第七話_空からの客
異変が起きたのは、その日の、夕方だった。
——ぶうううん。
低い、羽音のような音。
市場の屋根の上で、湊と一緒に、壊れた太陽光パネルを直していた俺は、顔を上げた。
薄紫色の空に、黒い点が、いくつも、浮かんでいた。
ドローンだった。
十機。二十機。いや、もっと。
全部、真っ直ぐに、灯台島に向かってくる。
「第一課……!」
屋根の縁から、凛が、身を乗り出した。
「見つかったのか!?」
「違います。あれは、偵察機ではありません」
ドローンの腹に、何かが、ぶら下がっていた。
大きな、黒い、円筒。
スピーカーだった。
「——まずい」
凛の顔から、血の気が引いた。
次の瞬間。
——ピイイイイイイイイイイイイイッ!!
耳をつんざく、電子音。
ミナの音響弾と、同じ音。でも、何十倍も、大きい。二十機のドローンが、灯台島の上空で、一斉に、鳴り響いた。
裂界の、静寂が、引き裂かれる。
「虚獣を、呼んでる!」
あいつら、俺たちを、燻り出す気だ。
灯台島ごと。
周りの、崩れたビルの窓という窓から、硝子の獣たちが、顔を出した。
一斉に。
裂け目が、音のほうへ。
灯台島へ、向く。
「湊、下に降りろ! 婆さんに、みんなを奥に集めろって!」
「う、うん!」
湊が、屋根の梯子を、転がるように降りていく。
市場の周りに、硝子の擦れる音が、膨れ上がっていく。百。二百。満潮の夜ほどじゃない。でも、島の人間を、全員、呑みこむには、十分な数。
「〈断〉」
凛が、屋根の上から、刀を振った。
上空のドローンが、三機、まとめて、真っ二つになって、落ちる。
でも、音は、止まらない。残りの十七機が、鳴り続けている。そして、虚獣は、もう、来ている。
市場の、搬入口に、犬型の群れが、殺到する。
シャッターを、引き裂こうとする。
中には、島の人たちが。湊が。千代婆さんが。
「くそっ……!」
屋根から、飛び降りようとした。
その肩を、誰かが、掴んだ。
「篠宮くん。下がっていて」
斎だった。
いつの間にか、屋根の上に、立っていた。
斎は、黒い鞘の刀を、抜かなかった。
ただ、市場の搬入口に向かって、静かに、片手を、差し伸べた。
「〈凪〉」
——世界が、止まった。
いや、止まったんじゃない。
搬入口に殺到していた、百を超える虚獣の、すべての動きが、一斉に、勢いを、失った。
跳びかかろうとしていた犬型が、空中で、ゆっくりと、ゆっくりと、漂う。シャッターを引き裂こうとしていた猿型の爪が、シャッターの表面で、ぴたりと、止まる。
まるで、時間そのものが、凪いだ海のように、静まり返ったみたいに。
「……すげえ」
思わず、声が出た。
「長くは、もたない」
斎の額に、汗が、滲んでいた。
「凛」
「分かっています」
凛が、屋根の上から、刀を振った。
一振り。止まった犬型の核が、五つ、まとめて砕ける。
二振り。猿型が、七体。
三振り。
凛の唇が、紫色になっていく。でも、止まらない。
斎が止めて、凛が斬る。
何も、言葉を交わさずに。
まるで、何百回も、そうしてきたみたいに。
——兄に剣を教わった、と凛は言っていた。手帳に、書いてある。
これが、その、兄妹なのか。
俺は、屋根から飛び降りて、上空のドローンに向かって、石を投げた。素の腕で。当たるわけがない。でも、何かしなきゃ、いられなかった。
ドローンは、まだ、十機以上、鳴り続けている。
虚獣が、次から次へと、湧いてくる。斎の凪の範囲の外から。
「数が、多すぎる……!」
斎の声が、苦しげになる。
凛の刀が、震え始める。
——〈追想〉を。
何か、使えるものは。
地面に、手を、伸ばしかけた。
そのとき。
市場の、屋根の上で。
小さな声が、聞こえた。
ふん、ふふん、ふん。
ふふん、ふん、ふーん。
——湊だった。
梯子を降りたはずの湊が、また、屋根に、戻ってきていた。
屋根の縁に、立って。
時計塔の方角を、見つめながら。
歌っていた。
あの、下手な歌を。
音程の、ずれた。上がるべきところで下がって、伸ばすべきところで切れる。
ドローンの電子音に比べたら、蚊の鳴くような、小さな声。
なのに。
市場の周りの、虚獣たちの、動きが。
止まった。
斎の凪じゃない。凪の範囲の外の虚獣まで。
一斉に。
裂け目が、ドローンからそれて、ゆっくりと、湊のほうを、向いた。
襲いかかろうとは、しなかった。
ただ、じっと、聞いていた。
硝子の体が、ほんの少しだけ、輪郭を、緩めた気がした。
ふん、ふふん、ふん。
ふふん、ふん、ふーん。
湊は、途中で、一回、音を外した。
それでも、最後まで、歌った。
——途中で間違えても、最後まで。
歌が、終わった。
虚獣たちは、しばらく、そのまま、動かなかった。
それから。
一匹、また一匹と、背を向けて、崩れたビルの陰へ、帰っていった。
ドローンの電子音が、まだ、鳴り響いているのに。
まるで、もう、そんな音は、どうでもいいみたいに。
*
凛が、残ったドローンを、すべて、斬り落とした。
静寂が、戻った。
斎は、屋根の上に、膝をついていた。肩で、息をしている。凛も、刀を杖にして、なんとか、立っていた。
俺は、湊の前に、しゃがみこんだ。
「湊。今の、なんで」
「わかんない」
湊は、首を傾げた。
「なんかね、うたったほうがいいって、おもったの。あのこたち、さみしそうだったから」
「さみしそう?」
「うん。おうた、ききたいのかなって」
湊は、あくびを一つした。
「よる、いつもね、あのこたちも、きいてるんだよ。とけいとうの、おうた」
俺は、何も言えなかった。
斎が、ゆっくりと、立ち上がった。
湊を見下ろして、それから、時計塔の方角を、見つめた。
「……やっぱり、そうか」
「何が」
「虚獣は、記憶を、食べにくる。形を持てなかった記憶の、残りかすが、形を求めて。……でも、あの歌は、たぶん、虚獣たちが、ずっと、聞いてきた歌なんだ。十五年間。いや、もっと前から」
斎は、俺を見た。
「扉の向こうで、歌っている誰かは、虚獣たちを、宥めてきたのかもしれない。残響層の中で、ずっと、一人で」
——母さん。
口に出しそうになって、飲みこんだ。
まだだ。
まだ、確かめていない。
「篠宮くん」
斎が、言った。
「明日、品川分室で、恭一さんの記録を、見つけよう。たぶん、そこに、答えがある」
俺は、うなずいた。
時計塔のほうを、見上げた。
何も、聞こえなかった。
俺の耳には、やっぱり、何も。
——なんで、俺だけ、聞こえないんだよ。
湊には、聞こえる。斎にも、聞こえていた。
俺だけが。
母さんの声を、忘れた俺だけが。
*
その夜、凛は、市場の屋根の上で、膝を抱えて座っていた。
俺が、梯子を上がっていくと、凛は、振り返らずに、言った。
「眠れないんですか」
「お前もだろ」
「はい」
隣に、座る。
赤い灯りが、三回点滅して、一回、消える。そのたびに、凛の横顔が、赤く染まって、また、暗くなる。
「兄さんと」
凛が、ぽつりと言った。
「並んで、戦ったのは、三年ぶりでした」
「……そっか」
「体が、覚えていました。兄さんが止めたら、私が斬る。子供の頃から、何百回も、稽古で、そうしてきたので」
凛は、膝を、強く、抱えた。
「まだ、許していないんです。本当に」
「分かってるよ」
「でも、三年ぶりに、並んで、戦って」
凛の声が、少しだけ、震えた。
「……少しだけ、嬉しかったんです」
何も、言わなかった。
言わなくても、いい気がした。
しばらく、二人で、黙って、赤い灯りの点滅を、数えていた。
三回点滅して、一回、消える。
三回点滅して、一回、消える。
「篠宮」
「なんだよ」
「高速道路で、何が、消えましたか」
——砂糖、四本。
凛は、気づいていた。
あのとき、俺の顔を見て、気づいていた。
「……たいしたもんじゃねえよ」
「それは、二回目です。その返事は」
「…………」
「私のこと、ですか」
答えなかった。
答えなくても、凛には、分かっていた。
凛は、しばらく、黙っていた。
それから、水色の手帳を、取り出した。
開いて、俺に、見せた。
今日、カラスの横で、書いたページ。
〈九条凛は、砂糖を四本入れる。篠宮が忘れたら、何回でも、教える。〉
その下に、新しい行が、増えていた。
〈篠宮は、私のことを忘れるのが怖くて、力を使えない。〉
〈でも、私は、篠宮が力を使えないせいで、篠宮が死ぬほうが、ずっと怖い。〉
〈だから、何回忘れられても、いい。何回でも、自己紹介する。〉
〈はじめまして、じゃないけど。〉
俺は、そのページを、長いこと、見ていた。
赤い灯りが、三回点滅して、一回、消えた。
「……お前さ」
「はい」
「これ、業務日誌じゃねえだろ」
「業務日誌です」
「嘘つけ」
「……嘘です」
凛は、手帳を、ぱたんと閉じた。
顔を、膝に、埋めた。
耳が、赤かった。
赤い灯りのせいじゃなかった。たぶん。




