第四話_首都高は貸し切り
凛が、相良運送に戻ってきたのは、その日の深夜だった。
「迎えに来ました」
整備場の、新しいシャッターの前で。
凛は、腰に雪代を差して、背中に、大きなリュックを背負っていた。
「……迎え、か」
俺は、カラスの横で、立ち上がった。
ミナが徹夜で付け直した前輪は、予備のアルミホイールだ。「ほつれとか、もう知らないっす。斬られたら、また作るっす」と言って、ミナは、整備場の床で、工具を抱えたまま、眠りこけている。
「霞が関に、連れてくのか」
「いいえ」
凛は、首を振った。
「逃げます」
「……は?」
「一緒に、逃げます」
凛は、背中のリュックを、どさっと床に下ろした。
「携帯食料、三日分。救急セット。予備の保温ボトル。ココアパウダー、一キロ」
「一キロ」
「必要です」
「必要か?」
「必要です」
真顔だった。
「鷹宮次長は、篠宮を、扉の部品にするつもりです。接続し続ければ、篠宮の記憶は、数日で、ほとんど消える。そう、本人が、言っていました」
「……」
「だから、連れていきません。私は、命令違反をします」
凛は、きっぱりと、言った。
「融通が利かないので」
——自分で決めたことにも、融通が利かねえんだよ。
鉄さんの言葉。
階段の上から、足音がした。
鉄さんが、降りてきた。手に、軽トラックのキーを持っている。
「話は聞いた」
「相良さん。すみません。私が篠宮を連れていかないと、相良運送の皆さんが」
「知ってる。だから、こっちも、こっちで、動く」
鉄さんは、キーを、ちゃりっと鳴らした。
「不破の野郎を、拾ってくる」
「課長を? でも、課長は、拘束されて」
「自宅軟禁だろ。あいつの家なら、知ってる。昔、何度か、酒を飲んだ」
鉄さんは、整備場の床で眠りこけているミナを、顎で示した。
「ミナは、俺が連れてく。あいつ一人、ここに置いとくわけにいかねえ」
「鉄さん、でも」
「坊主」
鉄さんは、俺の頭を、ぐしゃっと撫でた。
「お前は、九条の娘と、裂界に逃げろ。あそこなら、国の連中も、そう簡単には追ってこれねえ。灯台島の婆さんを頼れ」
「……」
「戻ってこいよ。今度も」
俺は、うなずいた。
うなずくことしか、できなかった。
*
午前二時。
相良運送を出て、三分で、見つかった。
「早すぎだろ!」
カラスの後部シートで、凛が、振り返る。
後方。黒い装甲車が二台。その上空に、小型のドローンが、四機。赤いライトを点滅させながら、俺たちを追ってくる。
「事務所を、監視していたようです」
「最初から分かってたのかよ!」
「可能性は、考えていました」
「言えよ!」
「言ったら、篠宮が、出発を渋ると思ったので」
図星だった。
交差点。赤信号。突っ切る。深夜の道路には、ほとんど車がいない。でも、いないってことは、こっちも、隠れる場所がない。
前方。交差点の向こうに、もう一台、装甲車が、横向きに停まって、道を塞いでいた。
「挟まれた!」
「右です!」
凛が、指差した。
右手に、高架へと続く、坂道。
首都高の、入口だった。
——晴海線。
満潮の夜、境界線が溢れ出したとき、湾岸の首都高は、全面通行止めになった。境界線が元に戻った今も、壁に近い区間は、まだ、閉鎖されたままだ。
閉鎖された高速道路。
壁の方角へ、まっすぐに、伸びている。
「行くぞ!」
車体を倒す。坂道を、駆け上がる。閉鎖を示すバリケードの、隙間を、すり抜ける。
高架の上に出た。
——広い。
片側三車線の、真っ暗な高速道路。街灯は消えている。車は、一台もない。ずっと先まで、何もない、灰色のアスファルトが、夜の中に、伸びている。
その先に、黒い壁。
壁の向こうで、薄紫色の光が、脈打っている。
「この先、壁の手前で、高架が崩れています」
凛が、インカム越しに言った。
「満潮の夜に。三十メートルほど、道路が、落ちています」
「三十メートル……」
「その手前で、下道に降りられる出口が、一つだけあります。そこから、壁の、あなたの抜け道まで」
「了解」
アクセルを開ける。
カラスが、真っ暗な高速道路を、無音で、疾走する。
ミラーに、装甲車のヘッドライト。バリケードを、なぎ倒して、高架に上がってくる。ドローンの赤いライトが、頭上を、旋回している。
でも、こっちのほうが、速い。
カラスは、ミナの最高傑作だ。直線なら、装甲車なんかに、負けない。
ミラーの中で、ヘッドライトが、少しずつ、小さくなっていく。
——行ける。
そう、思った瞬間だった。
ミラーの中に、何かが、映った。
ヘッドライトの間を、すり抜けて。
装甲車よりも、速く。
人間だった。
黒い戦闘服の、細身の少年が、高速道路の上を、走っていた。
足で。
自分の、足で。
「——は?」
カラスの速度計は、時速百キロを超えている。
なのに、少年は、ミラーの中で、どんどん、大きくなっていく。
追いついてくる。
「柊鏡也……!」
凛が、振り返った。
「〈写し〉です。第一課に、〈疾風〉という、高速移動の響者がいます。その力を、写している」
「あいつ、何でも写せんのかよ!」
「見たものなら、何でも」
鏡也が、並んだ。
カラスの、すぐ右横。
時速百キロで走るバイクと、並んで、走っている。
その顔が、こっちを向いた。
——やっぱり、顔が、分からない。
目と、鼻と、口があるのは分かる。でも、それが、どういう形なのか、頭に入ってこない。夜の闇のせいじゃない。見ているそばから、記憶の指の間を、すり抜けていく。
「よう、運び屋」
鏡也の声は、風の中でも、よく通った。
「止まれって言っても、止まらないよね」
「止まるわけねえだろ!」
「だよね」
鏡也の手が、カラスのハンドルに、伸びてくる。
「〈断〉——!」
凛が、後部シートから、刀を振った。
鏡也の、伸ばした手の先の、空気が、裂ける。
鏡也は、ひょいと、手を引っこめた。
「おっと。その力、また見せてくれるんだ。ありがと」
しまった、という顔を、凛がした。
「九条、使うな! あいつに見せたら、写される!」
「……っ、了解」
凛が、刀を、鞘に戻した。
鏡也が、笑った気がした。
「残り、四十秒。〈疾風〉が切れる前に、止めさせてもらう」
鏡也が、加速した。
カラスの前に、回りこむ。
時速百キロのまま、こっちを向いて、後ろ向きに走りながら、両手を、広げた。
「轢けるもんなら、轢いてみなよ」
——くそ。
ブレーキをかければ、後ろの装甲車に追いつかれる。
避ければ、高架の端の、防護壁に突っこむ。
前方。
闇の中に、オレンジ色の、点滅するライトが見えた。
〈この先 道路崩落 通行不可〉
その手前に、下道への出口。
鏡也は、その出口の、真正面に、立ちはだかるように、走っていた。
「……出口、塞がれた」
「篠宮」
凛の腕に、力がこもった。
「崩落地点まで、あと、五百メートル」
出口は、塞がれた。
後ろからは、装甲車。
前には、三十メートルの、崩落。
——跳ぶしか、ない。
でも、カラスの性能でも、三十メートルは、無理だ。俺の、素の腕でも、絶対に、無理だ。
だったら。
俺は、ハンドルから、片手を、離した。
高速道路の、防護壁に、手を伸ばす。
時速百キロで流れていく、コンクリートの壁。
指先が、掠める。皮膚が、削れる。
——流れこんでくる。
この高速道路に、刻まれた、無数の動き。
何万台もの車の、何十万回の走行。急ブレーキ。車線変更。居眠りの、ふらつき。
その中に。
ひとつだけ。
ひどく、強い、動きがあった。
十五年前。零時の夜。
この高速道路は、避難する車で、埋め尽くされていた。渋滞。クラクション。悲鳴。その、動かない車の列の間を、一台のバイクが、縫うように、走っていた。
白いバイク。
白バイだ。
後部座席に、誰かを乗せている。小さな、子供。
この先は、道路が、裂けていた。零時の夜の、最初の〈ずれ〉で。
白バイは、迷わなかった。
加速した。
跳んだ。
子供を、乗せたまま。
——この人は、渡りきった。
渡りきって、子供を、救急車に、預けた。
その動きの残響が、十五年間、この防護壁に、焼きついている。
三週間ぶりに。
今日、一回目。
——ごめん。
誰に謝ったのか、自分でも、分からなかった。
「〈追想〉」
体が、白バイ隊員になった。
知らない人の体の使い方。重心の置き方。ハンドルの握り方。加速のタイミング。
鏡也が、目の前に、いる。
この体は、ためらわなかった。
カラスが、鏡也に向かって、突っこむ。
鏡也が、目を見開く。とっさに、横に、跳ぶ。
出口を、塞いでいた体が、どく。
——でも、この体が、向かったのは、出口じゃなかった。
まっすぐ。
崩落地点へ。
「篠宮!?」
「掴まれ!!」
オレンジ色の、点滅ライト。
〈通行不可〉の看板。
その向こうの、闇。
カラスの前輪が、高架の、最後の縁を、蹴った。
——跳んだ。
世界が、無音になった。
風の音も、装甲車のエンジンも、ドローンのモーターも、何も、聞こえない。
真っ暗な空中を、カラスが、飛んでいる。
下には、何もない。崩れ落ちた、コンクリートと鉄骨の、谷。
前方に、向こう側の、高架の縁。
三十メートル。
届くか。
背中で、凛が、俺の腰に、全身で、しがみついている。
——この人も、こうだったのか。
十五年前、後ろに乗せた子供の、小さな腕の感触を、この体が、覚えている。
絶対に、落とさない。
絶対に。
——届いた。
後輪が、向こう側の、縁を、噛んだ。
車体が、跳ねる。前輪が、アスファルトを叩く。衝撃が、全身を、突き抜ける。
五秒。
体が、俺に、戻ってきた。
同時に、全身の筋肉が、悲鳴を上げた。ハンドルを握る腕が、震える。ブレーキ。カラスが、横滑りしながら、止まる。
頭の奥で、ぷつり、と。
何かが、消える。
——三週間ぶりの、あの感覚。




