第二話_第一課、来襲
帰り道。旧晴海通りを北へ。
壁の検問所まで、あと一キロのところで、凛が、俺の腰に回した腕に、力を込めた。
『止まってください』
インカムからの、鋭い囁き。
ブレーキをかける。カラスが、音もなく、瓦礫の陰に滑りこむ。
『どうした』
『検問所の様子が、おかしいです』
瓦礫の隙間から、前方を覗く。
壁の、仮設ゲート。いつもなら、零課の隊員が二人、退屈そうに立っている場所。
そこに、見たことのない装甲車が、三台、停まっていた。
黒い車体。側面に、白い文字。
〈特務局 第一課〉
『第一課?』
『鷹宮次長の、直属部隊です』
凛の声が、硬くなった。
『零課とは、別系統の、響者部隊です。普段は、霞が関周辺の警備しかしていないはずです。なぜ、こんなところに』
ゲートの前に、黒い戦闘服の隊員たちが、整列していた。十人ほど。全員が、銃を持っている。対虚獣用の、大口径の小銃。
その列の前に、一人だけ、銃を持っていない少年が、立っていた。
細身。黒い戦闘服。退屈そうに、両手をポケットに突っこんでいる。
顔が——
なんだろう。
見ているのに、うまく、頭に入ってこない。整った顔のはずなのに、目を離した瞬間に、どんな顔だったか、ぼやけていくような。
少年が、ふいに、こっちを見た。
瓦礫の陰に隠れた、俺たちのほうを。
まっすぐに。
「出てきなよ、運び屋」
少年の声が、裂界の静寂の中に、響いた。
大声じゃなかった。でも、よく通る、冷めた声だった。
「バイクの音、しないね。いい改造。でも、そっちの子の、息の音が聞こえる。寒いと、呼吸、浅くなるんだって?」
凛の腕が、強張った。
「篠宮迅。特務局第一課、柊鏡也。上の命令で、あんたの身柄を確保しに来た」
「……確保?」
思わず、瓦礫の陰から、声が出た。
「任意同行。ってことになってる。でも、拒否権はない」
少年——柊鏡也は、ポケットから、片手を出した。
一枚の紙を、ひらひらと振った。
「本日午前零時付けで、特務局第零課は、解体。全人員と資産は、第一課に統合。不破宗一郎課長は、重大な記録隠匿により、更迭」
「——っ!?」
凛が、息を呑んだ。
「九条凛隊員。あんたも、今日から、第一課所属。で、第一課の隊員としての、最初の命令」
鏡也は、紙を、ポケットに戻した。
「〇〇一番を、引き渡して」
*
「お断りします」
凛は、カラスの後部シートから降りて、瓦礫の陰を出た。
腰の雪代に、手を掛けている。
「命令書を、正式な経路で確認できるまで、私は、零課の隊員です。零課の任務は、民間協力者の保護です」
「零課、もうないけど」
「確認できるまでは、あります」
「融通利かないね」
「よく言われます」
鏡也は、ふっと、鼻で笑った。
「いいよ。どうせ、そう言うと思ってた。じゃあ、力ずくで」
鏡也が、片手を上げた。
第一課の隊員たちが、一斉に、銃を構えた。十の銃口が、俺たちを捉える。
「撃つな。〇〇一番は、生け捕り。九条は——まあ、手足くらいなら」
「九条!」
「下がっていてください」
凛の目が、すっと細くなった。
次の瞬間。
「〈断〉」
白い閃光。
十の銃口が、同時に、すぱりと、斬り落とされた。
隊員たちが、呆然と、短くなった銃身を見下ろす。
凛は、もう、次の一振りを構えていた。今度は、装甲車のタイヤ。三台分。逃げ道を、塞ぐために。
——そのとき。
鏡也が、凛を、見ていた。
じっと。
凛の刀を振る腕を。凛の目を。凛の、〈断〉を。
鏡也の瞳の奥で、何かが、ぎらりと、光った気がした。
「〈写し〉」
鏡也が、呟いた。
そして、何も持っていない右手を、横に、振った。
——すぱんっ。
音が、した。
俺の、すぐ横で。
ゆっくりと、視線を、下ろす。
カラスの、前輪が。
ミナが、チタンを混ぜて、「物理的に斬れないように設計した」と胸を張った、あの新しい前輪が。
きれいな断面を見せて、左右に、分かれて、倒れていった。
「…………」
「…………」
俺と凛は、同時に、二つになった前輪を見下ろした。
「……またかよ!!」
叫んでいた。裂界の中で。大声で。
「なんで毎回前輪なんだよ!! ミナに何て言やいいんだよ!!」
「篠宮、声」
「分かってるよ!!」
鏡也は、自分の右手を、不思議そうに見ていた。
「……ふうん。これが、ほつれ斬り。便利だね」
凛の顔が、真っ白になっていた。
「今の、は」
「自分の能力。〈写し〉。見た能力を、六十秒だけ、そのまま使える」
鏡也は、また、右手を振った。
凛の足元の、アスファルトに、一本の線が走る。
「あんたの断、もらった。あと五十秒」
*
そこからは、悪夢だった。
凛が刀を振る。鏡也が手を振る。
二つの〈断〉が、空中で、交錯する。
見えない斬撃と、見えない斬撃。凛が鏡也の首筋のほつれを狙えば、鏡也は、凛の斬撃そのもののほつれを、斬る。鏡也が凛の足元を狙えば、凛は、それを、雪代で、弾く。
瓦礫が、細切れになる。崩れた信号機が、輪切りになる。地面に、無数の線が、縦横に、走っていく。
俺には、何もできなかった。
素の体じゃ、近づくことすら、できない。あの見えない刃の嵐の中に、一歩でも踏みこめば、俺の体も、前輪と同じになる。
——使え。
頭のどこかで、声がした。
——〈追想〉を、使え。
何を触る?
この地面には、今、凛の動きが、何十と、刻まれている。凛の動きを借りれば、あの刃の嵐の中を、凛と同じように、動ける。
でも、借りたら。
何かが、消える。
この三週間の、何かが。
手が、地面の上で、止まった。
止まってしまった。
「三十秒」
鏡也が、数えていた。
その声が、震えていた。
鏡也の、唇が、紫色になっていた。
吐く息が、白い。指先が、がくがくと、震えている。
「……っ、なにこれ。寒すぎ」
「当然です」
凛が、静かに言った。
凛の唇も、紫色だった。でも、凛の指は、震えていなかった。
「〈断〉は、使うたびに、体温を奪います。私は、三年間、毎日、この寒さと付き合ってきました。あなたは、三十秒です」
「……っ」
「力は写せても、慣れは、写せないようですね」
鏡也の膝が、がくん、と落ちた。
その一瞬。
「篠宮! 走って!」
凛が叫んだ。
俺は、二つになった前輪を、無理やり、ハンドルごと持ち上げた。カラスの後輪だけで、走る。ウィリーの体勢のまま。ミナが見たら、泣くだろう。
「乗れ、九条!」
凛が、後部シートに飛び乗る。
アクセル。後輪が、アスファルトを噛む。前輪の残骸を空中に浮かせたまま、カラスが、瓦礫の間を、すり抜けていく。
「追え!」
第一課の隊員の声。でも、銃は、もう、全部斬られている。装甲車は、タイヤを斬られて、動けない。
背後で、鏡也が、地面に膝をついたまま、こっちを見ていた。
顔は、やっぱり、よく分からなかった。
でも、その目だけは、はっきりと、見えた。
悔しそうな、目だった。
それと、ほんの少しだけ——
羨ましそうな、目だった。
*
壁は、正面から越えられない。
だから、裏から越えた。
旧晴海の、運河沿い。崩れたフェンスと、廃棄されたコンテナの陰に、人ひとりとバイク一台が、ぎりぎり通れる隙間がある。俺が、ずっと使ってきた、違法な抜け道。
「……ここ、ですか」
「企業秘密っつったろ」
「今、まさに違法行為を目撃しています」
「今それ言う?」
隙間を抜けて、壁の外へ。
夜明け前の、東京の街。青い空の、まだ暗い部分。
後輪だけで走り続けたカラスが、とうとう、限界を迎えて、路肩に止まった。
俺も凛も、しばらく、何も言えなかった。
凛が、銀色の保温ボトルを取り出して、震える指で、蓋を開けた。ココアを、ひと口。それから、黙って、俺に差し出した。
受け取って、ひと口、飲んだ。
死ぬほど、甘かった。
「……零課、なくなったのか」
「確認できるまでは、あります」
「お前、それ、本気で言ってる?」
「…………」
凛は、答えなかった。
代わりに、凛の携帯電話が、鳴った。
凛は、画面を見て、一瞬、動きを止めた。
それから、通話ボタンを押した。
「九条です」
俺には、相手の声は、聞こえなかった。
ただ、凛の顔が、だんだん、白くなっていくのが、見えた。
「……はい」
「……はい。了解、しました」
「……はい」
通話が、切れた。
凛は、携帯電話を、ゆっくりと、下ろした。
「誰から」
「鷹宮次長、本人からです」
凛の声は、平坦だった。
いつもの、感情を丁寧に削ぎ落とした、あの声。
「零課の解体は、正式な決定だそうです。不破課長は、今朝、自宅で、身柄を拘束されました」
「……」
「私は、本日付けで、第一課に転属。そして」
凛は、一度、言葉を切った。
夜明け前の空を、見上げた。
「第一課隊員、九条凛への、最初の命令です。〇〇一番、篠宮迅を、四十八時間以内に、霞が関まで、連行すること」
凛は、俺を見なかった。
「拒否した場合、相良運送の関係者全員を、違法運送および結晶の不正取引の容疑で、逮捕する、と」
鉄さん。ミナ。
俺は、何も言えなかった。
凛は、水色の手帳を取り出した。
開いて、何かを、書こうとした。
でも、ペンの先は、紙の上で、止まったまま、動かなかった。
東の空が、少しずつ、白んでいく。
満潮の夜とは違う、本物の、朝の色で。
その光の中で、凛は、手帳を、ぱたんと閉じた。
「……篠宮」
「なんだよ」
「四十八時間、あります」
凛は、ようやく、俺を見た。
融通の利かない、真っ直ぐな目だった。
「考える時間は、まだ、あります」




