第十八話_白鷺の理由
結晶の雪が、静かに、降っていた。
時計塔の、吹き抜けのエントランス。天井の、砕けたガラスの天窓から、青白い欠片が、ひらひらと、舞い落ちてくる。頂上で燃えるように輝く光が、その一枚一枚を、照らしている。
——ごぉん。ごぉん。ごぉん。
鐘の音は、ここでは、音というより、床と壁と空気そのものの、震えだった。
その中心に、九条斎が、立っていた。
「……兄さん」
凛が、カラスの後部シートから、降りた。
足が、ふらつく。俺は、とっさに、その腕を掴んだ。凛は、振り払わなかった。俺の手を借りて、まっすぐに、立った。
「久しぶりだね、凛」
斎は、微笑んだ。
困ったような、笑い方だった。
凛が、霧の中で言っていた、あの笑い方。
「千鳥は」
「運河に、落ちました」
「そうか」
斎は、少しだけ、目を伏せた。
「あの子は、泳げないんだ。……でも、たぶん、大丈夫。あの子は、しぶといから」
「……」
「剛は、零課に捕まったんだってね。腕を、やられたって」
「私が、斬りました」
「うん。聞いたよ。八百メートル先から、三回、同じ場所を、一秒以内に。……すごいね、凛。僕でも、できるかどうか、分からない」
斎は、心から、嬉しそうに言った。
妹の成長を喜ぶ、兄の顔で。
それが、余計に、ぞっとした。
「兄さん」
凛の声が、硬くなった。
「何を、しようとしているんですか」
「知っているだろう? 不破さんから、聞いたはずだ」
「兄さんの口から、聞きたいんです」
斎は、少しの間、黙っていた。
それから、天窓を、見上げた。
「三年前、僕は、この塔の、最上階にいた」
静かな声だった。
「調査隊を率いて、扉の様子を、見に来たんだ。紗月も、一緒だった。最上階の展望ラウンジから、裂界全体を、見下ろすことができた。紗月は、窓辺に立って、言ったんだ。『ねえ、斎。見て。きれいだよ』って」
斎の目が、どこか、遠くを見ていた。
「薄紫の空の下に、壊れた街が、どこまでも広がっていた。残影たちが、同じ数秒を、ずっと、繰り返していた。紗月は、それを、きれいだと言った。悲しいけど、きれいだ、って」
「……」
「その直後に、床が、崩れた」
結晶の雪が、斎の肩に、降り積もる。
「〈ずれ〉だった。予兆も、何もなかった。紗月は、窓辺から、まっすぐ下に、落ちていった。僕は、手を伸ばした。刀を振った。崩れる床の、ほつれを斬って、落下を止めようとした。……間に合わなかった」
斎は、自分の右手を、見下ろした。
「僕の〈凪〉は、動きを止める力だ。なのに、一番止めたかった動きを、止められなかった」
——ごぉん。
「隊員たちは、みんな、崩落に巻きこまれた。僕だけが、生き残った。気がついたら、瓦礫の中で、一人だった。それから、何日も、何日も、塔の中をさまよった」
斎は、天窓を見上げたまま、微笑んだ。
「そして、見つけたんだ。最上階の、東の窓辺で。紗月の、残影を」
「……」
「髪を耳にかけて、外を見て、振り返って、微笑む。『ねえ、斎。見て。きれいだよ』。何度も、何度も。三年間、ずっと」
斎は、凛を見た。
「凛。人は、死者を、忘れていく。どんなに大切だった人でも、声を忘れて、顔を忘れて、最後には、名前しか残らなくなる。でも、残響層は、忘れない。すべての動きを、すべての瞬間を、永遠に、覚えている」
「……」
「扉を開けば、すべての死者が、残影として、戻ってくる。誰も、誰かを、本当の意味で、失わなくなる。母さんも、父さんも、紗月も。みんな、そこにいる。いつでも、会いに行ける」
斎の声は、どこまでも、穏やかだった。
「それは、救いだと、思わないかい?」
凛は、答えなかった。
刀の柄を、握りしめていた。
その手が、震えていた。
寒さで、じゃなかった。
*
「思わねえよ」
俺は、言った。
斎の目が、初めて、俺のほうを向いた。
「扉くん」
「その呼び方、やめろ。篠宮迅だ。運び屋の」
「失礼。篠宮くん」
斎は、律儀に、言い直した。
「思わない、というのは?」
「残影ってのはさ」
俺は、ヘルメットを脱いで、カラスのシートに置いた。
「同じ五秒を、繰り返してるだけだろ」
「そうだね」
「俺の通り道に、女子高生の残影がいる。毎朝、スマホ見て、くすって笑ってる。十五年間、毎朝。同じとこで、同じ顔で」
「……」
「俺、毎朝そいつの横を通るけど、そいつが何で笑ってるのか、知らねえんだ。十五年間、一回も、知れてねえ。そいつは、俺に、何も話さない。俺も、そいつに、何も聞けない」
結晶の雪を、踏みしめる。
「それって、会えてるって言うのか?」
斎は、黙っていた。
「あんたの婚約者だって、そうだろ。三年間、毎日、同じことを言ってる。『きれいだよ』って。でも、あんたが何か言い返しても、返事はねえだろ。新しいことは、何も言わねえだろ」
「…………」
「俺はさ」
手のひらを、見下ろした。
「忘れてく側なんだよ。この力、使うたびに、何か消える。母さんの声も、鉄さんに拾われた日のことも、もう、ねえ。手帳に書いてあるだけで、俺の中には、どこにも、ねえ」
顔を上げる。
「それでも、鉄さんは、今日もコーンスープ投げてくれた。昨日のことも、今日のことも、新しく、くれた。……忘れたって、続いてくんだよ。生きてる限り」
斎を、まっすぐ、見た。
「あんたが欲しいのは、続かない世界だ。全部、止まった世界だ。凪いだ海みたいな。……俺は、そんなとこ、配達したくねえ」
沈黙。
鐘の音だけが、鳴り響いている。
斎は、長いこと、俺を見ていた。
それから、ふっと、息を吐くように、笑った。
困ったような、顔で。
「……君は、恭一さんに、よく似ているね」
「父さんを、知ってんのか」
「写真でしか、知らない。でも、零課の古い記録に、恭一さんの言葉が、残っていた。扉の研究を始めた理由を、聞かれて、こう答えたそうだ。『過去を見るためじゃない。過去から、ちゃんと、前に進むためです』って」
斎は、腰の刀に、手を掛けた。
黒い鞘の刀。
「僕は、その言葉が、ずっと、嫌いだった」
鞘から、刀身が、抜かれる。
黒い。夜を、そのまま、鍛えたような。
「時間がない。零時まで、あと、三十分を切った。扉は、もう、僕が何もしなくても、零時になれば、完全に開く。でも、君が地下の制御室に行けば、閉じられてしまうかもしれない」
斎の目が、静かに、俺を捉えた。
「だから、君を、ここで、止める。傷つけたくはないけれど」
「兄さん!」
凛が、俺の前に、出た。
雪代を、抜く。
白い刀身と、黒い刀身が、結晶の雪の中で、向かい合った。
「……凛」
「行かせません。篠宮は、私が、守ります」
「凛は、もう、ほとんど、体温が残っていないだろう? あと、一回か、二回だ」
「十分です」
「そうか」
斎は、少しだけ、悲しそうに、目を細めた。
「じゃあ、一回で、終わらせよう」




