第二十一話_扉の前で
——世界が、流れこんできた。
動き。
動き。動き。動き。
無限の、動き。
誰かが歩いた。誰かが走った。誰かが転んだ。誰かが誰かを抱きしめた。誰かが泣いた。誰かが笑った。誰かが生まれた。誰かが死んだ。
千年前の。百年前の。十五年前の。昨日の。
すべての、動きが。
俺の中を、通り抜けていく。
体が、裂けそうだった。
頭が、割れそうだった。
その中で。
ひとつの動きが、見えた。
紺色のセーラー服の、女の子。
崩れた高架の、柱の手前で、スマートフォンを見ている。
画面に、映っているのは。
子猫だった。
段ボール箱の中で、自分のしっぽを追いかけて、くるくる回って、ころんと転ぶ、子猫の動画。
友達から、送られてきた。〈見て! うちの子!〉。
女の子は、それを見て、くすっと、笑った。
次の一歩を、踏み出す前に。
——なんだ。
——猫かよ。
笑いそうになった。
十五年間、毎朝、横を通って、ずっと知りたかったことが。
こんなに、くだらなくて。
こんなに、かわいくて。
——そっか。よかったな。
その動きも、流れていく。
次々と。
鉄さんの、娘。赤い浴衣の、女の子が、花火を見上げて、跳ねて、振り返って、手を振る。
斎の、婚約者。肩までの髪を耳にかけて、窓の外を見て、振り返って、微笑む。
死んだ人たちの、最後の数秒。
生きている人たちの、今、この瞬間。
全部が、俺の中を、流れていく。
そして。
流れていくたびに、俺の中から、何かが、引き剥がされていく。
虚獣が、記憶を食べるのと、同じだ。
残響層は、形を持たない動きの海だ。形を持った記憶に、引き寄せられる。俺が、扉を閉じようとすればするほど、残響層は、俺の中の記憶に、しがみついてくる。
強い記憶から、先に。
一番、強く、刻まれた記憶から。
——やめろ。
引き剥がされていく。
霧の中で、刀を振る、白い横顔。
カラスの後部シートで、俺の腰に、がっちりと回された腕。
ストーブの前で、毛布にくるまって、震えていた、小さな肩。
——やめろ。
八百メートル先の、クレーンの上で、一度だけ光った、白い刀身。
背中に背負った、刀一本分くらいしかない、軽さ。
冷めた甘酒の、湯呑み。
——やめろ、それは。
ばか、と言った、素の声。
迅、と呼んだ、声。
待ってます、と言った、声。
——それだけは。
引き剥がされていく。
指の間から、砂みたいに、こぼれていく。
掴もうとする。掴めない。
誰の顔だったのか。
誰の声だったのか。
分からなくなっていく。
——ごぉん。
鐘の音が、した。
最後の、ひとつ。
ガラスの向こうで、球体の裂け目が、ゆっくりと、ゆっくりと、閉じていく。
薄紫色の光が、渦の中心に、吸いこまれていく。
午前零時。
鐘の音が、止んだ。
静寂。
制御卓の計器の光が、一つ、また一つ、消えていく。
モニターに、最後の文字が、流れた。
〈閉鎖完了〉
俺の手のひらが、金属のプレートから、滑り落ちた。
体が、崩れる。
床に、倒れる。
天井が、見えた。
埃をかぶった、蛍光灯。
——なにか。
なにか、大事なものが、あった気がする。
誰かに、何かを、約束した気がする。
思い出せない。
震える指で、ジャケットの内ポケットを、探った。
黒い手帳。
それと、もう一つ。
銀色の、保温ボトル。
なんで、こんなものを、持っているんだろう。
蓋を、開けた。
甘い、匂い。
ココアだった。
冷めていた。
ひと口、飲んだ。
ものすごく、甘かった。
——なんで。
なんで、こんなに、泣きたくなるんだろう。
手帳を、開いた。
最後のページに、鉛筆で、何か、書こうとした。
指が、うまく、動かなかった。
それでも、書いた。
〈あいつが笑ってたの、猫の動画だった〉
あいつって、誰だっけ。
分からない。
でも、書いておかなきゃいけない気がした。
手帳を、胸の上に、置いた。
目を、閉じた。
遠くで、階段を、駆け降りてくる足音が、聞こえた気がした。
軽い、足音だった。
刀一本分くらいしか、重さがないみたいな。
*
——時計塔、エントランス。
鐘の音が、止んだ瞬間、九条凛は、顔を上げた。
天窓から降っていた結晶の雪が、空中で、止まっていた。
それから、ゆっくりと、上へ、昇っていった。
頂上で燃えるように輝いていた光が、静かに、静かに、弱まっていく。
「……閉じたね」
隣で、斎が、呟いた。
二人は、エントランスの、崩れたベンチに、並んで座っていた。
二十分間、ほとんど、何も話さなかった。
話すことは、たくさんあったはずなのに。
「境界線も、たぶん、元の壁のあたりまで、戻る。完全には閉じていないから、裂界そのものは、消えないけど」
「……兄さんは、これから、どうするんですか」
斎は、天窓を見上げた。
昇っていく、結晶の雪を。
「まだ、紗月のそばに、いたいんだ」
「……」
「分かっているよ。あれは、紗月じゃない。同じ五秒を、繰り返しているだけだ。篠宮くんに、言われた通りだ。……でも、まだ、離れられない」
斎は、立ち上がった。
黒い鞘の刀を、腰に差し直す。
「ごめん、凛」
「謝らないでください」
凛も、立ち上がった。
ふらつく足で。それでも、まっすぐに。
「兄さんが、今日、ここで、篠宮を通してくれたこと。それだけで、十分です。……今日のところは」
斎は、困ったように、笑った。
「凛は、強くなったね」
「兄さんが、毎年、雪代を手入れしてくれていたので」
凛は、少しだけ、目を逸らした。
「……来年の、誕生日は」
「行くよ」
斎は、言った。
「今度は、起こしてあげる」
凛の唇が、かすかに、震えた。
何か言おうとして、言葉にならなかった。
斎は、凛の頭に、そっと、手を置いた。
困ったような、顔で。
三年前と、同じように。
それから、手を離して、エントランスの、外へ、歩き出した。
薄紫色の空の下へ。
裂界の、奥へ。
一度だけ、振り返った。
「篠宮くんに、伝えて。今度は、僕のほうから、会いに行くって」
「……伝えます」
「それと」
斎は、少しだけ、言い淀んだ。
「たぶん、彼は、たくさん、忘れてしまっていると思う。扉を閉じるっていうのは、そういうことだから。……凛のことも」
凛は、答えなかった。
斎は、それ以上、何も言わずに、背を向けた。
結晶の雪が、昇っていく空の下を、白い詰襟の背中が、遠ざかっていく。
凛は、それを、最後まで、見送らなかった。
振り返って、走り出した。
エントランスの奥の、赤い非常階段へ。
ふらつく足で。
凍えた指で、手すりを掴んで。
何度も、転びそうになりながら。
一段飛ばしで、駆け降りていった。
——待ってます、と、言ったのに。
——待っていられなかった。
——今度は、私が、迎えに行く番だから。




