第二十話_赤い廊下
赤い光だった。
非常階段を、降りる。一段。また一段。壁に埋めこまれた非常灯が、十五年間、誰に見られることもなく、赤く、灯り続けている。
何階分、降りたのか、分からなくなった。
階段が、終わった。
その先に、廊下が、続いていた。
長い、長い、廊下。床にはリノリウム。壁には、色褪せた掲示物。〈第三実験棟 関係者以外立入禁止〉。〈実験中は私語厳禁〉。〈火の元確認〉。
赤い、光。
——知っている。
俺は、この廊下を、知っている。
足が、止まった。
廊下の両側に、残影が、いた。
白衣の人たち。警備服の人たち。みんな、同じ方向へ、走っていた。俺が降りてきた階段のほうへ。廊下の奥から、こちらへ。必死の顔で。振り返りながら。誰かの名前を、叫びながら。
たくさんの、足音。
聞こえないはずの、足音が、聞こえる気がした。
同じ方向へ、流れていく。
俺は、その流れに、逆らって、歩いた。
廊下の、奥へ。
残影たちが、俺の体を、すり抜けていく。冷たい。一人、また一人。
その中に、ひとつだけ、小さな影があった。
走っている。
大人たちの足の間を、転びそうになりながら。半透明の、四歳くらいの、男の子。
手に、何かを、握りしめている。
その子は、廊下の途中で、一度だけ、振り返った。
それから、また、前を向いて、走っていった。
俺の横を、すり抜けて。
——あれは。
俺は、振り返らなかった。
振り返らなくても、分かった。
あの子は、生きている。生きて、階段を上がって、外に出た。だから、あれは残影じゃない。ただ、この廊下が覚えている、動きの残響だ。俺の〈追想〉が、勝手に、拾い上げているだけだ。
たぶん。
廊下の、一番、奥。
巨大な、鉄の扉が、あった。
高さは、三メートルくらい。表面には、複雑な紋様のような回路が、びっしりと刻まれている。その隙間から、白い光が、漏れていた。脈打つように。鐘の音に、合わせて。
そして、その扉の前に。
一人の男が、立っていた。
白衣。痩せた背中。
男は、扉の前で、こちらを振り返った。
眼鏡の、片方のレンズに、ひびが入っていた。
その向こうの目が、笑っているのか、泣いているのか。
十九歳になった今の俺にも、やっぱり、分からなかった。
男の唇が、動いた。
何か、言っている。
声は、聞こえない。
それから、男は、扉のほうへ向き直って、その脇の、小さな、制御室の入口へ、消えた。
そして、また、扉の前に、現れた。
振り返る。何かを、言う。制御室へ、消える。
振り返る。何かを、言う。制御室へ、消える。
十五年間。
ずっと。
「……父さん」
声が、出た。
父さんの残影は、俺のほうを、見ていた。
でも、見ているのは、俺じゃなかった。十五年前の、四歳の俺だった。廊下を走っていく、小さな背中に向かって、何かを、言い続けていた。
*
午後十一時四十八分。
時計は見ていない。でも、分かった。体の奥の、引っ張られる感覚が、どんどん、強くなっている。扉の隙間から漏れる光が、どんどん、太くなっている。
あと、十二分。
俺は、扉の前の床に、座りこんだ。
ジャケットの内ポケットから、黒い手帳を、取り出した。
鉛筆を、握る。
——分かっていた。
この扉を閉じるのは、たぶん、〈追想〉の五秒じゃ、済まない。
父さんは、閉じた。でも、出てこなかった。
俺の力は、残響層に、直接、触れる力だと、不破課長は言った。だったら、扉を閉じるとき、俺は、残響層の、一番深いところに、手を突っこむことになる。
そのとき、何が起きるか。
たぶん、たくさん、消える。
いつもの、ひとつ、じゃない。
だから、書く。
消えたら困るものを、全部。
鉛筆が、紙の上を、走る。
〈篠宮迅。十九歳。相良運送の運び屋。カラスに乗ってる。〉
〈相良鉄心。鉄さん。親父みたいなもん。コーンスープをくれる。左腕にひび。早く治れ。〉
〈日向美奈。ミナ。整備士。カレーは甘口。祭り囃子のセンスは最悪。最高。〉
〈千代婆さん。湊。灯台島。待ってる。毎週配達。時間指定は守る。〉
〈不破課長。飴。たぶん、いい人。〉
手が、止まった。
次のページに、書く。
一番、大きな字で。
〈九条凛。〉
鉛筆の先が、紙に、食いこむ。
〈相棒。信じていい。〉
〈刀は雪代。兄貴は生きてる。困ったような顔で笑うやつ。〉
〈ココアが好き。死ぬほど甘いのが好き。本人は隠してるつもり。〉
〈怒ると「ばか」って言う。〉
〈俺のことを、迅って呼んだ。〉
〈待ってるって言った。〉
少し、考えて。
最後に、一行。
〈帰れ。〉
手帳を、閉じた。
内ポケットに、しまう。銀色の保温ボトルの、隣に。
立ち上がる。
扉の前に、立つ。
父さんの残影が、また、振り返った。
何かを、言っている。
俺は、手袋を、外した。
鉄の扉に、手のひらを、押し当てた。
——流れこんでくる。
冷たい。熱い。重い。軽い。
十五年分の、いや、もっとずっと昔からの、無数の、動き。
その中に、ひとつだけ、はっきりと、浮かび上がってくる動きがあった。
十五年前の、八月十五日。
午後十一時五十九分。
この扉の前で、振り返った、男の動き。
今日、四回目。
一日三回まで。
自分で決めた、ルール。
——ごめんな、鉄さん。今日は、時間外配達だ。
「〈追想〉」
体が、父さんになった。
振り返る。
廊下の向こう。走っていく、小さな背中。
この体は、その背中を、見ている。
見て、いる。
そして、俺の唇が、動いた。
父さんの唇の動きを、なぞって。
俺の声で。
父さんの、言葉を。
「——迅、ありがとう」
俺の口から、俺の声で、知らない言葉が、こぼれた。
「生まれてきてくれて、ありがとう。……忘れて、いいからな」
——ああ。
これだったのか。
十五年間、思い出せなかった言葉。口の形だけが見えて、声が届かなかった言葉。
忘れていいからな。
父さんは、そう言ったのか。
鍵を、俺に渡して。たぶん、自分が戻れないことを、知っていて。
その上で、忘れていいって。
体が、くるりと、制御室のほうを向く。
父さんの、最後の数秒の動き。
制御室の入口へ、歩き出す。
五秒。
体が、俺に、戻ってきた。
制御室の、入口の前で。
頬が、濡れていた。
拭わなかった。
頭の奥で、ぷつり、と。
何かが、消えた。
何が消えたのか、確かめなかった。
制御室に、入った。
*
小さな部屋だった。
壁一面に、計器と、モニターと、スイッチ。すべて、十五年前の埃をかぶって、沈黙している。
正面の壁だけが、ガラス張りになっていた。
その向こうに、扉の、本体があった。
巨大な、球体だった。
直径は、十メートルくらい。表面は、薄紫色の光で満たされていて、その光が、渦を巻いている。渦の中心に、裂け目があった。虚獣の顔にあるのと同じ、黒い裂け目。それが、ゆっくりと、ゆっくりと、口を開けるように、広がっていく。
鐘の音は、その球体が、震える音だった。
制御卓の前に、椅子が一脚、あった。
背もたれに、白衣が、かかっていた。
それだけだった。
他には、何もなかった。
誰も、いなかった。
制御卓の中央に、小さな、鍵穴があった。
真鍮色の。持ち手の形に合わせた、変な形の、鍵穴。
俺は、カラスのキーホルダーから、鍵を、外した。
十五年間、ずっと、持っていた鍵。
なくすなよ、と言われた鍵。
鍵穴に、差しこむ。
ぴたりと、入った。
左に、二回。
止める。
右に、一回。
そして、押しこむ。
——がちゃん。
制御卓の、すべての計器に、一斉に、光が灯った。
モニターに、文字が流れる。〈手動閉鎖シーケンス 起動〉。〈界面接続者の認証を要求〉。〈接続面に、手を〉。
制御卓の、鍵穴の横に、手のひらの形をした、金属のプレートがあった。
その表面に、うっすらと、手の跡が、残っていた。
細くて、指の長い、研究者の手の跡。
——父さんは、ここに、手を置いたのか。
そして、扉を閉じた。
でも、完全には、閉じられなかった。
父さんは、響者じゃなかったから。残響層に、直接、触れる力は、なかったから。
だから、半分しか、閉じられなかった。
そして、残りの半分を、閉じるために。
父さんは、俺を、ここに連れてきたのか。
零時の夜に。
扉の、一番、近くに。
——鍵は、お前さん自身や。
鬼塚の言葉。
——迅、ありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう。
父さんの言葉。
どっちが本当なのか、分からなかった。
たぶん、両方、本当なんだろう。
俺は、金属のプレートに、手のひらを、重ねた。
父さんの手の跡の、上に。




