プロローグ 〇〇一番
霞が関、地下四十二メートル。
地図には存在しない階層がある。かつて首都直下地震に備えて掘られた、政府機能のための退避施設。完成から二十年、一度も使われることのなかったその空間は、今、別の目的のために、静かに息をしていた。
直径三十メートルの、円形のホール。
その中心に、それはあった。
鋼鉄の骨組みで編まれた、巨大な球体の籠。内側には何もない。まだ、何も。籠の表面には、数えきれないほどのケーブルが絡みつき、床を這い、壁の制御盤へと繋がっている。籠の周囲を、白衣の研究者たちが、無言で行き来していた。
〈写し扉〉。
時計塔の地下にある本物の〈扉〉の、設計図から起こした、複製品。
「進捗は」
ホールを見下ろす制御室で、男が言った。
仕立てのいい黒いスーツ。細い銀縁の眼鏡。四十五歳という年齢にしては、髪が、異様に白い。まるで、一人だけ、他の人間より早く時間が流れているかのように。
鷹宮玲司は、手元のタブレットから、目を上げなかった。
「構造体は九十八パーセント。制御系の調整は、残り二週間です」
隣に立つ研究主任が、緊張した声で答えた。
「ただ、何度も申し上げているとおり、問題は」
「接続体ですね」
「……はい。〈界面〉に直接接続できる人間がいなければ、この装置は、ただの鉄の籠です。本物の扉も、篠宮恭一主任が、四歳の息子を接続体として使ったからこそ、開いたのであって」
「知っています」
鷹宮は、タブレットの画面を、指で滑らせた。
黄ばんだ書類の、スキャン画像。
〈界面接続適合試験 被験者番号〇〇一〉
〈氏名:篠宮迅(四歳)〉
〈適合率:測定上限超過〉
〈備考:被験者は、扉の〈鍵〉ではない。扉そのものである。〉
「この記録を、不破課長は、十五年間、私に隠していました」
鷹宮の声には、怒りも、失望もなかった。ただ、事実を読み上げる、平坦な響き。
「先月の〈満潮〉で、〇〇一番は、本物の扉を、たった一人で閉じた。十五年前、篠宮恭一が命と引き換えに半分しか閉じられなかったものを、です。これは、彼が、扉を開くことも、閉じることも、自在にできるという証明です」
「では……」
「〇〇一番を、確保します。合法的に」
鷹宮は、タブレットを、研究主任に手渡した。
「零課は解体します。不破課長には、記録隠匿の責任を取って、退いてもらう。零課の資産——人員、装備、情報——は、すべて第一課に統合する。そうすれば、〇〇一番の身柄は、自動的に、私の管轄に入ります」
「あの、九条凛は。零課の、あの子は、〇〇一番と、親しいと聞いていますが」
「彼女も、資産です」
鷹宮は、制御室の窓から、ホールの中心の、空っぽの籠を見下ろした。
「資産は、正しく配置されれば、正しく機能する。それだけのことです」
制御室のドアが、音もなく開いた。
入ってきたのは、黒い戦闘服を着た、細身の少年だった。十八歳くらい。整った顔立ち。なのに、どこか、印象に残らない顔だった。目を離した瞬間に、どんな顔だったか、思い出せなくなりそうな。
「呼んだ?」
「柊。〇〇一番の確保を、君に任せます」
「〇〇一番」
少年——柊鏡也は、退屈そうに、首を傾げた。
「あの運び屋?」
「そうです」
「で? 生け捕り?」
「生け捕りです。彼の脳が損傷すれば、接続体としての価値が下がる」
「くだらない」
鏡也は、肩をすくめた。
「動きを真似するだけの能力でしょ。自分の、下位互換」
「侮らないことです。彼は、満潮の夜に、九条斎を退けています」
鏡也の目が、ほんの少しだけ、細くなった。
「……へえ」
それから、少年は、ドアに向かって歩き出した。
「了解。持ってくる。荷物みたいに」
「柊」
鷹宮が、呼び止めた。
「その前に、一つ」
「何」
「写しは、今月、何回使いましたか」
鏡也の足が、止まった。
「……四回」
「控えなさい。君の顔が、また、記録から消え始めています」
鷹宮は、制御盤の脇に置かれた、一枚の写真立てを、ちらりと見た。
第一課の、集合写真。十人ほどの隊員が、並んで写っている。その、一番右端。
一人だけ、顔が、水に濡れた絵の具のように、ぼやけていた。
「どうでもいい」
鏡也は、振り返らずに言った。
「どうせ、誰も、覚えてないし」
ドアが、閉まった。
鷹宮は、しばらく、閉じたドアを見ていた。
それから、また、ホールの籠に、目を戻した。
——ごぉん。
どこか遠くで、何かが、鳴った気がした。
鐘ではない。もっと、柔らかい。もっと、かすかな。
まるで、誰かが、遠い場所で、歌を口ずさんでいるような。
研究主任が、怪訝そうに、天井を見上げた。
「……今、何か、聞こえませんでしたか」
「いいえ」
鷹宮は、言った。
「何も」
白い髪が、制御室の照明を受けて、冷たく光っていた。




