第五話_砂糖は四本
振り返った。
崩落地点の、向こう側。
高架の縁に、鏡也が、立っていた。
〈疾風〉の六十秒は、もう、切れている。肩で、息をしている。膝に手をついて、こっちを、見ている。
三十メートルの、闇を挟んで。
「……なんで」
鏡也の声が、闇を渡って、届いた。
「なんで、そこまでして、逃げんの」
「配達があるからな」
俺は、叫び返した。
「お前らの荷物になる気は、ねえんだよ」
鏡也は、何も言わなかった。
しばらく、黙って、こっちを見ていた。
それから、ふっと、背を向けた。
装甲車のヘッドライトが、鏡也の背中を、照らした。
黒い戦闘服の背中は、細くて、どこか、頼りなかった。
*
下道に降りて、壁の抜け道を、くぐる。
裂界の、薄紫色の空。
旧晴海の、廃墟の中で、俺はようやく、カラスを止めた。
ヘルメットを脱ぐ。汗が、冷えていく。
「……生きてる」
「生きています」
凛も、ヘルメットを脱いだ。髪が、ぐしゃぐしゃになっていた。それを、手櫛で、無言で直している。
手が、まだ、少しだけ、震えていた。
「篠宮」
「なんだよ」
「使いましたね」
「……ああ」
「何が、消えましたか」
分からなかった。
まだ、分からない。手帳と、照らし合わせないと。
でも、凛には、それを、言いたくなかった。
「さあな。たいしたもんじゃねえだろ」
「……」
凛は、リュックから、保温ボトルを取り出した。予備のやつ。ココアを、蓋のカップに注いで、俺に差し出した。
「どうぞ」
「お前が先に飲めよ」
「私は後で」
「いいから」
「では」
凛は、カップに口をつけようとして、ふと、手を止めた。
リュックから、スティックシュガーの束を取り出す。
ココアに、砂糖を、入れる。一本。二本。三本。
「おい、入れすぎだろ。ココアだぞ、それ」
「いつもどおりです」
「いつもって」
「私は、いつも、砂糖を、四本入れます。コーヒーでも、ココアでも」
四本目を、入れた。
——四本。
知らなかった。
いや。
知っていた、はずだった。
今朝、凛の手帳を覗いたとき、俺は、自分のことしか、見ていなかった。でも、この三週間、凛がコーヒーに砂糖を入れるところを、俺は、何度も、見ていた。
砂糖、四つ。
覚えていた、はずだった。
手帳には、書いていなかった。書く前に、覚えていられることが、嬉しかったから。
「……篠宮?」
凛が、俺の顔を、覗きこんでいた。
何か、気づいたような顔で。
「なんでもねえよ」
俺は、目を逸らした。
凛は、何も言わなかった。
四本分の砂糖が溶けた、ココアのカップを、黙って、俺の手に、押しつけた。
それから、水色の手帳を開いて、何かを書いた。
今度は、隠さなかった。
俺の目の前で、大きな字で、書いた。
〈九条凛は、砂糖を四本入れる。篠宮が忘れたら、何回でも、教える。〉
手帳を閉じて、凛は、立ち上がった。
「行きましょう。灯台島まで、あと一時間です」
「……ああ」
ココアを、飲んだ。
四本分の、甘さだった。
舌が、この甘さを、知っている気がした。
*
灯台島に着いたのは、午前四時を、少し過ぎた頃だった。
旧豊洲市場の、屋根の上で、赤い灯りが、三回点滅して、一回、消える。
異常なし。
——その、はずだった。
市場の屋根の上に、誰かが、立っていた。
赤い灯りの、すぐ横に。
白い、詰襟の上衣。うなじで束ねた、黒い髪。腰に、黒い鞘の刀。
凛が、俺の背中で、息を、止めた。
屋根の上の男は、俺たちに気づくと、困ったような顔で、片手を上げた。
「やあ」
九条斎は、言った。
「言っただろう? 今度は、僕のほうから、会いに行くって」




