第十九話_止まった世界で
凛が、動いた。
「〈断〉——!」
白い閃光。
距離を無視した、見えない斬撃。斎の、首筋の、ほつれへ。
斎は、動かなかった。
ただ、黒い刀を、ほんの少しだけ、傾けた。
——きん。
澄んだ、音がした。
凛の〈断〉が、斎の黒い刀身に、弾かれた。
「……っ!」
「凛のほつれの見方は、僕が教えたんだよ。だから、凛がどこを斬るか、僕には、全部、分かる」
斎の声は、優しかった。
「僕が、先に、そのほつれを、塞いでおけばいい」
凛の膝が、がくん、と落ちた。
唇が、白い。もう、紫ですらない。吐く息が、凍りつくように、白い。
「九条!」
俺は、走った。
凛を支えようと。斎と凛の間に、割りこもうと。
——体が、止まった。
いや、止まったんじゃない。
遅くなった。
足を前に出す。出したはずの足が、まるで、水飴の中を進むみたいに、ゆっくりとしか、動かない。腕を振る。腕が、重い。体中の、すべての勢いが、どこかに、吸いこまれていく。
〈淀み〉と似ている。でも、違う。〈淀み〉は、空間が重くなる。これは、俺の動き、そのものが、殺されている。
「〈凪〉」
斎が、静かに言った。
「僕の周り、十メートル。その中では、すべての動きが、勢いを失う。走ることも、殴ることも、斬ることも、できない。……ごめんね、篠宮くん」
斎が、ゆっくりと、こちらに歩いてくる。
斎の動きだけは、止まっていなかった。
普通に、歩いている。
凪いだ海の上を、ただ一人、歩くように。
「……なんで、あんただけ、動けんだよ」
口も、ゆっくりとしか、動かない。
「僕の力だからね。凪は、僕の動きだけは、止めないんだ。僕の動きのリズムだけは、凪の中を、通り抜けられる」
斎は、俺の目の前で、止まった。
黒い刀の、峰を、俺の首筋に、そっと当てる。
「眠ってもらうよ。傷つけはしない。目が覚めたら、もう、すべて、終わっている。君のお母さんにも、会えるよ」
——僕の動きだけは、止めない。
——僕の動きのリズムだけは、通り抜けられる。
頭の中で、斎の言葉が、反響した。
斎の、動き。
凛の刀。雪代。
あの、一番、底に。
凪いだ海の底に、強く、強く、光っていた、動き。
視線を、ゆっくりと、下に向ける。
凛の手から、雪代が、落ちかけていた。
結晶の雪の上に。
俺の、足元に。
——ここだ。
今日、三回目。
ルールの、最後の一回。
俺は、凪に殺されて、ほとんど動かない指を、それでも、雪代の柄へ、伸ばした。
一ミリ。
二ミリ。
指先が、白い柄に、触れた。
——流れこんでくる。
凛の、三年間の、何千回の素振り。その、ずっと、底。
冷たくて、透明で、底の見えない、凪いだ海。
その底に、沈んでいる、ひとつの動き。
今度は、はっきりと、見えた。
三年前の、この塔の、最上階。
崩れていく床。
窓辺から、まっすぐ下へ、落ちていく、肩までの髪の女。
その女に向かって、手を伸ばし、刀を振る、青年の、動き。
必死の。
必死の、必死の、一振り。
間に合わなかった、一振り。
それでも、今まで、俺が読んだ、どんな動きよりも、きれいで、強くて、迷いのない——
そして、その上に、うっすらと、重なっている、別の動き。
新しい。
一年に、一度ずつ。
夜中に、そっと、刀を鞘から抜いて、刀身を拭い、油を引いて、また、鞘に戻す。
誰かを起こさないように。
そっと、そっと。
——ああ。
こいつ。
毎年、来てたのか。
「〈追想〉」
体が、斎になった。
凪の中で。
俺の体だけが、凪を、通り抜けた。
雪代を、拾い上げる。その動きの勢いが、殺されない。斎の動きのリズムだから。凪が、自分の主の動きだと、勘違いしているから。
斎の目が、見開かれた。
俺の体が、踏みこむ。
三年前の、あの夜の、一振り。
落ちていく、誰かを、止めるための。
白い刀身が、斎の黒い刀を、下から、すくい上げるように、打った。
——がきぃんっ!
斎の手から、黒い刀が、弾き飛ばされた。
空中で、くるくると、回る。
斎が、一歩、後ずさる。
その顔が。
初めて、穏やかさを、失っていた。
「……それは」
斎の唇が、震えた。
「それは、あの日の」
四秒。
俺の体が、刀を返す。
切っ先が、斎の喉元で、ぴたりと、止まる。
五秒。
体が、俺に戻ってきた。
その瞬間、凪が、俺の体を、捉えた。
すべての勢いが、殺される。腕が、重くなる。切っ先が、斎の喉元で、震える。
でも、刀は、そこに、あった。
斎の喉の、数センチ手前に。
頭の奥で、ぷつり、と。
何かが、消えた。
今日、三回目。
*
弾き飛ばされた黒い刀が、結晶の雪の上に、落ちた。
からん、と、乾いた音。
斎は、動かなかった。
喉元の、白い切っ先を、見下ろしていた。
「……あの日、僕は、こう振ったんだね」
小さな、声だった。
「自分では、見たことがなかった。振ったことだけは、覚えていた。でも、どんな顔で、どんな形で振ったのか、ずっと、分からなかった」
斎の目が、俺の顔を、見ていた。
いや、違う。
俺の向こう側の、何かを、見ていた。
「間に合わなかったけど、ちゃんと、届こうとしていたんだね」
斎の目の端から、一筋、何かが、流れ落ちた。
結晶の雪に、紛れて、見えなくなった。
「……兄さん」
凛が、結晶の雪の上に、膝をついたまま、斎を、見上げていた。
「毎年、来ていたんですか」
斎の肩が、ぴくりと、揺れた。
「雪代の、手入れに。毎年。私の、誕生日の、夜に」
「…………」
「篠宮が、最初に雪代に触れたとき、言っていました。一番底にある動きが、三年前より、新しい気がするって。……ずっと、意味が、分かりませんでした」
凛の声が、震えた。
「なんで、来いって、言わなかったんですか。一度も。三年間、一度も。来てたなら、起こしてくれれば、よかったのに」
斎は、長いこと、黙っていた。
それから、困ったような、顔で、笑った。
「起こしたら、凛は、ついてくるだろう?」
「……」
「凛には、こっちに、来てほしくなかったんだ。……僕は、ずっと、矛盾していたんだよ。死者のいる世界を作ろうとしながら、凛にだけは、生きている世界にいてほしかった」
斎は、俺の切っ先から、そっと、一歩、退いた。
凪が、解けた。
俺の体に、勢いが、戻ってくる。
膝から、崩れ落ちた。斎の動きは、凛の動きより、さらに、俺の体には、合っていなかった。全身の筋肉が、ばらばらに、ちぎれそうだった。
「篠宮くん」
斎が、俺を見下ろした。
「行くといい。制御室は、この真下だ。エントランスの奥の、赤い非常階段を、ずっと、降りた先」
「……止めねえのかよ」
「止められなかったからね」
斎は、結晶の雪の上から、黒い刀を、拾い上げた。
鞘に、納める。
「扉は、零時に、自分で開く。僕がいなくても。それを、君が閉じられるかどうか。……見せてくれ。君のお父さんが、正しかったのかどうか」
——ごぉん。ごぉん。ごぉん。
鐘が、鳴り続けている。
エントランスの、壁の時計は、とっくに、止まっていた。
でも、俺には、分かった。
体の奥で、何かが、引っ張られている。
下へ。
地下へ。
扉へ。
呼ばれている。
湊が、言っていた。あの鐘、じんにいちゃんのこと、呼んでるみたい。
「……九条」
立ち上がろうとして、よろける。
凛が、俺の腕を、掴んだ。
冷たい手だった。氷みたいに。
それでも、凛は、俺を支えて、立ち上がらせた。
「行ってください」
「お前は」
「私は、ここにいます。兄さんと、話すことが、たくさんあるので」
凛は、斎を、ちらりと見た。
斎は、困ったような顔で、目を逸らした。
「それに」
凛は、俺を、まっすぐ見た。
「今度は、私が、待つ番です」
——待つ。
帰ってこないものを待つのは、疲れた、と言った凛が。
「……時間指定は?」
「ありません」
凛は、言った。
「いつでもいいです。生きて、戻ってくれば」
千代婆さんと、同じことを、言った。
俺は、凛の手から、雪代を、そっと受け取った。
「これ、借りてく」
「……なぜですか」
「なんとなく。……お守り」
凛は、何か言いたそうに、唇を動かした。
結局、何も言わずに、小さく、うなずいた。
それから、コートのポケットから、銀色の保温ボトルを、取り出した。
俺の手に、押しつけた。
「残り、全部、どうぞ」
「お前のだろ」
「甘いものは、少しだけ、いいので」
前にも、聞いた言葉だった。
灯台島の、ストーブの前で。
——覚えている。
まだ、覚えている。
俺は、ボトルを、ジャケットの内ポケットに、しまった。
手帳の、隣に。
それから、エントランスの奥の、赤い非常階段へ、歩き出した。
振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん、行けなくなる気がした。
背中で、凛の声が、聞こえた。
「篠宮」
立ち止まる。
振り返らない。
「……迅」
初めて、名前を、呼ばれた。
「待ってます」
俺は、片手を、上げた。
それから、赤い光の中へ、階段を、降りていった。




