エピローグ はじめまして、じゃない
目が覚めたら、知らない天井だった。
いや、たぶん、知らない天井だった。最近の俺にとって、「知らない」と「忘れた」の区別は、ちょっと難しい。
白い天井。消毒液の匂い。窓の外に、青い空。
青い。
薄紫じゃない。
「——迅さぁぁぁぁん!!」
視界の端から、何かが飛びこんできた。油まみれのつなぎ。頭にゴーグル。顔が、涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃになっている。
「起きたっす! 起きたっすよ鉄さん!! 迅さんが起きたっす!!」
「……声、でけえ」
「でかくていいんす! ここ、裂界じゃないんで!」
知っている顔だった。
知っている、はずだった。
名前が、すぐには、出てこなかった。
「……ミナ?」
「そうっす! ミナっす! 日向美奈っす! 甘口カレーの!」
甘口カレー。
知らない。でも、なんとなく、その言葉の響きに、口の中が甘くなった気がした。
「坊主」
病室の入口に、でかい男が立っていた。坊主頭。白い無精ひげ。左腕を、三角巾で吊っている。
鉄さん。
これは、すぐに、分かった。
「……鉄さん」
「おう」
鉄さんは、それだけ言って、ベッドの横の椅子に、どかっと座った。
それから、俺の頭を、右手で、ぐしゃっと撫でた。
——この手は、知っている。
理由は分からない。でも、知っている。
「何日、寝てた」
「十二日だ」
「……長えな」
「長えよ。馬鹿野郎」
鉄さんは、それ以上、何も言わなかった。
ミナが、まだ泣きながら、鉄さんの隣で、何度も、何度も、鼻をかんでいた。
*
それから、いろいろなことを、聞いた。
満潮の夜、零時に、鐘の音が止まったこと。
壁の外に溢れ出した裂界の境界線が、潮が引くみたいに、元の壁の位置まで、戻っていったこと。
虚獣の群れは、豊洲の埠頭に誘いこまれて、零課の一斉攻撃で、ほとんどが、砕けたこと。
「祭り囃子作戦、って呼ばれてるっす。零課の中で。ウチが名付けたっす」
「名前、そのまんまだな」
「分かりやすさ重視っす!」
死者は、出た。でも、思っていたよりも、ずっと、少なかったらしい。避難が間に合ったのは、虚獣を引きつけた軽トラックの、おかげだって。
鬼塚剛は、まだ、零課の地下で、目を開けたまま、眠り続けている。楽しかった喧嘩の夢を、見続けて。
千鳥は、運河から、見つからなかった。
九条斎は、裂界の奥に、消えた。
「九条斎……」
その名前を、口の中で、転がしてみた。
知っている名前だった。
知っている、はず、だった。
誰だっけ。
ミナと鉄さんが、ちらりと、顔を見合わせた。
*
夜。病室に、一人になってから、手帳を開いた。
ページをめくる。一つずつ、頭の中と、照らし合わせる。
いつもの、作業。
ただ、今回は、いつもと、量が違った。
印をつけるページが、多すぎた。
この一か月くらいの記憶が、ほとんど、すっぽりと、抜けていた。それより前の記憶も、ところどころ、虫食いみたいに、穴が開いている。
零課。不破課長。飴。
書いてある。断片的に、思い出せる。
鬼塚。千鳥。
書いてある。顔は、ぼんやりとしか、浮かばない。
時計塔。扉。父さん。
書いてある。
——〈迅、ありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう。忘れて、いいからな〉
俺の字で、書いてある。いつ書いたんだろう。分からない。でも、この言葉を読んだとき、胸の奥が、じんわりと、熱くなった。
それから。
一番、大きな字で、書かれたページ。
〈九条凛。〉
指が、止まった。
〈相棒。信じていい。〉
〈刀は雪代。兄貴は生きてる。困ったような顔で笑うやつ。〉
〈ココアが好き。死ぬほど甘いのが好き。本人は隠してるつもり。〉
〈怒ると「ばか」って言う。〉
〈俺のことを、迅って呼んだ。〉
〈待ってるって言った。〉
〈帰れ。〉
読む。
もう一度、読む。
九条凛。
相棒。
——分からない。
顔が、浮かばない。声が、浮かばない。
何も、ない。
俺の中の、どこにも、ない。
なのに。
このページの字は、他のどのページよりも、強く、紙に、食いこんでいた。
鉛筆の先が、何度も、紙を、破りそうになっていた。
——俺は、この人を、忘れたくなかったんだ。
それだけは、分かった。
字が、教えてくれた。
俺は、そのページに、印を、つけなかった。
つけられなかった。
最後のページを、めくった。
〈あいつが笑ってたの、猫の動画だった〉
震えた字だった。
あいつって、誰だろう。
これも、分からなかった。
*
退院したのは、それから、五日後だった。
相良運送の事務所は、ミナの手で、すっかり修理されていた。鬼塚にぶち抜かれたシャッターは、新しいものに替わっていて、粉々になった柱の代わりに、太い鉄骨が、一本、立っていた。
「重ね拳対策っす! 三回殴られても大丈夫なように、ほつれ、全部埋めたっす!」
「ほつれって何だよ」
「……あっ」
ミナが、一瞬だけ、悲しそうな顔をした。
それから、すぐに、笑った。
「なんでもないっす! ウチの、企業秘密っす!」
その日の朝、事務所に戻る途中、俺は、自販機の前で、足を止めていた。
理由は、分からなかった。
ただ、気がついたら、自販機のボタンを、押していた。
ホットココア。
二本。
一本は、自分の分。
もう一本は、誰の分なのか、自分でも、分からなかった。
ジャケットのポケットに、二本の缶を突っこんだまま、事務所の前に、着いた。
そこに、誰かが、立っていた。
女の子だった。
俺と同じくらいか、少し下。黒い髪を、背中まで伸ばしている。白いシャツに、紺色のカーディガン。
腰に、白い鞘の、刀。
彼女は、事務所の前で、まっすぐに、立っていた。
俺を、待っていたみたいに。
目が、合った。
——知らない顔だった。
知らない、はずの、顔だった。
なのに、心臓が、一回、強く、跳ねた。
「……あの」
声をかけたのは、俺のほうだった。
「相良運送に、何か、ご用ですか」
女の子は、俺の顔を、じっと、見ていた。
その目は、真っ直ぐで、融通が利かなそうで。
でも、ほんの少しだけ、揺れていた。
「……はい」
女の子は、言った。
静かな、声だった。
「篠宮迅さんに、会いに来ました」
「俺、ですけど」
「知っています」
女の子は、少しだけ、目を伏せた。
それから、顔を上げた。
「私のこと、分かりますか」
俺は、答えられなかった。
嘘は、つきたくなかった。
ジャケットの内ポケットに、手を入れた。黒い手帳の、硬い表紙に、指が触れる。
一番、大きな字で、書かれたページ。
刀は、雪代。
白い、鞘の。
「……九条、凛?」
女の子の肩が、ぴくりと、揺れた。
「……手帳に、書いてあった。あんたの名前。相棒だって。信じていいって」
「……」
「ごめん。書いてあるのは、分かる。でも、覚えて、ない。何も」
正直に、言った。
女の子は——九条凛は、何も、言わなかった。
長い、沈黙。
風が、吹いた。
凛の黒い髪が、揺れた。
それから、凛は、小さく、息を吸った。
「では」
凛は、背筋を、まっすぐに、伸ばした。
「もう一度、自己紹介をします」
「……え?」
「九条凛です。十七歳。内閣府対裂界特務局、第零課所属。刀は、雪代です」
淡々とした、声だった。
まるで、何かの、報告みたいに。
「あなたの、相棒です」
凛は、言った。
「はじめまして——」
そこで、凛の声が、止まった。
唇が、震えた。
言葉が、喉の奥で、詰まったみたいだった。
凛は、ぎゅっと、目を閉じた。
それから、開いた。
「——じゃ、ないです」
少しだけ、崩れた声だった。
「はじめましてじゃ、ないです。あなたが覚えていなくても。私は、全部、覚えているので」
凛の目の端に、何かが、光っていた。
それを、凛は、拭わなかった。
「だから、はじめまして、とは、言いません」
——ああ。
なんでだろう。
何も、思い出せないのに。
この人が、泣きそうな顔をしているのが、たまらなく、嫌だった。
俺は、ジャケットのポケットに、手を突っこんだ。
指先に、温かい缶が、触れた。
二本。
一本を、取り出した。
凛の前に、差し出した。
「……これ」
凛が、目を、見開いた。
「ホットココア。……なんか、今朝、気づいたら、二本買ってて。一本、誰の分か、分かんなかったんだけど」
自分でも、何を言っているのか、よく分からなかった。
「たぶん、あんたの分だった」
凛は、缶を、見下ろした。
長いこと、見下ろしていた。
それから、両手で、そっと、受け取った。
缶の温かさを、確かめるように、両手で、包みこんだ。
「……なぜ、私がココアを好きだと」
「手帳に、書いてあった。死ぬほど甘いのが好きって。本人は隠してるつもりだって」
「……隠して、いました」
「バレバレだったんじゃねえの」
「…………」
凛は、缶のプルタブを、開けた。
湯気が、立ち上る。
ひと口、飲んだ。
それから。
凛が、笑った。
困ったような、顔じゃなかった。
融通の利かない、真っ直ぐな顔でもなかった。
目の端に、涙を光らせたまま、口元を、ふわりと、ほころばせて。
——たぶん。
たぶん、俺は、この顔を、初めて見た。
手帳には、書いていなかったから。
「……甘いです」
凛は、言った。
「ものすごく、甘いです」
「そりゃ、ココアだからな」
「ばか」
凛は、小さく、言った。
その、ひと言を、聞いた瞬間。
胸の奥で、何かが、かちり、と、鳴った気がした。
鍵が、回るみたいに。
左に二回。右に一回。押しこむ。
思い出したわけじゃない。何も、戻ってはいない。
でも。
——知ってる。
この声を、俺の耳は、知っている。
*
午前五時。裂界、旧豊洲エリア。
俺は、カラスで、音もなく、走っていた。
荷台には、段ボールが四つ。米十キロ。缶詰。乾電池。それと、湊のための、漫画雑誌の、最新号。
時間指定、午前五時半。灯台島まで。
後ろには、凛が乗っていた。
腕を、がっちりと、俺の腰に回して。
『……一つ、聞いてもいいですか』
インカムから、凛の声。
『なんだよ』
『私のこと、少しは、思い出しましたか』
『全然』
『……そうですか』
『でも、お前の掴まり方は、知ってる気がする』
『……どういう意味ですか』
『最初は、裾をちょっとつまんで、それで、急加速したら、慌ててがっちり掴まるタイプだろ』
『…………』
『違った?』
『違いません』
インカムの向こうで、凛が、少しだけ、笑った気がした。
崩れた高架の下を、くぐる。
ひび割れたコンクリートの柱の陰に、女の子がいた。
紺色の、セーラー服。片手に、スマートフォン。半透明で、輪郭が、ちらちらと揺れている。
三歩歩いて、立ち止まって、スマートフォンを見て、くすっと、笑う。
毎朝、同じように。
——〈あいつが笑ってたの、猫の動画だった〉
手帳の、最後のページ。
震えた字。
俺は、少しだけ、アクセルを、緩めた。
女の子の、横を、通り過ぎる。
なんでだろう。
その笑顔を見ていたら、俺も、ちょっとだけ、笑いたくなった。
——猫、かわいかったな。
そう、心の中で、話しかけた。
女の子は、もちろん、何も答えなかった。
ただ、くすっと、笑っていた。
十五年前と、同じように。
そして、たぶん、明日も、同じように。
俺は、アクセルを、開けた。
前へ。
灯台島の、赤い光が、三回点滅して、一回、消えた。
異常なし、の合図。
「じんにいちゃん! りんねえちゃん!」
遠くで、小さな影が、手を振っていた。
声が、でかかった。
*
——同じ頃。零課庁舎、最上階。
不破宗一郎は、窓際の机で、黄ばんだファイルを、閉じようとしていた。
〈国立界面物理研究所 第三実験棟 人員名簿〉
その最後のページに、一枚の書類が、挟まっていた。
名簿ではなかった。
実験記録の、一部だった。
十五年前の、八月十四日。零時の、前日の日付。
〈界面接続適合試験 被験者番号〇〇一〉
〈氏名:篠宮迅(四歳)〉
〈適合率:測定上限超過〉
〈備考:被験者は、扉の〈鍵〉ではない。扉そのものである。〉
不破は、長いこと、その一行を、見つめていた。
それから、ファイルを閉じ、机の引き出しの、一番奥に、しまった。
鍵を、かけた。
窓の外。東の空。
元の位置に戻った壁の向こうで、薄紫色の光が、静かに、脈打っていた。
十五年前と、同じ速さで。
今は、まだ。
「……恭一さん。あの子は、ちゃんと、帰ってきたよ」
不破は、口の中の飴を、からころと、転がした。
「でも、たぶん、これからが、本番だねえ」
返事をする者は、いなかった。




