第六話_兄の頼みごと
「……で、なんであんたがここにいるんだい」
千代婆さんは、市場の奥の小部屋で、石油ストーブの前に、どっかりと座っていた。
向かいに、九条斎が、正座している。
背筋をまっすぐに伸ばして、膝の上に両手を置いて、まるで、先生に呼び出された生徒みたいに。
「三日前から、屋根の上にいたんだよ、この男。灯りの横で、じーっと座って。島の連中が、気味悪がってね」
「すみません。待っていたんです。篠宮くんと、凛が、ここに来るのを」
「なんで、ここに来るって分かったんだい」
「凛は、困ったとき、甘いものがある場所に行くので」
俺の隣で、凛の肩が、ぴくりと跳ねた。
「……兄さん」
「違ったかい?」
「違いません」
凛は、ものすごく不本意そうな顔で、千代婆さんが出してくれた甘酒の湯呑みを、両手で握りしめた。
千代婆さんは、ふん、と鼻を鳴らした。
「満潮のときの、首謀者だって聞いたよ。この島の連中も、何人か、怪我をした」
「……はい」
「あたしゃね、あんたを、許す気はないよ」
「はい」
斎は、目を伏せた。
「それでいいと、思います」
「でもね」
千代婆さんは、杖の先で、ストーブの上のやかんを、こん、と叩いた。
「腹を空かせた奴に、飯を食わせないほど、落ちぶれちゃいない。あんた、三日間、屋根の上で、何も食ってないだろ」
「……はい」
「食いな」
婆さんは、鍋の蓋を開けた。魚の煮つけの、いい匂い。
斎は、しばらく、鍋を見つめていた。
それから、深く、頭を下げた。
「いただきます」
*
斎が魚の煮つけを食べている間、俺は、ずっと、斎の顔を見ていた。
知らない顔だった。
手帳には、書いてある。〈刀は雪代。兄貴は生きてる。困ったような顔で笑うやつ。〉
確かに、困ったような顔で、笑う。凛と同じ、黒い髪。凛より、ずっと、穏やかな目。
満潮の夜、俺は、この男と、戦ったらしい。
この男の動きを借りて、この男を、退けたらしい。
何も、覚えていない。
「……篠宮くん」
斎が、箸を置いて、俺を見た。
「僕のこと、覚えていないんだね」
「……悪い」
「謝ることじゃないよ」
斎は、困ったように、笑った。
「扉を閉じるっていうのは、そういうことだから。……君は、僕の、三年前の一振りを、借りたんだ。紗月を助けようとして、間に合わなかった一振りを」
「……」
「僕は、それを、自分では、一度も見たことがなかった。君が、見せてくれたんだ。……ありがとう。それを、ずっと、言いたかった」
斎は、深く、頭を下げた。
覚えていないことに、礼を言われるのは、変な気分だった。
でも、嫌な気分じゃ、なかった。
「初めまして、じゃないんだけどね」
頭を上げて、斎は、少しだけ、いたずらっぽく言った。
凛が、甘酒を、むせた。
*
「本題に、入ろう」
斎は、湯呑みの茶を、ひと口すすって、言った。
「千鳥が、捕まった」
凛の手が、止まった。
「運河に、落ちたんじゃ」
「落ちた。それを、第一課が、拾った。満潮の夜の、翌朝に。……僕は、ずっと、運河沿いを探していたんだ。でも、見つけたのは、第一課の、回収車の轍だけだった」
斎の声は、穏やかなままだった。
でも、湯呑みを持つ指が、ほんの少しだけ、強く、湯呑みを握っていた。
「千鳥は、今、品川にいる。旧・国立界面物理研究所の、品川分室。零時の前に、研究所が持っていた、小さな研究施設だ。今は、第一課の、研究拠点になっている」
「なんで、千鳥を」
「千鳥はね、普通の響者じゃないんだ」
斎は、少しだけ、言い淀んだ。
それから、凛を見た。
「凛。千鳥は、何歳に見えた?」
「……十歳くらい、です」
「千鳥の本当の名前は、小鳥遊ちどり。十五年前の、零時の夜に、九歳だった」
「十五年前に、九歳」
凛が、繰り返す。
「じゃあ、今は、二十四歳……?」
「生きていれば、ね」
斎は、静かに言った。
「千鳥は、零時の夜に、死んだんだ。旧有明の、時計塔の近くで。そして、残影になった。……でも、塔の近くは、残響層が、とても濃い。濃すぎて、千鳥の残影は、ただ同じ数秒を繰り返すだけじゃなくて、少しずつ、少しずつ、形を、取り戻していった」
ストーブの火が、ぱちりと爆ぜた。
「三年前、僕が、紗月を失って、塔の中をさまよっていたとき。最上階の、階段の踊り場で、膝を抱えて座っている女の子を見つけた。半透明で、でも、こっちを見て、話しかけてきた。『お兄ちゃん、ちどりのこと、見えるの?』って」
「……」
「世界で、ただ一人の、形を持った、残影。それが、千鳥だ」
誰も、何も言わなかった。
——あの子が。
俺が、展示場の広場で、その歩き方を、借りた子が。
十五年前に、死んでいた。
「千鳥には、物を触る力も、幻を作る力もある。でも、本当は、死んでいる。体温もない。心臓も、動いていない。……でも、笑うし、泣くし、お腹が空いたって言う。お好み焼きが好きで、剛と、広島風か関西風かで、毎日、喧嘩している」
斎は、少しだけ、笑った。
「僕の、家族なんだ」
*
「鷹宮次長は、千鳥を使って、何を」
凛が、低い声で聞いた。
「写し扉の、制御だよ」
斎は、湯呑みを、床に置いた。
「残影が、どうやって形を持ったのか。残響層と、この世界の境目で、何が起きているのか。千鳥は、その答えそのものだ。千鳥を調べれば、扉を、思いどおりに制御する方法が、分かるかもしれない」
「調べる、って」
「解剖、という言葉は、使いたくないけどね」
斎の声は、変わらず、穏やかだった。
穏やかすぎて、背筋が、冷えた。
「僕は、千鳥を、取り返しに行く。明日の夜に。……一人で行くつもりだった。でも、品川分室には、もう一つ、大事なものがある」
斎は、俺を見た。
「篠宮恭一さんの、研究室だ」
——父さん。
「零時の前、恭一さんは、本館とは別に、品川分室に、個人の研究室を持っていた。そこには、本館にはなかった記録が、残っているはずだ。……恭一さんが、零時の夜に、本当は、何をしようとしていたのか」
「本当は、って」
「篠宮くん。君のお父さんが、扉を作ったのは、過去を観測するためじゃないかもしれない」
斎は、天井を、見上げた。
いや。
天井の向こうの、時計塔の方角を。
「この島の子が、夜、歌が聞こえるって言ってるだろう?」
俺の心臓が、跳ねた。
「……湊のこと、知ってんのか」
「三日間、屋根の上にいたからね。夜、湊くんが、屋根に上がってきて、隣に座って、歌ってくれた。下手な歌だった。……でも、僕は、その歌を、知っている」
「知ってる?」
「三年間、塔の中で、ずっと、聞こえていたから」
斎は、静かに言った。
「塔の、地下の、扉の奥から。満潮のあとは、少しだけ、大きくなった。……誰かが、歌っているんだ。扉の向こう側で」
ジャケットの、内ポケット。
黒い手帳の、最初のほうの、ページ。
〈母さんの声。少し低くて、子守唄が下手だった。でも、いつも最後まで歌ってくれた。〉
喉が、からからに、渇いていた。
「……誰が」
「それを、確かめに行くんだ」
斎は、俺を、まっすぐに見た。
「明日の夜。品川分室へ。千鳥と、恭一さんの記録を、取り返しに」
凛が、湯呑みを、床に置いた。
「兄さん。一つだけ、言わせてください」
「なんだい」
「兄さんが満潮を起こしたから、零課は、潰されました。不破課長は、拘束されました。篠宮は、記憶を失いました」
「……」
「私は、兄さんを、まだ、許していません」
「知っているよ」
「でも」
凛は、斎から、目を逸らさなかった。
「千鳥さんを、解剖させるわけには、いきません。……一緒に、行きます」
斎は、しばらく、凛を見つめていた。
それから、困ったような顔で、笑った。
「ありがとう、凛」
「お礼は、不要です」
「うん」
「千鳥さんを、助けたら、兄さんは、零課——いえ、私に、出頭してください」
「……考えておくよ」
「考えるのではなく、してください」
「凛は、本当に、融通が利かないね」
「兄さんに、似たので」
斎が、ふっと、吹き出した。
凛も、ほんの少しだけ、口の端を、緩めた。
千代婆さんが、やれやれと、首を振った。
「兄妹喧嘩は、外でやりな。あたしゃ、寝る」




