第一話_観察日記
九条凛は、手帳を持っている。
俺の黒い手帳とは違う。薄い水色の、表紙に小さな雪の結晶の模様が入った、文房具屋で売っていそうな手帳だ。
「それ、何?」
「業務日誌です」
「嘘だろ」
「嘘ではありません」
午前四時四十分。壁の、元・第四ゲート。満潮の夜に崩れた壁は、仮設の鉄板で塞がれ、零課の検問所が置かれている。その脇で、カラスのタイヤの空気圧を確かめていた俺の横で、凛は、水色の手帳に、何かを、さらさらと書きつけていた。
覗きこむ。
〈九月二十二日 篠宮迅について〉
〈・コーヒーはブラック。でも本当は牛乳を入れたい。人前では格好をつける〉
〈・カラスのキーホルダー(鍵)がなくなったことを、まだ時々、無意識に確かめる〉
〈・私のことを「九条」と呼ぶ。前もそうだった。変化なし〉
「……おい」
「見ないでください」
凛は、ぱたんと手帳を閉じた。
「業務日誌っつーか、俺の観察日記じゃねえか」
「業務です。あなたは記憶を失っています。私は相棒として、あなたが失ったものと、今のあなたとの差分を、記録しておく必要があります」
「差分」
「はい。差分です」
凛は、大真面目な顔で言った。
三週間前。相良運送の前で、凛は、俺に「はじめまして、じゃないです」と言った。
それから三週間、凛は、毎日のように、相良運送にやってくる。零課の任務のない日は、ほとんど毎日。配達についてきて、昼飯を食べて、ミナと機械の話をして、鉄さんと、黙って、テレビを見て、帰っていく。
俺は、相変わらず、何も思い出していない。
ただ、三週間分の、新しい凛が、俺の中に、少しずつ積もっていく。
コーヒーに砂糖を四つ入れる凛。ミナの機械談義に、真顔で「ほつれが三か所あります」と言う凛。鉄さんと並んで時代劇を見ながら、殺陣の場面になると、ほんの少しだけ、前のめりになる凛。
手帳に書く前に、覚えている。
覚えていられることが、なんだか、妙に、嬉しい。
「……で、俺がなんで牛乳入れたいって知ってんだよ」
「先週、あなたが、コーヒーの横に置いてある牛乳パックを、三回、見ていたので」
「見てねえよ」
「見ていました。三回」
「……二回だろ」
「三回です」
凛は、またカラスの後部シートに目を落として、ふと、手を止めた。
「篠宮」
「なんだよ」
「今日も、使わないつもりですか」
空気圧のゲージを持つ手が、止まった。
〈追想〉のことだ。
満潮の夜から、三週間。俺は、一度も、あの力を使っていない。
虚獣に追われた日もあった。崩れた歩道橋を越えなきゃいけない日もあった。そのたびに、素の体で、なんとかした。ミナの音響弾と、運び屋の勘と、カラスの脚で。
「……使わなくても、なんとかなってるだろ」
「なっていません。先週、旧晴海で、あと二秒遅れていたら、猿型に頭を持っていかれていました」
「二秒の余裕があったってことだろ」
「屁理屈です」
凛は、俺の顔を、まっすぐに見た。
「理由を聞いてもいいですか」
答えなかった。
答えなくても、たぶん、凛には分かっていた。
〈追想〉を使えば、何かが消える。何が消えるかは、選べない。
この三週間で積もった、新しい凛が、消えるかもしれない。
コーヒーの砂糖四つが。時代劇の前のめりが。「三回です」が。
「……そのうち、使うよ」
「そのうち、ですか」
「ああ」
凛は、しばらく、黙っていた。
それから、水色の手帳を開いて、また、何かを書いた。
今度は、覗かなかった。
*
灯台島は、満潮の夜を、生き延びた。
境界線が外に向かって溢れ出したとき、島はその中心側にあったから、むしろ、被害は少なかった。千代婆さんが、市場の屋根の赤い灯りを、一晩中、消さなかったらしい。「異常なし」の合図を、点滅させ続けた。
「異常だらけだったけどね」
千代婆さんは、そう言って、からからと笑った。
「でも、ここの連中は、あの灯りが点いてる限り、慌てないんだよ。慌てなきゃ、音も立てない。音を立てなきゃ、虚獣も来ない」
「……婆さん、すげえな」
「年の功だよ」
婆さんは、俺が運んできた段ボールを、杖の先で、こんこんと叩いた。
「米、缶詰、電池、薬。それと?」
「湊のジャンプ。最新号」
「よし」
婆さんは、満足そうにうなずいてから、俺の顔を、じっと見た。
鋭い目だった。マグロの目利きをしていた頃の名残だという、あの目。
「迅坊。あんた、何か、忘れちまったんだってね」
「……誰に聞いたんだよ」
婆さんは、顎で、市場の奥を示した。
凛が、湊と一緒に、段ボールを運んでいた。湊が缶詰の箱を抱えて、凛が米袋を肩に担いでいる。湊が何か話しかけて、凛が、真顔で、短く何か答えている。
「あの嬢ちゃんがね、この前、一人で来たんだよ。あんたが寝てる間に。甘酒を飲みに」
「……一人で?」
「一人で。で、甘酒を三杯飲んで、それから、ここの床に正座して、頭を下げてった。『篠宮が、しばらく配達に来られません。その間、私が代わりに来ます』ってね」
知らなかった。
手帳にも、書いていない。書けるわけがない。俺が、寝ていた間のことだ。
「十二日間、毎日、来たよ。あの細っこい体で、米十キロ担いでね。あんたのバイクみたいに静かには走れないから、歩いて。片道三時間」
「……」
「それで、最後の日にね、言ってたよ。『明日、篠宮が目を覚ましたら、私のことを、たぶん、覚えていません』って」
婆さんは、凛のほうを見たまま、言った。
「『それでも、いいんです。私が、覚えているので』ってさ」
市場の奥で、湊が、凛の刀を指差して、何か言っていた。凛が、少し困ったように、首を振っている。
——見るだけです。触ってはいけません。
ふいに、そんな声が、頭の中で、聞こえた気がした。
知らない声だった。
いや。
知っている、のかもしれない。
「迅坊」
「……ああ」
「あたしゃ、あんたが何を忘れたのか、知らない。でもね、忘れたもんは、取り戻せなくても、新しく積み直せる。米と同じさ。食ったら、また運べばいい」
婆さんは、俺の背中を、杖で、とん、と突いた。
「運び屋だろ。しっかり運びな」
*
「じんにいちゃん、きいて」
帰り際、湊が、俺のジャケットの裾を引っ張った。
「声」
「ちいさいこえで、いうから」
湊は、俺の耳に、口を寄せた。
「あのね、かねのおと、しなくなったでしょ」
「ああ。満潮のあとからな」
「そのかわりにね、よる、おうたが、きこえるの」
「……歌?」
「うん。とけいとうのほうから。ちいさい、ちいさい、おうた」
湊は、少し考えて、それから、小さな声で、口ずさんだ。
ふん、ふふん、ふん。
ふふん、ふん、ふーん。
——音程が、ずれていた。
ひどく、ずれていた。上がるべきところで下がって、伸ばすべきところで切れる。七歳の湊が下手なのかと思った。でも、たぶん、違う。湊は、聞いたとおりに、真似している。
聞こえてくる歌が、そもそも、下手なんだ。
「これね、まいばん、さいごまで、うたうの。とちゅうで、まちがえても、さいごまで」
——途中で間違えても、最後まで。
胸の奥で、何かが、引っかかった。
ジャケットの内ポケットの、黒い手帳。最初のほうの、ページ。
〈母さんの声。少し低くて、子守唄が下手だった。でも、いつも最後まで歌ってくれた。〉
——まさか。
「じんにいちゃん?」
「……湊。その歌、いつから聞こえる」
「えっとね、まんちょうの、つぎのひから」
時計塔のほうを、見上げた。
満潮の夜、俺が扉を閉じた、あの塔。
頂上の光は、もう、燃えてはいない。十五年前と同じ速さで、静かに、脈打っている。
何も、聞こえなかった。
俺の耳には。
「……篠宮?」
凛が、隣に立っていた。
「どうかしましたか」
「いや」
首を振った。
「なんでもねえ。帰るぞ」
手帳のページのことは、言わなかった。
まだ、言葉にできるほど、確かなものじゃなかった。




