第十七話_再配達
「再配達はなしって言っただろうが」
俺は、カラスから飛び降りた。
凛の横に、膝をつく。冷たい。氷みたいだ。でも、息は、ある。
「……しの、みや……?」
「なんで戻ってきたかって? 時間指定、守れそうになかったからな。こっちから取りに来た」
「……ばか、です」
凛の唇が、かすかに動いた。
いつもの丁寧語じゃない。
素の、言葉だった。
「ばか……」
「知ってる」
俺は、立ち上がった。
橋の両側から、虚獣が、迫ってくる。犬型。猿型。それに、あの日、凛が百メートル先から斬った、巨大な蜘蛛型が、一体。
逃げ場は、ない。
カラスに凛を乗せて、走る。それだけの時間を、稼がなきゃいけない。
地面に落ちた雪代を、拾う。
いや。
雪代じゃない。
俺は、刀を左手に持ったまま、右手を、橋の、コンクリートの路面に、押し当てた。
——流れこんでくる。
ついさっき、この橋の上で、凛が、戦った動き。
踏みこみ。構え。霧の中の幻影と、対峙する、静かな足運び。迷い。震え。それでも、最後に、刀を振り抜いた、あの一歩。
その奥に、もっと、たくさんの、凛の動きが、見えた気がした。
この橋で戦ったのは、今日が初めてのはずだ。
でも、凛の足運びの中には、三年分の、何千回、何万回の稽古が、全部、染みこんでいた。
毎朝、一人で、兄の刀を振ってきた、三年間。
——これが、お前の、三年間か。
今日、二回目。
「〈追想〉」
体が、凛になった。
細くて、軽くて、でも、芯の通った、凛の体の使い方。
刀を構える。
犬型の虚獣が、飛びかかってくる。
踏みこむ。斬る。
〈断〉は使えない。凛の力は、凛のものだ。俺が借りられるのは、動きだけ。
だから、届く距離で、斬る。
刀身が、犬型の虚獣の核を、正確に、捉える。
ぱきん。
次。猿型。二体。
体が、勝手に、くるりと回る。凛の得意な、回転からの切り上げ。一体目の核を、下から。二体目の核を、返す刀で、上から。
ぱきん。ぱきん。
次。
蜘蛛型。
巨大な脚が、振り下ろされてくる。
——五秒。
体が、俺に、戻ってくる。
膝が、崩れる。刀を握る腕が、悲鳴を上げる。凛の動きは、きれいすぎた。無駄が、なさすぎた。俺の体は、ついていけない。
頭の奥で、ぷつり、と。
蜘蛛の脚が、迫る。
避けられない。
——そのとき。
遠くで、音が、聞こえた。
祭り囃子だった。
太鼓と、笛の音。陽気な、場違いな、商店街の夏祭りの音。
それが、どんどん、近づいてくる。
蜘蛛型の虚獣の、裂け目が、ぐるりと、音のほうへ向いた。
脚が、止まった。
橋の向こうから、ヘッドライトが、二つ、近づいてくる。
軽トラックだった。
荷台に、スピーカーを五つ、括りつけて。祭り囃子を、最大音量で撒き散らしながら。その後ろに、何百という、硝子の獣を、引き連れて。
運転席の窓から、鉄さんが、顔を出していた。
「坊主!! どけぇっ!!」
軽トラックが、橋の上を、突っ走ってくる。
俺は、凛を抱えて、橋の欄干に、身を寄せた。
軽トラックが、俺たちの横を、すり抜けていく。祭り囃子と、エンジン音と、それを追う、何百という虚獣の、硝子の擦れる音。
橋の上の虚獣たちも、蜘蛛型も、一斉に、その音の群れに、呑みこまれていった。
軽トラックは、橋を渡り、旧有明の方角へ——いや、違う。急ハンドルを切って、運河沿いの、細い道へ。
その先は、豊洲の、行き止まりの埠頭だ。
助手席の窓から、ミナが、身を乗り出して、叫んでいた。
「迅さぁん!! 凛さぁん!! がんばってっすぅぅぅぅ!!」
祭り囃子が、遠ざかっていく。
何百という虚獣の群れを、引き連れて。
橋の上に、静寂が、戻った。
「……鉄さん」
俺は、呟いた。
あの道は、旧お台場のほうを、回りこんでいく。
千夏が、死んだ場所の、すぐ近くを。
*
——旧お台場、海浜通り。
相良鉄心は、片手で、ハンドルを握っていた。
祭り囃子が、背後のスピーカーから、がんがんと響いている。ミラーの中を、硝子の獣の群れが、埋め尽くしている。
アクセルを、緩めない。
埠頭まで、あと、二キロ。
「鉄さん、あと二キロっす! 零課の人たち、埠頭で待機完了って!」
「おう」
助手席で、ミナが、無線機を握りしめて、叫んでいる。
鉄心は、前だけを見ていた。
前だけを、見ていようとした。
道の両側には、残影が、びっしりと立っている。半透明の人影たち。同じ数秒を、繰り返す、死者たち。
見るな。
前を見ろ。
そう、自分に、言い聞かせていた。
海の見える、マンションの前を、通り過ぎるまでは。
——そこに、いた。
マンションの、エントランスの前。
小さな、女の子だった。
浴衣を着ている。金魚の柄の、赤い浴衣。両手に、線香花火の束を握っている。
女の子は、海のほうを見上げて、ぴょん、と跳ねた。
それから、振り返って、誰かに向かって、大きく手を振った。
にっこりと、笑って。
跳ねる。振り返る。手を振る。笑う。
跳ねる。振り返る。手を振る。笑う。
鉄心の足が、アクセルから、浮きかけた。
「……鉄さん?」
ミナの声が、遠くに聞こえる。
女の子が、手を振っている。
誰に?
十五年前の、あの夜。あの子は、誰に、手を振っていたのか。
迎えに来るはずだった、父親に、だろうか。
高速を飛ばして、それでも、間に合わなかった、父親に。
——跳ねる。振り返る。手を振る。笑う。
鉄心は、アクセルを、踏みこんだ。
軽トラックが、マンションの前を、通り過ぎていく。
女の子の残影が、ミラーの中で、小さくなっていく。
跳ねる。振り返る。手を振る。笑う。
ずっと、ずっと、笑っている。
「……またな、千夏」
鉄心は、前を見たまま、呟いた。
声は、祭り囃子に、かき消された。
「今年の墓参りは、ちょっと遅れる。でも、行く。必ず、行くからな」
ミナが、何も言わずに、助手席から、鉄心の右腕の袖を、ぎゅっと、掴んだ。
鉄心は、何も言わなかった。
ただ、アクセルを、床まで、踏み抜いた。
*
凛を、カラスの後部シートに乗せた。
意識は、半分、戻ったり、遠のいたり、している。俺の腰に回した腕を、凛のコートのベルトで、俺のジャケットに、縛りつけた。落ちないように。
凛のコートのポケットに、銀色の保温ボトルが、入っていた。
蓋を開ける。まだ、少し、温かい。甘い匂い。ココアだ。
「九条。飲め」
「……ん……」
凛の唇に、ボトルの口を、当てる。
凛は、目を閉じたまま、こくり、と、ひと口、飲んだ。
もうひと口。
唇に、ほんの少しだけ、色が戻った。
「……あまい、です」
「ミナが作ったやつだろ。死ぬほど甘いの」
「……はい」
凛が、目を開けた。
ぼんやりとした目で、俺を見た。
「篠宮」
「なんだ」
「さっき、私の、動きを、使いましたか」
「……ああ」
「……どうでしたか」
俺は、少し考えた。
「きれいだった」
「…………」
「無駄がなくて、真っ直ぐで。……お前の三年間が、全部、入ってた」
凛は、何も言わなかった。
しばらくして、俺の背中に、額を、こつん、と、押しつけた。
「……ばか」
今日、二回目の、素の言葉だった。
俺は、カラスのエンジンをかけた。
無音で。
時計塔へ。
午後十一時十五分。
零時まで、あと、四十五分。
さっきの〈追想〉で、何が消えたのか。
確かめている暇は、やっぱり、なかった。
*
時計塔の、正面玄関。
かつては、研究所の、ガラス張りのエントランスだった場所。今は、すべてのガラスが砕け落ちて、青白い結晶が、床一面に、積もっている。
その、結晶の雪の中に。
一人の男が、立っていた。
白い、詰襟の上衣。うなじで束ねた黒い髪。腰に、黒い鞘の刀。
男は、カラスの無音の接近に、まるで最初から気づいていたかのように、ゆっくりと、こちらを振り返った。
穏やかな、学校の先生のような顔。
困ったような、笑い方。
「やあ」
九条斎は、言った。
「待っていたよ、扉くん」
俺の背中で、凛が、息を、止めた。




