに、優しい顔では、笑いません」
青年の笑顔が、ほんの一瞬、固まった。
「兄は、いつも、困ったような顔で、笑う人でした。私が稽古で泣くと、どうしていいか分からなくて、困った顔で、頭を撫でてくれる人でした」
凛は、刀を、構え直した。
「それに、紗月さんは、私のことを、『凛ちゃん』とは呼びません。『りんりん』と呼びます。私が、何度、やめてくださいと言っても」
凛の目が、霧の中の、二つの人影を、見据えた。
いや。
人影を、見ているのではなかった。
人影から、伸びている、何かを。
見えた。
細い、細い、糸のような線。
霧の中の、すべての幻影から、一本ずつ、伸びている。
無数の糸は、霧の中を、蜘蛛の巣のように張り巡らされて、そして、すべてが、一つの場所へ、集まっていた。
橋の、欄干の下。
ほつれだ。
幻影という力の、ほつれ。
力の源へ、繋がっている、糸。
「〈断〉」
凛は、刀を振った。
幻影ではなく。
糸を。
すべての糸が集まる、その一点を。
——ぷつん。
霧の中の、兄の姿が、紗月の姿が、無数の千鳥の姿が、一斉に、ノイズのように揺らいで、消えた。
「——ぎゃっ!?」
欄干の下から、悲鳴。
霧が、晴れていく。
橋の、欄干の裏側に、千鳥が、しがみついていた。包帯の腕から、新しい血が、流れている。その顔から、笑みは、完全に、消えていた。
「……なんで。なんで、分かったの」
「見えたので」
凛は、淡々と言った。
唇が、白かった。
吐く息が、霧よりも、白かった。
「あなたの幻影は、とても、よくできていました。でも、一つだけ、間違えていました」
「……なに」
「私の兄は、もう、私に、来いとは言いません」
凛の声が、かすかに、震えた。
「来いと言うなら、とっくに、言っています。三年間、一度も、言いに来なかった。それが、兄の、答えです」
千鳥は、凛を見上げた。
長い、沈黙。
それから、千鳥は、ふっと、笑った。
子供の笑い方じゃなかった。
何か、ひどく、疲れた人の、笑い方だった。
「……斎さま、ごめんね。ちどり、負けちゃった」
千鳥の指が、欄干から、離れた。
その小さな体が、運河の、薄紫色の水面へ、落ちていく。
「——っ!」
凛が、手を伸ばした。
届かなかった。
凛の体が、ぐらりと、傾いた。
膝が、崩れる。
手から、雪代が、滑り落ちる。
橋の上に、凛が、倒れた。
その向こうから、硝子の擦れる音が、近づいてくる。
霧と、刀の光に、引き寄せられた、虚獣の群れ。
凛は、指一本、動かせなかった。
目を、閉じた。
——待っていてください、と、言ったのに。
——追いつけそうに、ありません。
そのとき。
橋の上に、無音の、黒い影が、滑りこんできた。




