第三話_白い髪の次長
「二回目っすうううううう!!」
相良運送の整備場に、悲鳴が響き渡った。
ミナは、二つになった前輪を両腕に抱えて、床を転げ回っていた。
「チタン! チタン混ぜたのに! ほつれ全部埋めたのに! なんで!? なんで斬れるんすか!?」
「斬ったの九条じゃねえぞ。今回は別のやつ」
「誰っすか!? どこのどいつっすか!? 住所教えてください! ウチ、そいつの家の自転車、全部パンクさせに行くっす!」
「規模が小さい」
「ウチの怒りは小さくないっす!!」
ミナは前輪を抱えたまま、断面に頬ずりした。
「……でも断面、前回よりちょっと粗いっす。こっちは、ちょっとだけ、ためらいがあるっす」
「分かるのかよ」
「分かるっす。ウチ、職人なんで」
鼻をすすりながら、ミナは言った。
「斬ったやつ、たぶん、慣れてないっす。人の力、無理やり使ってる感じがするっす」
——力は写せても、慣れは写せない。
凛の言葉を、思い出した。
*
凛は、霞が関に向かった。
「報告に行きます」
壁の外で、夜明けの空の下で、凛はそう言った。
「命令を受けた以上、一度、出頭する必要があります。出頭しなければ、命令違反で、その場で、相良運送に捜査が入るかもしれません」
「……行って、どうすんだよ」
「状況を、確認します」
凛は、それしか言わなかった。
そして、俺を、相良運送の前まで送り届けて、歩いて駅へ向かっていった。振り返らなかった。
四十八時間。
その間に、凛が俺を連れていかなければ、鉄さんとミナが、捕まる。
「行かせねえ」
事務所の二階で、話を聞き終えた鉄さんは、それだけ言った。
左腕の三角巾は、もう取れている。でも、まだ、完全には治っていない。湯呑みを持つ手が、ほんの少しだけ、ぎこちない。
「鉄さん」
「お前を、国に売って、俺らが助かる。そんな取引、誰が飲むか」
「でも、鉄さんとミナが」
「捕まったら、捕まったで、なんとかする。俺は昔、もっとひでえところにいたこともある」
「ウチもっす!」
ミナが、整備場から、階段を駆け上がってきた。油まみれのまま。
「ウチ、家出してから、ネカフェとか公園とか、いろいろ泊まってきたっす! 留置所くらい、ホテルみたいなもんっす!」
「そういう問題じゃねえだろ」
「そういう問題っす!」
ミナは、ゴーグルを、ぐいっと額に押し上げた。目が、赤かった。泣いたあとだ。前輪のせいだけじゃ、たぶん、ない。
「迅さんがいなくなるほうが、ずっと、嫌っす」
俺は、何も言えなかった。
鉄さんが、湯呑みの茶を、ずずっとすすった。
「九条の娘は、どうするつもりだ」
「……分かんねえ」
「分かんねえか」
「あいつ、融通利かねえから。命令は命令です、って、真顔で連れてくかもしんねえ」
鉄さんは、鼻を鳴らした。
「融通の利かねえ奴ってのはな、坊主。自分で決めたことにも、融通が利かねえんだよ」
*
——霞が関、特務局本庁舎、十八階。
九条凛は、執務室の、革張りのソファに、背筋を伸ばして座っていた。
向かいに座る男は、白い髪をしていた。
四十五歳と聞いていた。でも、髪だけを見れば、六十を超えているように見える。顔の皺は少ないのに、髪だけが、雪のように白い。そのちぐはぐさが、どこか、不気味だった。
「九条凛隊員。お会いするのは、初めてですね」
鷹宮玲司は、丁寧に頭を下げた。
「急な異動で、混乱させてしまったことと思います。申し訳ありません」
「いえ」
「紅茶でよろしいですか。それとも、ココアのほうが?」
凛の指が、膝の上で、かすかに動いた。
「……紅茶で」
「承知しました」
鷹宮は、秘書に紅茶を頼むと、手元のタブレットを、凛のほうに向けた。
「単刀直入に、お話しします。私は、〇〇一番——篠宮迅を、国家の重要資産として、保護したいと考えています」
「保護」
「はい。彼は、残響層に直接接続できる、世界で唯一の人間です。その価値は、計り知れません。そして、その価値ゆえに、危険でもある。満潮の首謀者——あなたのお兄さんのような人物に、利用される危険が」
凛の背筋が、さらに、硬くなった。
「九条斎は、今も、裂界の中で、行方不明です。彼は、再び、〇〇一番を狙うでしょう。そうなる前に、私たちが、彼を、安全な場所で、保護しなければならない」
「安全な場所とは」
「霞が関の、地下施設です」
「そこで、篠宮は、何をするんですか」
鷹宮は、少しだけ、間を置いた。
「国家のために、働いてもらいます」
「具体的に」
「〈写し扉〉。本物の扉を模した、制御可能な、人工の扉です。〇〇一番には、その接続体になってもらう。残響層を、安全に、制御された形で、観測するために」
「観測して、どうするんですか」
「過去を、見るのです」
鷹宮の声が、ほんのわずかに、熱を帯びた。
初めて、感情らしきものが、その声に、混じった。
「残響層には、この世界のすべての動きが、記録されています。十五年前の零時に、何が起きたのか。三年前に、塔の最上階で、何が起きたのか。百年前の、千年前の、あらゆる出来事を、正確に、再生できる。誰が嘘をついたのか。誰が罪を犯したのか。すべてが、明らかになる」
「……」
「嘘のない世界。隠し事のない世界。九条隊員、それは、素晴らしいことだと、思いませんか」
凛は、答えなかった。
紅茶が、運ばれてきた。湯気が立っている。凛は、手をつけなかった。
「篠宮の、記憶は」
「はい?」
「篠宮は、力を使うたびに、記憶を失います。扉に接続し続けたら、篠宮は、どうなるんですか」
鷹宮は、タブレットの画面を、指で一度、滑らせた。
「最初の数日で、個人的な記憶の大部分は、失われると予測されています。ただし、接続体としての機能には、影響ありません。むしろ、余計な記憶がないほうが、接続は安定する」
凛の指が、膝の上で、白くなった。
「それは、保護では、ありません」
「定義の問題です」
鷹宮は、穏やかに言った。
「九条隊員。あなたのお兄さんは、満潮の首謀者です。本来なら、あなたも、共犯の疑いで、取り調べを受けるべき立場にある。しかし、あなたが〇〇一番を連れてきてくれれば、その件は、一切、不問にします。あなたは、第一課の、優秀な隊員として、正しく評価される」
「……」
「資産は、正しく配置されれば、正しく機能する。私は、あなたにも、正しい場所に、いてほしいのです」
凛は、ゆっくりと、立ち上がった。
「了解しました」
鷹宮が、満足そうに、うなずいた。
「四十八時間以内に、〇〇一番を、連行します」
「期待しています」
凛は、一礼して、執務室を出た。
廊下を歩く。エレベーターに乗る。
ドアが閉まった瞬間。
凛は、エレベーターの壁に、額を、ごつん、と押しつけた。
しばらく、そうしていた。
それから、顔を上げた。
エレベーターの壁に、第一課の広報用の写真が、貼ってあった。隊員たちの、集合写真。
その、一番右端の顔が。
水に濡れたように、ぼやけていた。
凛は、その顔を、じっと見つめた。
思い出そうとした。今朝、裂界の検問所で、凛の〈断〉を写した、あの少年の顔を。
——思い出せなかった。
声は、覚えている。冷めた、よく通る声。紫色になった唇も、覚えている。悔しそうな目も。
でも、顔だけが、どうしても、浮かばなかった。
エレベーターが、一階に着いた。
凛は、ポケットから、水色の手帳を取り出した。
歩きながら、書いた。
〈柊鏡也。第一課。〈写し〉。顔が覚えられない。たぶん、それが代償。〉
少しだけ、ペンが止まった。
〈篠宮と、少しだけ、似ている。〉




